データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(3)全国をめぐり歩いて(=戦後の陸路行商)

 戦前に全盛を迎えた船による行商は、戦中に船舶が売却、処分され不可能になってしまった。だが前述したように睦月・野忽那の行商は、戦後の衣料統制廃止以降、戦前に並ぶ発展期を迎え、全国にその販路を広げた。この時期は戦前と違いほとんどが陸路によるものであった。行商は昭和30年代に衰退していったものの、つい最近まで数十人が行商を専業として、交通の不便な農漁村や離島で商売を続けた。これらの人々の話をもとに、戦後の睦月の行商の歩みをたどってみたい。戦前と違い、各人の行商内容が違うため、特徴のある印象深い点を略記する形で、各人のお話をまとめる形にした。

 ア 全国を踏破して

 **さん(明治43年生まれ、82歳)

  ① 戦前まで

 「私は数えの13から船番をして行商を始めました(大正10年=1921年)。両親も行商をしており、後に妻となる一家の船と親戚と両親の船3隻で『りゅう船』をして、長崎の五島列島や平戸の方によく行きました。仮祝言は21で結婚は25の時でした。結婚してしばらくして支那事変(日中戦争)が起こって(昭和12年=1937年)、時勢が緊迫してきた関係から、父が船を手放して、その後はしばらく福山で下駄を買って睦月で商なったり、配給品や闇物資を扱っていました。大東亜戦争(太平洋戦争)勃発の前後に、私は召集を逃れるため門司で曳(ひ)き船の船員をしたりしましたが、とうとう昭和17年(1942年)に32歳で召集となり、それから中国大陸各地を転戦しました。」

  ② 戦後の行商と屋久島での思い出

 「引揚は昭和21年の5月でした。その間妻子は睦月に帰っとりました。帰ってしばらくしてから機帆船を買い、三津から大阪・下関等瀬戸内海を回りましたが、やはりなじめないこともあって、昭和26年ころから再び行商を始めるようになりました。最初は広島の五日市に家を借りて1年ほど商売をしましたが、そこから鹿児島に移って、鹿児島県内や種子島・屋久島等に行くようになりました。鹿児島だけでなく、全国をめぐり歩いたものです。熊本県の五箇荘や椎葉へも行きましたし、北海道・青森へも行きました。
 今までの商売で一番記憶に残っとるのは屋久島のことです。昭和32年ころでしたか。売り子さんや女の人ばかり5人連れて行きましたが、最初に着いた港の周辺では商売にならんかったんで、売り子とも相談のうえ、峠を越し九十数里(50km程度)ほど離れた別の村に行くことにしました。宿を朝早く出発しましたが、地図とは大違いで、道は獣道のようになるし、山にどんどん入るばかりなので、恐くなりました。屋久島の山はご存じの通り、1,000m級の山ばかりです。道の途中で川に会うと橋はなく、私が女の人の荷物を背負うたり、飛び石伝いに渡ったりしました。途中できこりさんがいたので道を聞くと、『前もこの道を通った流れの芸人の人が行方不明になったんじゃ。止めといたほうがええ』と言われました。しかし帰っても同じ距離じゃし、商売ができる所に行かんとどうもならんからと言って別れたんですが、内心は心細うてたまらんかった。万一の時のために枝を折って歩きましたが、猿の姿が目立つほど山は深くなっていって、日も暮れかかるし大変なことになったと思いました。だいぶ暗くなってきた夕方7時過ぎに、集落の灯が見えてきた時には、嬉しうて涙が出そうになりました。皆を励まして、集落に入り宿を頼むと、宿は満員でどこも泊まらしてくれず、とうとう村の区長さんに頼んで家に泊まらしてもろうたのは、晩の9時近くでした。翌朝起きた時には足腰立たんかったのを覚えとります。」

  ③ 徳之島への定着

 「奄美大島が日本に復帰になって(昭和28年)、最初に行商に行ったんは私等です。8人ほどで一緒に行ったんですが、沖永良部(おきのえらぶ)島には当時桟橋もなく、大きく上下に揺れるはしけ船に飛びのり、さらに船から突堤(とってい)に飛びついて上陸せねばなりませんでした。連れの半数は、それを見ておじけづいて上陸しませんでした。奄美群島に行ったのは、アメリカ軍に占領されておって苦労されただろうという気持ちと、島に店がないじゃろうから商売がしやすいということで行ったのですが、奄美本島、与論島、沖永良部も回りながら結局その中の徳之島(とくのしま)に昭和36年ころから55年まで、20年間住みついて世話になることになりました。徳之島は人口5万人あまり三か町村の島で、妻と一緒にやがて店も構え、洋服・呉服・婦人物の生地と手広く扱い、高校の制服も私等で全部取り扱っていました。島では皆にかわいがってもらい、親切にしていただきました。
 盆正月は仕入れに行く必要もあり、あまりの遠距離なので睦月にもそれほど帰りませんでした。子供たちはある程度大きくなっていたので、弟夫婦、妹夫婦に面倒を見てもらいました。高校、大学と何人も進学させる時は、経済的に辛かったですが、また楽しくもありました。子供等にも迷惑をかけましたが、今は皆独立してしっかりと生活しております。苦労もありましたが、10年前に睦月に帰ってからは行商の蓄えと年金でのんびりと暮らさしていただいております。こうやって行商のころをなつかしく思えるのも、昔の苦労のおかげでしょうか。」

 イ 島一番の売り手

 **さん(大正2年生まれ、79歳)

  ① 戦時中の苦労

 「私は父を5歳の時に、母を12歳で亡くし、叔母の所へ養子に入りました。両親も行商の親方をしておりましたが、私も19歳で叔母の世話で行商船に乗るようになりました。その後21歳で**家に嫁ぎましたが、主人は支那事変(日中戦争)が始まると召集を受け、昭和12年(1937年)に(第2次)上海事変で戦死しました。本祝言からの結婚生活は1年あまりで、後に一人息子だけが残りました。
 そのころから衣料品等も統制が始まり、睦月の行商人も転業する者がかなり出てきましたが、私は子供を育てるためにも必死で行商をやりました。昭和15・6年ごろには統制もかなり厳しくなりましたが、私は闇物資も含めて、大分の国東(半島)で商売を続けました。売り子も10人くらいおったでしょうか。一度は警察ににらまれて、品物を全部没収されてしまいました。しかし『私はこれでしか生きていけんのじゃ。私と子供を餓死させるつもりか』と頑張りましたら、翌日釈放され絹織物等は返してくれました。しかし綿製品は当時配給品以外は禁制品扱いで、とうとう返してくれなかったですが。」

  ② 戦後の商売の成功

 「戦争末期と終戦直後は、さすがに商売もしにくかったですが、細々と食べていくだけのことはできました。統制がとけてからは、旅館住まいで全国を歩いて、睦月で一番の売上げをだすようになりました。息子は祖母に預けて、盆と正月に帰るだけの生活でした。70歳まで売り子を4・5人持って、75歳までは一人で行商を続けました。
 昭和40年ころで1か月に20万円ほど純利益がありましたか。私は全部現金商売で、大きな風呂敷包みを背負って歩くこともせず、一番上等の着物を着て日に何軒かを回るだけです。それでどうやって利益が出たかというと、村で話を聞いたり、門構えを見て、その土地で一番裕福そうな家だけを行商するようにしとったんです。もしそこで売れんでも、知り合いの人を紹介してもらうようにしたら、金満家(金持ち)だけを回ることができますから。戦前は絣・縞、よくて織紺や銘仙が中心でしたが、戦後は高級呉服を扱うようになり、それからもうけが大きくなりました。娘さんのいる家は名簿に控えておき、成人前後のころに行くようにします。売る時は、高級品を買ってくれるのならと、種々の無料の品もつけて、帯と着物等必ず一揃いで売るようにして、今で言えば数十万の単位で利益があがるようにしたもんです。
 仕入れは、京都や岐阜の製造元から直接仕入れるようにしたので、利益が大きくなりました。時候のいいころを選んで、北海道に20年近く通いました。北海道はニシン等の豊漁で漁家も裕福でしたし、酪農農家も肝が太くて持参品を全部買ってくれることも多かったです。昔からの行商経路であった熊本や五島列島へもよく行きました。
 睦月に帰ってから5年ほどになりますが、話相手も欲しいので、雑貨店を開きまして、今はお客さんと話すのが一番の楽しみです。息子にも苦労させましたが、今は松山で薬局を開いて立派にやっております。こうやって行商のころの事を話すとなつかしくてたまりません。」

 ウ 北海道の最北端を歩く

 **さん(大正5年生まれ、76歳)

 「私は先にもお話したように、戦前から商売をやっておりましたが、北海道に行くようになったのは戦後しばらくしてからです。**さんと一緒に行ったこともありますが、**さんは北海道の犬が大きくて恐いということで一度で懲りて、九州の方に行くようになりました。私を含め4人で旭川に家を借りて夜具も送り、そこを拠点にして春は岩手盛岡周辺、6月ころは北海道各地の漁村(ニシン漁の盛んな所)を回り、函館・天塩(てしお)・厚岸(あっけし)・標津(しべつ)とあっちこっちを行商して、秋も深くなると旭川周辺を回るようにしていました。徳島県の池田から来て、睦月の行商仲間に加わっとる人もいました。戦後は洋服・呉服の仕立て品を主にやっていました。
 北海道で一番の思い出は、礼文(れぶん)島・利尻(りしり)島に行った時の事です。ニシン漁が盛んで金回りがよいということを聞いて、睦月の者と甲府の行商人も入って5人で行きましたが、折悪しく不漁でさっぱり売れませんでした。ここにおっても(宿)賃がかさむばかりだというので帰ろうとすると、時化て定期船が欠航になったんです。ただ緊急に貨物船が出港するというので、それに便乗させてもらうことになりました。ところが本当に大時化(おおしけ)で、朝早く出たのに夕方になっても島影一つ見えず、船が頭から数m以上の大波に突っ込んでは、スクリューがカラカラと空転する音を聞いて、大波の谷底に落ちていくのを繰返し、奈落に引きずり込まれる気持ちで、これが最後かと何度も思いました。夜中近くになってようやく港に着きましたが、あんな恐い思いはあの時だけです。
 夫が町の職員をやるかたわら、私は63歳まで行商を続けました。胆石の手術をしなければ、もう少しやっていたかもしれません。ずっと重い荷を背負ってきたので、今でも背中にコブが残っとります。5人子供がおりますが、次男は東京でジーンズ店を、長女は東京で、次女は対馬で衣料店を営んでいます。これも睦月の血だろうかと、昔を振り返って懐かしく思ってます。」

 エ 戦後の行商あれこれ

 **さん(大正2年生まれ、79歳) **さん(明治43年生まれ、82歳)
 **さん(大正3年生まれ、78歳) **さん(大正2年生まれ、79歳)
 **さん(大正5年生まれ、76歳) **さん(大正2年生まれ、79歳)
 **さん(大正10年生まれ、71歳) **さん(大正12年生まれ、69歳)
 **さん(大正5年生まれ、71歳)

 上記の方々の座談会形式の聞き取りで興味深い点を以下にまとめた。
 「主人が昭和18年に召集を受け、その後フィリピンで戦死しました。戦死公報が届いたのは昭和22年です。行商を再開したのは戦後になってからです。もっぱら食べていくためのものでした。最初は高知県等の山間部を売り子で歩きましたが、親方に利(益)だけを取られるのもつまらんと思い、仕入れもやるようにして二人で、(睦月の行商人としては初めて)隠岐島に行きました。昭和45年からです。民宿にずっと泊まって、今でもそこからは年賀状が来ます。59年まで14年間、盆正月を除いたらそちらにいました。隠岐ではもっぱらお得意さん相手の貸し売り(月賦販売)でした。隠岐の人は人情深くて大事にしてもらいました。機会があればもう一度隠岐を訪れてみたいです。」
 「両親とも行商で家には誰もおらんですから、学校に通っとる間は寂しかったです。上に数人姉がおって順繰りに家庭の面倒を見ていました。霧笛が鳴れば(親は)今頃どこにおるのかと、いつも思いました。親と一緒におりたいという気持ちもあって、学校を出たらさっそく行商に出るつもりでした。」
 「みかん価格の暴落後(昭和42年以降)家計を助けるためもあって、また行商に出るようになり今も続けています。衣類は元金がたくさんいるのと、月賦の取立てが大変なので、(再開してからは)もっぱら乾物だけを背負って、日帰りで松山の方へ売りに行きます。仕入れは松山からです。乾物は軽いし全部現金ですから、この年でもできます。もうけは呉服とは比べ物になりませんが、なんとか細々と食べていっております。」
 「戦時中も、食べていくため陸路で行商を続けましたが、衣類統制で取締りが厳しく苦労しました。腰巻きに巻いて隠し持っていったりしよりました。長崎の島に漁船に乗せていってもらった時は、密告があったのか巡査に追いかけられて困りました。縁側で商売しよりましたら巡査が来て、反物は箱に隠していましたが『何しよるか、禁制の反物を売っとるとじゃろうが。』と言われ、何とかごまかして家の人が巡査を連れだしてくれた隙に、品物ひっつかんで飛んで逃げました。姉はゴゾゴソしよって捕まってしまい、姉が釈放された後に、宿屋の主人が恐ろしくなって倒れ、もう泊まらさないと言われた時も困りました。」
 「北海道を冬に歩くのは大変でした。1メートル近い積雪の中を歩いておりましたら、突然足元が崩れて溝の中に落ちこんだこともあります。
 恐かったことと言えば、徳島の祖谷渓に行った際に、いつも泊まる宿が一杯で、村から離れた宿に泊まった時です。人はおらんのに夜中にスッと襖が開いてふとんの回りをピタピタと足音が1時間くらい回るんです。それが何回も続きました。3人で一緒に泊まりましたが誰も電気をつけようとせず、ふとんをかぶって一睡もできませんでした。また一度はなじみの旅館の息子が、宿に置いていた商品を少しずつ売り飛ばしていたこともあります。そのことは半年ぐらいわかりませんでした。行商は見知らぬ人に世話になりますから、怪談めいた或いはだまされたような経験は、睦月の行商者は誰でも一度はあるんじゃないでしょうか。」

図3-3-25 北海道要図

図3-3-25 北海道要図