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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)対馬における睦月出身者の活躍

 ア 対馬と睦月行商との関わり

 現在(平成3年)において、対馬で8名の睦月出身者が活躍している。8名とも衣料品販売に携わり、内5名が厳原(いずはら)町内に店舗を構え、その中の4軒は子息が後を継いで、地元の女性と結婚されるなどして完全に対馬に定住し、中堅企業家として地域に貢献されている。睦月の人々が、対馬でこのように定住・発展できたのはなぜであろうか。その点を、対馬において行なった聞き取り調査をもとに考えてみたい。
 対馬に定住した理由について、お話を伺った人が異口同音に「対馬の人がいいことに誘われこちらに残ることになった」と言われた。その点をまとめると以下の3点に集約される。一つは「素朴で人情味が深く種々の親切を受けたということ」、二つ目に「外来者(よそ者)に対して排他的なところがほとんどない」ということである。二番目の点については、対馬が日本の国境に位置し、太古より外部との交易交流が盛んであったこと、また江戸時代より現在にいたる漁業の発展で、他地域からの漁業者が多数来島・定住してきたことが、その背景にあるのではなかろうか。三つめに「島として交通上孤立しているため、商売ずれがしておらず、商品が売りやすい」ということである。特にいかを中心に漁業が戦前・戦後と大発展し、最近は真珠養殖が盛んであるなど、対馬各戸に経済的余裕があったことが、睦月の行商者が多く来島した理由でもあろう。
 上記のような事情を背景に、戦前から対馬には睦月行商者が多く訪れていた。しかし現在対馬に定住している人々は、全員が定価・正札による月賦販売で顧客を獲得してきた人のみである。それは睦月行商が哀退し始めた昭和30年代に、それまでの現金売りから月賦販売に切り換わっていった行商全体の動向と軌を一にしている。月賦販売から定住し店舗を開いていった対馬における睦月出身者の活動は、(島という枠の中で)行商全体の変化を示す最適のサンプル(例)と言えよう。そのような観点から、対馬における調査内容を以下にまとめてみた。
  
[対馬に関するメモ]

 1 対馬とはどのようなところか

 対馬は玄界灘に浮かぶ大小98の島より成る。九州博多からは132km、島の北端から朝鮮半島までが53kmで(⑱)、晴れた日には釜山の山並みを遠望でき、昔は対馬の北端から釜山まで八挺櫓(はっちょうろ)の小型船が18時間で漕ぎ渡った(⑲)という、文字通りの国境の島である。
 本島は東西約18km、南北82kmと細長く、総面積は約708km²で島としては淡路島・佐渡島に次ぐ広さである。平地が少なく面積の89%を山林が占めており、また山々の傾斜も急で海岸線近くまで、標高500m近い山がせりだしている(⑱)。典型的なリアス式海岸で、中央部の浅芽(あそう)湾が特に有名であるが、それ以外にも多くの湾が形成されている。対馬海流による複雑な潮流の流れと多くの岩礁のおかげで、周辺海域は全国屈指の好漁場を形成している。またツシマウマ、ツシマジカ、ツシマオオサンショオウオなど、孤島としての隔絶性により守られた珍種も多く、一方でツシマヤマネコ、コウライキジ、アキマドボタルなど大陸系と思われる生物も多く生息し、生物学的にも大陸の窓口であった過去をしのばせる(⑱)。
 交通としては昔から福岡県との結び付きが強いにもかかわらず、行政区画上は長崎県に所属している(空路は対馬-福岡間1日6便、対馬-長崎間は1日2便で、また海上航路は博多港・小倉港等の福岡県向けのみである)。上県郡と下県郡とに分かれ、上対馬(かみつしま)町、上県(かみあがた)町、峰(みね)町、豊玉(とよたま)町、美津島(みつしま)町、厳原町の6町より成る。対馬全体の人口は、昭和60年の国勢調査では、47,873人であり、この30年間で約2万人の減少が見られ、過疎化の傾向が強い。急峻な山並みが続き湾も内陸深く入り込んでいるため、戦前までは島内の交通といえば徒歩か船しか頼るものがなかったが、数十年来の努力により現在は舗装道路が完備し、車で全島を循環できる。
 産業面では、厳原町を除く5町は、水産業(イカ釣り中心に採草・定置網等の漁業、真珠生産等の養殖業)と農林業(しいたけ栽培にも特色)が経済の中心である。ただ厳原町だけは、旧国府・城下町であり、現在も官公庁が集中し、交通等の中心地であることから、第3次産業の就業者比率が3分の2を占める(⑳)。また明治以降の遠洋漁業の発達から、対馬には広島・山口・島根等の他県からの定住者が多いのも、一つの特色と言える(㉑)。
 睦月出身者が多く定住している厳原市街は、宗(そう)氏の城下町であり現在も対馬の交通経済の中心である。睦月の行商者が対馬でよく利用した「郷宿(ごうしゅく)」とは、島内の各集落が設置したもので、江戸時代に集落の代表者が藩主に貢税の納入手続きや嘆願をするための宿泊地として利用(㉒)した。自炊が原則で宿賃が非常に安いことから、行商の拠点に好都合であった。近年多く民宿等に切り換わったが、所有権は今でも各集落が持っていることが多い。

 2 対馬の歴史

 対馬は、魏志(ぎし)倭人伝に記載される3世紀の時代から、朝鮮半島と関わる外交・防衛・交易の面で、日本にとって重要な役割を果たしてきた。魏志倭人伝には邪馬台国に至る重要な交通拠点として記され、7世紀以降の律令国家の時代には、対外防衛のため防人(さきもり)・烽(とびひ)(のろし)が設けられた(㉒)。
 鎌倉時代に宗氏が北九州より武力侵攻し、それまでの支配者阿比留(あびる)一族を倒して対馬全島を支配し、明治維新まで大名として対馬を統治した。1274年、1281年の2度にわたる元冠の襲来では、対馬は大きな被害を受けた。今も小茂田(こもだ)浜にその供養塔として建てられた胴塚、首塚が残る。室町時代には逆に朝鮮半島・中国大陸沿岸を荒す倭寇の拠点として恐れられた。
 室町時代の勘合貿易の一環としての対朝鮮貿易、江戸時代の朝鮮通信使(将軍の代替り毎における李氏(りし)朝鮮からの慶賀使節)を中心とする対朝鮮外交など、宗氏及び対馬が日本の外交上に果たした役割は枚挙に暇がない。近年盧泰禹(ノテウ)韓国大統領の訪日の際の演説により一躍著名となった、(日韓親善の歴史的例として挙げられた)雨森芳州(あめのもりほうしゅう)は、対馬藩の儒官であった。

 イ 対馬に定住して=睦月出身者の聞き取り

  ① 対馬で最初の月賦販売 **さん(大正8年生まれ、72歳)

 「戦前は2年ほどで行商を止めて18歳から郵便局に勤めていました。行商の方が実入りがいいのはわかっとったんですが、当時の行商は掛け値の現金商売で、どうしてもいくぶんかは値段をぶっかけないといかんのが、私の性に合わんかったんです。昭和13年(1938年)に陸軍に現役召集となりました。激戦地ばかり回りました。ニューギニアでは部隊の戦友の大半が餓死し、また輸送船で運ばれる時に、目の前の僚艦が撃沈されるのを何度も見ました。よく命あって帰って来れたと思います。復員したのが昭和21年で28歳でした。
 睦月に帰ってから結婚したんですが、義母から行商に誘われても性に合わんからと断って、朝早くから必死で畑を開墾しみかんを植えました。しかしみかんは植えてから3~4年は金にならんので、その資金のために母がいた対馬に来て再び行商を始めたのが昭和26年でした。私は対馬に来た最初の時から、今までの行商とは違った子供にも譲れる堅い商売にしようと思ってました。対馬は人がよく高価な品物も売れますから、最初から正符丁(せいふちょう) (正札、定価)で、主に官庁や学校それに大農家を回って、月賦販売の商売を始めました。
 月賦販売など当時は誰もやっておらず、両方とも最初はみんなに笑われたもんです。正符丁なら一つ当たりの利益が少ないし、月賦販売だと最初の数年は仕入れ値の方がかさみ月毎の収入は少ないので、いわば借金経営で本当に苦しい時期でもありました。しかし、そういうつらさを耐えて地道に少額の品でも誠意を持って、お得意を大事にしていくと良いお客がついてくれて、決まった収入が入るようになり、徐々に商売は楽になりました。2・3年ほどの資金稼ぎのつもりであった私の方が、結局お得意さんがついて商売も順調となり、月賦の取立てもせんといかんので、対馬に住みつくことになってしまいました。みかん畑はかなり前に兄弟に譲りました。
 家を借りてこちらで商売をしていると、やがて妻子も来て一緒に生活をすることになりました。商売を大きくするためにもということで、昭和32年に車を購入しました。当初は私は免許がなく運転手を雇っていましたが、それでも十分もとが取れるようになりました。昭和40年に厳原町の市街に店を構えました。鉄筋コンクリート2階建てで、当時の対馬においては規模の大きなものでした。
 60歳になった昭和54年に、息子に商売を譲って隠居しましたが、お得意相手の外回りだけは今も私がやっとります。息子の嫁も対馬出身で商売熱心に良くやってくれます。嫁の同級生が40歳を越え家計を握るようになると、また商売も変わってくるんじゃないかと、今から楽しみにしています。墓地もこの厳原に買いまして、こちらに骨を埋めるつもりです。睦月にも年に1・2回帰りますが、対馬の人との付合を大切にして、余生を送りたいと思っています。」

  ② 地域に密着した商売を続けて **さん(昭和2年生まれ、65歳)

 「私は怒和(ぬわ)島の出身ですが、母がしばらく睦月で働いた関係もあって、小さい時から睦月によく出入りしてました。散髪業も半年ほど修行したりしましたが、戦争が激化するとともに志願して海軍に入り、広島県の倉橋(くらはし)島で特殊潜航艇の訓練を受けている最中に終戦となりました。
 戦後は一時期(海軍機関学校での訓練を活かして)睦月で電気・機械修理のようなこともやったりもし、睦月出身の妻とはこの時に知り合い結婚しました。その後しばらく広島電鉄に勤務しておりましたが、兄が広島の甘日市(はつかいち)に拠点を置いて行商でもうけており、その誘いを受けてこの道に入りました。昭和26年だったと思います。最初は広島・山口に、その後は九州沿岸部を奄美大島や種子島・屋久島を含め回りました。佐賀の行商人もたくさんおりましたが、愛媛の商売人の方が愛敬があったようです。
 対馬に来たのは昭和28・9年頃でした。本当に人のいい所で、ここに落ち着こうと決め、長く続けるためにも正札で月賦販売することにしました。昭和30年ころまでは『仁位郷宿(にいごうしゅく)』という木賃宿(きちんやど)に泊まって行商をしてました。
 店を構えたのは昭和33年ですが、その後も対馬の各地を商売して回りました。私は主に農村を回りましたが、お得意さんには今までの経験を活かして散髪をしてあげたり、動かない農機具の修理をしてあげたりもしました。本当になじみの家にいくと、私が行くと魚を買って御馳走してもらい、酒も飲んでくつろいだころに、近所の人や親戚が集まってきて、商品の包みを開け商売を始める具合でした。全く親戚以上の付合をさしてもらったものです。車も対馬の中では早く購入して、豊玉町・峰町などの上対馬(対馬北部)の方にも、なじみの顧客を作るようにしていきました。
 しかし昭和60年ころから、行商品に対する信頼感が薄れてきたように思われ、残っていた貸付けを全部回収しました。今は店の売上げだけで生活しています。妻が仕入れをやっており、女の目で選ぶと感覚が違うせいか、私の店は婦人物・呉服の評判が良く、店の売上げの大半を稼いでいます。私の店のすぐ横に、同じ睦月の**さんの店があり、また同じ小字内に**さん、**さんの店があって、この界隈の洋品店・呉服店といえば睦月出身者ばかりです。同業者ですが互いにお得意さんも違い、店にもそれぞれ特色があって、仲良く商売をやっております。子供たちは愛媛県内で就職し、愛媛に帰れと言ってくれますが、親しい人もおりますし、体の動くかぎりは対馬で店を続けたいと思ってます。」

  ③ 対馬における二代目として **さん(昭和24年生まれ、43歳)

 「母は私が物心ついた頃から行商をしていて、盆・正月以外には会うことはありませんでした。父は元職業軍人で、みかん栽培をやっており、ずっと一緒に生活してきました。私の中の潜在的に母を恋慕う気持ちが、今の商売に進むきっかけとなったのかもしれません。中学・高校の頃は何の疑問もなく、専業農家として柑橘栽培を継ぐつもりでした。それで愛大付属農業高校に進学し、将来は農業に打ち込み、パイロット事業を計画し、柑橘栽培に夢を持っていました。しかし高校3年の時に、松山市周辺の山にみかんの幼木がたくさん植えてあるのを見て、ふと『みかんはもうだめかもしれない』と思うようになり、急に進路変更をして大学進学を目指すようになりました。実際その翌年に大暴落が起こりました(昭和42年)。しかし実業高校からの進学はなかなか困難で、2年ほど浪人生活を送りました。
 大学に入るための勉強は苦手でややあきらめの心境で、母に会うのが目的で対馬に来ました。対馬に来て初めて見た母の姿に大きなショックを受け、長男として、のほほんと学生生活を送っていてはいけないと感じ、こちらで生活をするようになったわけです。20歳になる直前でした。
 それまで母の行商姿を見たことがなかったせいもあり、大きな行李を背負って一人で歩く姿に何か非常に悲痛な思いを持ち、対馬に来て3日目にライトバンを買い、母を乗せて行商の手伝いを始めました。目的地についたら母はお得意を回り、私は恥ずかしさのため車の中で弁当を食べて車の外に出ることはありませんでした。しかしある日雨の中を、母が車から降りてこうもり傘をさして裾をぬらして歩く後ろ姿を見て、車で休んでいる自分を卑怯だと感じたのがきっかけで、自分も商品をさわるようになりました。初めは4年間手伝うだけという両親との約束でしたが、やがて地元の青年団に入ったりサークル活動で地域の若い人とのつながりができてくると、親と同乗するのが恥ずかしくなり、自分一人で回るようになりました。このころ、精神的自立ができたようです。それとともに商売の面白さもわかってきました。
 自分で商売を始めてみて、母を含めた睦月の行商を考えると、これだけの顧客を持ちこれだけの信用を持たれているのだから、そのひたむきな生き方にもっと華(はな)があってもいいはずだ、(対馬の)お客様の豊漁を神棚に祈る商人の姿にもっと繁栄があってもいいはずだという、強い信念がでてきました。22歳の時に自宅を店舗に改造し、25歳の時には町の中心に2店舗を構えるようになっていました(現店舗は5店目)。
 睦月の人は皆さん堅実で、優秀な人が多いですね。戦後の経済復興の混乱期に、日本中を点々と行商に駆けていた時期があるとすれば、『人』を越えた時代の驚異がさせた業で、先人達の話に心が打たれます。世の中が安定すれば一早く睦月の行商もスタイルを変化させ、顧客第一に性善説を信じ、誠実な月賦販売をうちたてていました。
 そのような誠実さが、地域の人々に心から迎えられ、その土地で繁栄し、各人が豊かになった今も四国に向いて帰らない大きな要因かと思います。
 私なんか、はみだし者で両親とよく口論しましたが、その口論から学ぶことも多かったですね。9年前、父が亡くなる4か月前にアメリカ流通ゼミに参加しました。その時に感じたのは地方にも複合型総合店が必要だということでした。対馬にそのような店がなく4億の資本投下をして、今の新店舗を建設したのが5年前です。38歳の時でした。5階建てで1階は靴・資生堂・ヤング・洋品小物、2階が呉服・婦人服・紳士服、3階は子供服・玩具・ギフト・寝具、4階をギャラリーとして催事会場に使ってます。今の従業員は20名。オフコンを10年前から導入して、顧客管理の強化をはかるため3度目の増設を進行中です。
 今は店のビルの5階に、母を含め5人家族で暮らしています。床の間に神棚を作りつける習慣は対馬にはないのですが、大工さんに睦月の家の写真を見せて全く同じに作ってもらったのが、私の睦月に対する郷愁でしょうか。今後は私を支えて頂いた対馬のために何か貢献していきたいと、現在種々取組んでおり、多忙な毎日を送っています。」

  ④ 対馬の行商あれこれ

 **さん(大正2年生まれ、79歳) 
 **さん(昭和3年生まれ、64歳)
 **さん(昭和10年生まれ、57歳)
 上記の調査に協力頂いた3名の方々のお話は、①~③と共通点が多かったので興味深い点を以下に略記した。
 「対馬の山は標高が高く、昭和30年代に歩いて行商しているときは大変でした。北端の比田勝で商売するには、当時船で2~3日がかりでした。昭和60年に厳原町市街に店を持ちました。統計事務所の所長にモーニングを作ったことが誇りになっとります。今は息子夫婦が中心となって店を切り盛りしてくれています。」
 「私はみかん一本で、ずっと睦月で農業をやっていました。果樹同土会の会長になったこともあります。ところが昭和42年にみかん価格の暴落があり、また義母が対馬で行商をやっていましたが、もう車がないと商売にならないと言ってきたこともあって、昭和47年に妻と一緒に対馬にやってきました。その頃はまだ父が元気で、息子も成人が近かったので二人にみかん畑を任せて来ました。すでに睦月の人がたくさん来て信用のある商売をしてもらっていたので、対馬になじむのは早かったです。しかし母と息子が家を守っているため、将来は睦月に帰らねばと思っています。」
 「私の母が対馬で行商をしていたのですが、母が病気がちになって困っているのを助けるために、昭和37年に対馬に来ました。それまでは私は睦月でみかんを栽培していたわけですが、妻と一緒にこちらに来て、車で母とともに商売をするようになりました。
 交通も便利になって、昔は博多までの船しかなくて5・6時間かかっていたのが、今では飛行機・ジェットホイールで1時間程度の距離となり、対馬にも本土の品物が多く入ってきています。私は子供たちが大学を卒業すれば、睦月に帰りたいと思っています。しかし趣味の将棋等を通じて得た対馬の人々とのつきあいは、これからも忘れたくないですな。」

写真3-3-29 厳原町豆酘(つつ)郷宿(現在民宿)

写真3-3-29 厳原町豆酘(つつ)郷宿(現在民宿)

平成4年2月撮影

写真3-3-30 浅芽湾遠景

写真3-3-30 浅芽湾遠景

平成4年2月撮影

写真3-3-31 対馬厳原町全景

写真3-3-31 対馬厳原町全景

平成4年2月撮影

写真3-3-32 厳原町市街の店舗

写真3-3-32 厳原町市街の店舗

平成4年2月撮影

写真3-3-33 対馬農漁村集落遠景

写真3-3-33 対馬農漁村集落遠景

平成4年2月撮影(標高差の大きいことに注意)