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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 戦前から戦後間もないころの駅

 (1) 戦前の輸送

 出目駅に勤務されていた高田直義さんは、戦前の駅の様子について、次のように話してくれた。
 「私が出目駅に勤め始めたのは昭和19年(1944年)です。そのころは戦時中ですから、軍事物資を中心とした物資輸送施策のために、鉄道の運行数が1日に5、6往復に減らされていただけでなく、乗客数にも割り当てがあり、1列車で30枚くらいしかありませんでした。駅長や駅員が番号札を配っていましたが、『病院に見舞いに行かなければならないので、汽車に乗せてくれ。』とお客さんから泣きつかれたこともありました。
 また、日吉(ひよし)村からの省営バスは出目駅が終着でした。当時のバスは木炭車だったので、しょっちゅうバスが遅れていましたし、バスに人が満杯に乗って来ていたので、列車の時刻に間に合わないことがよくありました。列車は運行本数が本当に少なく、その一つに遅れたら長い時間待たないといけなかったので、そのときはバスの到着を待ってからお客さんに列車に乗ってもらっていました。」

 (2) 軍事物資の輸送

 毛利範男さんは、戦時中の近永駅での物資輸送について、次のように話してくれた。
 「戦時中は、軍事物資が近永駅まで来ていました。軍事物資の運搬の際には、貨車を15両は連結させる必要がありましたが、そうすると近永駅だけでは貨車を止めることができなかったので、アルコール工場まで続いていた引き込み線へ貨車1両分を送り、それから終点である吉野生駅まで貨車を進めていました。吉野生駅付近にある隧道(すいどう)が軍事物資を置く倉庫になっていたので、軍事物資を置いてから、再び近永駅に戻るということを繰り返していました。機関車には憲兵が常に乗っていて、監視をしていたことをよく憶えています。」

 (3) 鉄道による買い出し

 高田直義さんは、戦前から戦後間もないころにかけてよく行われていた買い出しについて、次のように話してくれた。
 「配給制が行われていたころは物資が相当に少なく、食べるものも少なかったので、多くの人が駅の辺りまで買い出しに来ていました。当時は、宇和島近辺の海岸の方から海産物などを運んで来ていた担ぎ屋さん(行商の人)が、米やどぶろくなどと交換したり買ったりして闇取り引きをしていたのです。しかし、物資統制の時代で警察による取り締まりが厳しく、多くの品物が没収されていました。務田(むでん)駅(宇和島市)から各駅ごとで取り締まりが行われていたことを憶えています。担ぎ屋さんの中には、品物をそこら辺に放って逃げていた人もいましたし、捕まえられると、『こらえて(許して)くれ。』と、頭を下げている人もいました。また出目駅では、香具師(やし)が駅前で行っていた賭け事の取り締まりもされていました。警察の取り締まりに気付いて、ぱっと逃げて行った人を見たことがあります。」