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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 国鉄の貨物輸送

 (1) 各駅の貨物輸送 
 
ア 深田駅

 梅﨑乙彦さんは、深田駅での貨物の取り扱いについて、次のように話してくれた。
 「貨物を取り扱っていたころは、深田駅にもまだ駅舎があり、職員が2人ほど常駐していました。南予通運に勤めていた私の父が、日吉村から運ばれて来た薪や炭を貨車に積み込んでいたことや、貨物が三島(みしま)(現鬼北町)から大量に運ばれて来ていたことをよく憶えています。昭和20、30年代は、日吉村から運ばれて来る薪や炭の量があまりにも多かったので、各駅ごとに分散させて積み込んでいました。そのほうが貨車の回りも良いですし、1駅だけにしていたら貨車がなかなか回って来ないのです。当時は、日吉や三島の農協や個人の薪炭の取り扱い業者の人がトラックで各駅まで運んでいました。送られてきた薪や炭の量が上屋に入りきらないくらい多かったので、雨から薪や炭を守るためにシートを被せていました。炭などを濡らしたら、価値がなくなってしまうので大事(おおごと)でした。そして、貨車に薪や炭を積み込む際は、当時あった側線を利用して積み込み作業を行いました。当時は深田駅に限らず、どの駅にも側線がありました(写真3-2-1参照)。」

イ 近永駅

 (ア) 側線の利用

 梅﨑乙彦さんは、昭和29、30年(1954、55年)に近永駅に勤務されていた。そのころの近永駅の貨物輸送について、次のように話してくれた。
 「近永駅にも薪や炭、木材が日吉村からトラックで運ばれて来ていました(写真3-2-2参照)。近永の商店街を通り抜けたトラックは、近永駅西側にある踏切を北から南(北宇和高校の方向)へ渡ってすぐに東へ進み、側線付近にあった上屋へ物資を届けていました。上屋を側線付近に設置していたのは、本線沿いだと貨車への積み込みができないからです。また、積み込みがしやすいように、側線のプラットホームが本線のそれよりも少し高く造られていました。確か、貨車の床の位置と同じくらいの高さだったと思います。貨物輸送を取り扱っていた南予通運は宇和島に本社が、支店が深田や近永、出目の各駅にありました。近永駅には積み込み作業員の方が4、5人おり、貨物専用で積み込みをしていたことをよく憶えています。
 昭和30年(1955年)ころは、石油が主流ではなく、木炭や薪が主に燃料として使用されていて、都市での消費量もかなり多かったので、近永駅から各都市へそれらを送っていました。また、近永には製紙会社の支店があり、パルプにするための材木を近永駅から運び出していました。」

 (イ) アルコール工場への引き込み線

 高田直義さんは、アルコール工場への引き込み線について、次のように話してくれた。
 「近永のアルコール工場は、昭和16年(1941年)に運転を開始し、サツマイモを原料にアルコールを生産していました。今は住宅地に変わってしまっていますが、近永駅からアルコール工場の中まで線路が敷設されていて、生産されたアルコールがタンク車で近永駅まで運ばれ、そこから宇和島駅へ、さらに神戸(こうべ)まで運ばれていました(写真3-2-3参照)。近永駅では、アルコールを積んだタンク車を混合列車(貨車と客車の混合)に連結して引っ張っていて、宇和島駅からは、客車を切り離し、貨物専用列車にしてアルコールを運んでいました。宇和島線の列車は、普通貨車と客車の混合編成で5、6両でした。」
 梅﨑乙彦さんは、引き込み線について、次のように話してくれた。
 「駅からアルコール工場まで、かなり距離がありましたが、アルコール工場の敷地の中まで専用の引き込み線が続き、工場の敷地内には、近永駅の側線と同じくらいの高さのプラットホームのようなものがあり、コンクリートでできていました。アルコールを工場から出荷するときは、アルコールを満載したタンク車を工場の職員が手で押して近永駅まで移動させ、宇和島行きの列車が到着したら、その機関車(機関車と貨車が連結している場合もあった)の部分だけを後ろ向きで引き込み線に入れ、タンク車と連結させて本線まで移動させ、客車または貨車と連結させていました。」
 アルコールの原料となるサツマイモを運んだ貨車の取り扱いについて、高田直義さんは次のように話してくれた。 
 「貨車は宇和島へ戻りますが、宇和島に置かれた国鉄の指令室から、『マンガン鉱を積むために出目駅へ行ってほしい。』と指令が出ることもありました。そのときには、近永駅から出目駅へ空の貨車を移動させ、マンガン鉱を積み込みました。これは、各駅から宇和島の指令室への1日の貨物の取り扱い状況の報告を受けてのもので、宇和島の指令室は松山や阪神方面から来る貨物の状況を把握していたので、例えば、『松山から来た荷物を近永駅で降ろしてから、その貨車を出目駅に回してほしい。』というように、指令を出すことができるのです。ただし、四国の場合、阪神方面や東京方面に貨物を出すことはありますが、こちらに来る貨物が少ないので、貨車の回りは悪かったです。」

ウ 出目駅

 出目駅に長く勤めた高田直義さんは、駅での貨物輸送について、次のように話してくれた。
 「出目駅から貨物で運んだのは、木炭やマンガン鉱が中心です。また、三島の繊維類や船に使用する竹の繊維(竹を砕いた繊維)を輸送していたこともあります。マンガン鉱や木炭はトラックで運んでいましたが、今と違って馬力がなかったので、坂道を進むことができず、幼い私がトラックを後ろから押したことがあることを今でも憶えています。トラックで運ばれて来た貨物は、南予通運出目営業所に勤務する10人ほどの従業員が貨車に積み込んでいました(写真3-2-4参照)。
 駅前の広場に降ろされたマンガン鉱をシャベルで積み込んでいましたが、ときには駅員が積み込みの手伝いをしていたこともありました。そして、積み込まれたマンガン鉱は、神戸へ送られていました。また、小荷物については、マンガン鉱と同様、南予通運の従業員を中心に駅員も積み込みを手伝っていましたが、運搬は南予通運だけでなく、国鉄も行っていました。貨物の輸送準備が整うと、出目駅の職員が、発送駅名や到着駅名、物品名、送り主名、受取人名等が記載された貨物通知書を発行し、荷物と一緒に列車に積み込んでいました。
しかし、出目駅は昭和46年(1971年)に貨物の取り扱いが廃止されたため、貨物の輸送は自動車のみを利用することになったと思います。
 毎年一度、土居(どい)村(現西予〔せいよ〕市)のマンガン鉱山で働く従業員や坑夫たちによるお祭りがあり、国鉄の職員が招待されていて、私も行ったことがあります。マンガン鉱のお祭りはなかなか賑(にぎ)やかで、劇場(芝居小屋)を全館あげて、地域の名士、鉱山の従業員、国鉄の職員などが集う、あの当時としては盛大なお祭りでした。」

エ 物資輸送

 梅﨑乙彦さんは、近永駅に送られていた物資について、次のように話してくれた。

 (ア) 新聞、映画フィルム

 「各駅で降ろすための新聞は、車掌室近くにあった荷物置き場に積んでいました。稀(まれ)に積み忘れがあり、そのようなことがあったときには、駅まで新聞を取りに来ていた配達業者から、『それは困る。』とやかましく言われてしまって、本当に困ってしまったことをよく憶えています。あるときには、電話で確認をしてみたら、宇和島駅の方で滞っていたこともありました。
 また、近永に映画館(近劇、旭座)ができてからは、映画フィルムを布の袋に入れて、近永駅まで送られて来ていました。届いたフィルムは車掌が降ろして駅まで取りに来ていた映画館の人に渡し、映画の上映が終われば駅の職員がほかの小荷物とともに列車に積み込み、車掌がきちんと仕分けをして、送付先と個数を書いた札を作り、数の確認を行っていました。」

 (イ) 雑誌

 「近永に書店があったので、そこに置かれる雑誌などが何十個も包みの状態で送られて来ていました。書店の方が駅まで取りに来たときに、雑誌などの冊数を記入した用紙を見せ、確認してもらってから渡していましたが、もし不着があったときには再配達を依頼して送ってもらっていました。また、売れなかった雑誌を返品するために、書店が雑誌などを再び梱包して持って来ることもあったので、書店の方が持って来た雑誌の冊数を確認して列車に積み込み、出版社に送り返していました。」

オ 貨車の手配

 貨車の連結方法や手配について、梅﨑乙彦さんは次のように話してくれた。
 「貨車を連結させるときは、適当につなぐのではなく、配車指令掛の指示に従って連結させていました。宇和島線はまず貨車と客車を混合させて連結させるのですが、宇和島駅で貨車専用に連結し直していたので、遠い所へ行く貨車を一番後ろにつなぎ、最初に開放(分離)する貨車を一番前にするようにしていました。宇和島にある配車指令掛から各駅へ、『この貨車を何両目に付けてほしい。』という連絡が来ていたので、その指示に合わせて貨車を連結させていました。また、各駅の貨物担当者が配車指令掛に貨車請求をしていました。請求すると空いている貨車を送ってきてくれるのですが、ミカン栽培の繁忙期には、立間(たちま)(宇和島市)や八幡浜(やわたはま)などのような、ミカンの生産が盛んな地域に貨車を回していたため、近永のある宇和島線にはなかなか貨車が回ってくることがなく、来たとしても屋根の付いていない貨車が来るということがたまにあったことを憶えています。特に年末になると、貨車を回してもらえることは少なく、正月明けになることが多かったので、炭や薪については、商店から『品切れになるから送ってくれ、送ってくれ。』と請求があっても、ミカンなどの生ものの方が優先されていたので品物を送ることができず、大変でした。
 アルコールを運ぶタンク車はアルコール運搬専用で、神戸へアルコールを送り、空車になったら近永に帰って来ていました。ただ、アルコール工場は全国にあったので、そちらへ回すこともありました。近永専用のタンク車というわけではなかったのですが、運行回数があまり多くなかったので、すぐに近永に帰って来ていました。」

カ 側線を使った貨車の移動

 梅﨑乙彦さんは貨車の移動について、次のように話してくれた。
 「宇和島からの混合列車が近永駅に着いたら、機関車は貨車を2、3両連結していたので、機関車と空の貨車をほかの車両から開放します。機関車と空の貨車がポイントを過ぎるまで出目駅の方向へ進み、ポイントを過ぎた所で戻り、下りの側線に入ります。そこで貨車を開放したら、今度は機関車が再び出目駅の方向へ進み、ポイントを過ぎたら駅の方へ戻り、再び連結して出目駅へ向かいます。下りの側線に入れた貨車は、積み込みをするために手押しで上屋の所まで移動させていました(図表3-2-1参照)。
 近永駅から貨物を出す場合は、上りの本線で機関車とほかの車両を開放して、機関車は深田駅の方向へ進み、ポイントを過ぎた所で戻り、側線へと入って貨車と連結します。連結した機関車は、再び深田駅の方向へ進み、ポイントを過ぎた所で駅へ戻り、客車と連結して深田駅へ向かいます。近永駅は、上り、下りの本線とアルコール工場へ行く引き込み線、上り、下りの側線があり、下りから上りの側線への貨車の移動は、駅の職員も南予通運の作業員も一緒に貨車を手押しで上屋まで移動させていました。」


写真3-2-1 深田駅の側線跡と上屋跡

写真3-2-1 深田駅の側線跡と上屋跡

鬼北町 平成28年12月撮影 線路の右側に側線が、階段を上った場所に上屋があった。

写真3-2-2 近永駅の側線と上屋跡

写真3-2-2 近永駅の側線と上屋跡

鬼北町 平成28年12月撮影

写真3-2-3 アルコール工場の引き込み線跡

写真3-2-3 アルコール工場の引き込み線跡

鬼北町 平成28年12月撮影 線路と建物の間の空き地がアルコール工場の引き込み線跡で、手前側にアルコール工場があった。

写真3-2-4 出目駅の貨物ホーム跡

写真3-2-4 出目駅の貨物ホーム跡

鬼北町 平成29年2月撮影