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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(4)漁村の習俗と漁民信仰

 ア 漁村の習俗

 海に生きる漁民や船乗りたちは、昔から「板子一枚下は地獄」と言われてきたように、海は豊じょうをもたらす反面、背中合わせに不安や危険をはらんだところである。彼らにとって海は神聖なところで、海で言ったり行ってはならない禁忌(タブー)がいくつかあり、また船や生業に関する習俗や伝承も多く継承されてきた。
 しかし、第2次世界大戦後の漁村の民主化・生活改善運動や、昭和30年代の高度経済成長による島や漁村からの人口流出がもとで、漁村秩序の再編成とともに、昔から伝承されてきた漁村の習俗や信仰が消滅したり、消滅しないまでもあいまいになって忘れ去られようとしている。さらに後継者のいない島では、伝承行事を実施することもできなくなりつつある。今のうちに漁村の習俗や伝承を掘り起こし記録するだけでなく、積極的に伝承行事の保存を図る必要がある。ここでは、その主なものについて取り上げることにする。

  ① 頭上運搬

 今では過去のものとなっているが、起源の古いと考えられている越智郡宮窪の浜漁村や魚島村の漁村、広島県の能地、二窓、吉和の漁民が定着してできた島方や沿岸の漁村では、昭和30年代の初めまで、婦人による頭上運搬という習俗があった。島ではこのことを「イタダキ」とか「カベリ」と呼んでいた(⑪)。運ぶものは魚類、日常物資、農産物、飲料水、さらには下肥にいたるまで運んでいた。重いもの、固いものを運ぶ場合は、頭に輪を乗せてからかぶった。輪は頭の大きさに合わせてワラを円形にし、布で巻いたものである。鮮魚行商の際も、「ハイボ」と呼ぶおひつを頭にかぶって近隣の農村地域に出かけていた。昭和30年代に入ると、四輪車の手押し車(乳母車を大きくした程度)が普及して鮮魚行商もこれに変わり、頭上運搬は島の生活から姿を消した。
 また、現在はどの漁村でも、夫婦が一緒に船に乗り組んで出漁するのが一般的となっている。それは、漁村に若い労働力がいなくなり、必要に迫られた結果である。戦前の島の漁村には、(1)夫婦で漁に出るところと、(2)男は漁に女は農耕や行商にという2つのタイプがみられた。宮窪などでは、戦前から一本釣り漁業やはえ縄漁業には夫婦が共に漁に出ていた。魚島や長浜町青島は、戦前は男子のみの出漁であった。

  ② ヒッコメ、ヒッコメ

 魚島には、タイ網漁の盛んな大正末年ころまで「ヒッコメ、ヒッコメ」という行事があった(⑫)。その年の大漁を祈願するために網霊(おおだま)さまを祭ったもので、一人の網子が網元の神棚にある御神体(烏帽子型の浮子(あば)を納めた桶)を、もう一人は木槌を、それぞれ肩に担いで「ヒッコメ、ヒッコメ」と叫びながら島の家々を走り回る。その間、女性は家でじっとしていて外出はできない。木槌は戸外に出ている女性をたたくためのものだと言われている。網漁業では、それほど男性優位であった。青島でも朝早く漁に出ようとしたが、家から船までの間に女性を見たため「マンが悪い」と言って、もう一度家まで引き返し出直したという。

  ③ 海のタブー

 出漁中に、梅干の種を海に捨てたり、金物を海に落とすことを漁民は極度に嫌う。それは、龍神さま(龍王さま、龍宮さま、吉海町椋名ではリュウゴンサン、魚島ではリュウジンサン、伯方町木浦ではリュウグンサン、長浜町青島ではリュウオウサンと呼ぶ。)が嫌いだからと言われている。吉海町椋名沖の大突間島にあるリュウゴンサンには、海中に刃物を落とすとたたりがあると言われ、五色の糸を供えておことわりをする習俗があった。ほかにも、長浜町青島では、港神さまのある向鼻の先に貧乏岩(磯)と呼ばれる岩がある。この岩は丸く中央に穴が開き、「通行する船や艪がこの岩に当たると漁がない」と言って、漁民はたいへん恐れている。
 漁労中に船上での忌み言葉として、蛇、猿、猫などがある。蛇などは「ナガイモノ」と言って「蛇」とは言わない。宮窪町余所国では、「航海が長くなる」と言って、航海に出るときにそばやうどんを食べない習慣があった。

 イ 漁民信仰

  ① 七人ミサキ

 民俗学では「横死者の浮かばれない霊魂をミサキと言い、ミサキはこの世に恨みを残して死んだ人の霊魂で、その執念を現すためにいろいろないたずらをして人の注意を引こうとする。(⑬)」新しいミサキが一人加わっても、七人ミサキは8人にはならない。それは、7人のうち一番古いミサキが仏となって入れ替わるためである。瀬戸内海の島々には七人ミサキの伝承や、今もミサキを祭る祠(ほこら)がある。魚島での伝承では、「昔、魚島の沖で7人の乗った船が嵐に会い遭難したが、島の人々は救助ができなかった。そのことがあって30年後、港で夜船の番をしていた18歳の青年が、右の足にイカリ、左の足に石をくくりつけて海中で死んでいた。さらに、昭和30年5月に魚島の港に入ってきた他所の漁船で同じように右足にイカリ、左足に石をくくりつけて死んでいる青年を見つけた。これは20年前に死んだ青年の幽霊である」として、島の人々は七人ミサキのたたりだと言っている。また魚島には別の伝承もある。『海村生活の研究(⑬)』の中に、「先年、文四郎という者にミサキがついて港の中へ引き込まれたとき、誰か来て七人ミサキかと言って足を引っ張ったという。拝んでもらったら七人ミサキが、ついているというので塚を築いた。(⑭)」と報告されている(写真3-2-1参照)。
 宮窪では、浜の美保神社の境内の右奥隅にミサキサンの祠があるが、これはもとは個人が祭っていたものをこの地に移したものである。
 吉海町椋名(⑮)では、個人の家の神棚にオミサキサン(漁の神)としてお祭りしている。

  ② 鞆ノ浦の祇園さん

 宮窪や余所国では、「沼名前大明神」を祭っている。昔、6月4日に鞆ノ浦の祇園さんが流れて来たのを、ここの漁師が拾って祭ったのが始まりと言われている。宮窪の漁民の祇園さん信仰は厚く、漁神としてだけでなく、はやりの病気を治す神さまとして、鞆ノ浦の祇園さんに願かけし、お礼参りにも出掛けている。かつては、病気が出るとタイマツを燃やし、煙ですべて家中を回っておはらいをした。現在でも、熱が出た時には祇園さんから授かったタイマツを削って飲む習慣が残っている。昔は、宮窪から半日がかりで鞆ノ浦の祇園さんに参り一泊して帰っていた。機械船となった現在では日帰りでお参りできるが、その数は3隻ほどに減ってしまった。

  ③ 船霊(ふなだま)さまと網霊(おおだま)さま

 海に生きる人々の信仰のうちで重要なものの中に、「船霊さま」がある。船霊さまは漁民や船乗りなどによって全国津々浦々の海村において祭られ、船の神様、船の守護神として信仰が厚い。「網霊さま」は網の神様として網の中央の浮子(あば)を御神体としている。
 船下しに先立って、新造した船に船霊さまの御神体を入れる祭事が行われる。宮窪町余所国の渡辺造船所の**さん(76歳)は次のように語ってくれた。
 「船下しの日、船大工は、建造に利用した差し金などの道具・タイ・米・野菜・果物・酒を、船中の祭壇にお供えし、祝詞をあげる。私のところで最後に造った木造の漁船は、昭和50年9月に進水した宮窪の**さんの蛭子(えびす)丸で(写真3-2-2参照)、その操舵室の右舷には、船にお精根を入れるため、船霊さまの祠を檜(ひのき)で将棋の駒形に造り、安置している(写真3-2-3参照)。駒形の中央には幅1寸2分、長さ2寸5分、深さ1寸8分の穴が彫ってある。その中に、①人形(一対の男女の人形を造り、女は帯に色をつける。)、②銭(12文、閨(うるう)年は13文。)、③賓(さい)2個(柳は、粘りがあり折れなくて丈夫であるという縁起から、柳を使用する。個個の賓を作るには中央の鋸目を入れるが、底は切り離さず2個がつなかった状態にしておく(図3-2-10)。賽目は1を上に向け6を下にし、表(船首側)に3の目、艪(船尾側)に4の目が向くようにして納める。これは、船にとって幸せであるようにとの願いが込められている。)、④五殼(米・麦・粟・稗・大豆)をそろえて納める。なお、瀬戸内海では女性の毛髪は入れないことが多いが、船主の要請により入れることもある。
 お精根入れの儀式が終わると、船大工がまず東西南北の四方がためをして、そのあと船主や親類縁者によって船上から紅白のもちまきが始まる。船には最初に女を乗せる。その船主の嫁さんであったり、船主の母親が元気であれば母親を乗せる場合もある(吉海町椋名では少女を乗せる。魚島の場合は、船主の妻が柳の枝をかついで乗り初めをしていた。)。なぜ女性を最初に乗せるのかというと、船霊さまは女の神様だからとか、女が好きだからと言う人もいる。親類縁者から贈られた大漁旗を立て、港内を3回まわってから陸に帰り、再びもちまきをする場合もある。船下しの祭事が終わると、船大工を海中に放り込む風習があって、これが船のこけら落としのようなものだ。私などは紋付きを着て祝詞やお精根入れをやるのだが、放り込まれるのが分かっているから、紋付きの下には投げ込まれてもよいような支度をしている。しかし、紋付きを脱ぐ間も待ってくれない。船大工のつぎは船主が放り込まれる。夏はそれでも良いが、冬の寒い時はこたえた。事前に風呂を用意してもらって、風邪を引かぬよう気をつけたものである。
 このごろは木造船から鋼船やプラスチック船になったので、船下しの祭事も神主が来て拝んでお神酒を供えて終わりという簡単なものになりつつある。
 蛭子(えびす)丸は17年たった今も現役で稼働しているので、機会があれば見てほしい。」

  ④ 船霊さまと船主

 「船霊さまは女の神様だと漁民や船乗りは信じている。(船そのものがこれに性を付与すれば女性であるので、精霊たる船霊さまもまた女性だという信仰からきている。)(魚島では船で寝るときには船霊さまは女だから船霊さまに足を持たせるのは良いが、頭を持たせると襲われるという伝承があった。(⑭))」
 船霊さまと船主の関係は、「船霊さまは目に見ることはできないが、漁師や船頭について回ると信じられている。漁師が陸に上がってもついてくる。」という。
 「私が今治造船所にいたときに、九州博多からトロール船の注文があった。2艘底引き船であるので、1隻を私が責任者となり、もう1隻を同僚が責任者となり新造した時の話である。船下しをした晩に船主が私のところにやってきて、『棟梁(とうりょう)、あんたが造った船は、あんたも気合が入っているが、船霊さまも気合が入って晩からチンチン鳴いてくれる。やれうれしや、マンがええわい。』と言ってくれた。チンチンというのは小さな虫の声のように聞こえるという。船主には聞こえるが私はまだ聞いたことはない。もう1隻の船はどうかと聞くと、チンチンの鳴く声は聞こえないと言ったので、同僚はおとなしい性格だから、そんなものかとその時は思った。
 数年たってから、トロールの船主が今治に来て、私を名指しで1隻トロールを造るよう注文があった。それは同僚の造った1隻が五島列島で座礁したためであった。
 東シナ海で漁をしている帰る途中、『五島列島は岩礁の多い海域で通常はそこをよけて通るのだが、その時はどういうもんか岩礁のある海域に入ってしまった。ハッと思った瞬間、私の船はイサムというかハズムというか、その磯を乗り越えた。続いていた僚船は飛ぶことができず磯に座礁し、しかたなく船の機械類だけ取り外して帰ってきた。』その座礁した船の代船としての注文であった。船主は私に気合の入った船霊さまを造ってくれたと喜んでくれた。」
 船霊さまもその船が不漁が続いた時とか、不浄なものを船に積んだ時などには、マンなおしに御神体を取り替えることがあった。魚島では死人を乗せた時に取り替えていたという。

  ⑤ 船タデ

 木造船時代はどの漁村でも船タデが行われていたが、プラスチック船に切り替わった現在では見ることが少なくなった。現在では船台にプラスチック船を引き上げて、船底や船の喫水の下につく水あかを削り落とし、塗料を塗るだけである。
 船タデは船底を虫に食われないために焼く仕事である。昔は丸太のコロで木造船を浜に引き上げ、船底に付着している海藻や貝類をかき落とし、松葉や杉葉(魚島では江ノ島のススキを使用する。)をタデ草(船タデの燃料)として燃やし船底を焼く。その際、船の船霊さまは船タデをすると熱いのでしばらく船から離れていただく。タデ草を動かす棒の事をタデ棒という。船タデが終わるとタデ棒で船底を3回叩く。それは離れてもらっていた船霊さまに船タデが終了したことを知らせ、船にお帰りいただく合図である。
 漁村では正月2日の乗り初めの際には、船霊さまにお神酒を供え、酒で船を清めて1年の海の安全と豊漁を祈願する。これは網船だろうと釣船だろうと現在も続けられていることである。

  ⑥ 網霊さま

 地引き網や船引き網、タイ縛り網などの比較的多くの労働力を必要とする網漁業には網霊さまがあった。瀬戸内海の島々では、網の中央部分にエビスアバと呼ぶ浮子をオオダマサマと呼んでいた(写真3-2-4参照)。
 魚島では八十八夜前後にタイ網を下す行事があった。それまで烏帽子型のオオダマさまは網主の神棚に祭られていたが、操業開始とともに網霊も網船に移動する。島の人々は、網霊さまが船に在る間は食いはずしがないのだと喜んでいた。先に紹介した「ヒッコメ、ヒッコメ」の漁業儀礼も網霊さまを祭った行事である。この行事は大正末まで実施されていたが、タイ縛り網の廃業とともに消滅した。

 ウ エビス(恵比寿)さま信仰

 漁民や船乗りなどの海に生きる人々の信仰の中で、海神としてワタツミノカミ系列の神々の信仰、船神としての船霊信仰、網の神としての網霊信仰とともに深く信仰されているのがエビス信仰である。エビス顔という表現があるが、神社の境内や漁協や村落の中にあるエビスを祭る祠の中に安置されているエビスさまの御神像は、たいてい釣りあげたタイを抱えて烏帽子をかぶった福々しい姿の福神である。      
 和歌森太郎氏は『美保神社の研究(⑰)』の中で、エビス信仰は民族神道の古典と述べているし、北見俊夫氏は『日本海島文化の研究(⑱)』の中でどうも日本の神々はやたらに立身出世を考えて国家の中央に結び付くことばかり努力するむきが強かったが、エビス神にはそれが見られない。それだけにエビス神信仰には民俗学的研究の重要性が潜んでいることを指摘している。事実、漁村の神社でエビスを主祭神として祭る神社でも、広い境内を有する神社は少なく、他の主祭神を祭る神社の境内社の中のエビスは小さな祠で祭られている場合が多い。大三島さまや八幡さまの社が集落や海を見下ろす高台に位置しているのに対し、エビスさまは漁民集落と同一レベルの集落内に位置している。
 しかし、神社の位置や建物や境内の広さに関係なく漁民の信仰は厚く、漁民はオイベッサン・エベッスサンと呼び親近感を持って接している。
 島々に祭られている神は島根県美保関の美保神社を宗社とする祭神コトシロノヌシノミコト(事代主命)と兵庫県西宮の西宮神社の祭神エビスノミコト(蛭子命)のいずれかである。エビスは「戎、笑子、蛭子、夷子」の字が充てられている。
 このように神社の名称のエビスも、美保、恵比寿、恵美寿、蛭子とさまざまである。祭神はコトシロノヌシノミコトとエビスノミコトの二つがあるが、島にはコトシロノヌシノミコト系統が多く見られる。
 コトシロノヌシノミコトについては、『古事記』に「オオクニヌシノカミ(大国主の神)、またカムヤタテヒメノミコト(神屋楯比売の命)を娶(めと)りて生みたまへる子、コトシロノヌシノカミ(事代主の神)。」とあるようにオオクニヌシノカミの子供となっている。アマテラスオオミカミ(天照大御神)がタケミカズラノカミ(建御雷の神)とアメノトシフネノカミ(天の鳥船の神)の二神をオオクニヌシノカミのもとに遣わして、国譲りの談判交渉にやって来た時、オオクニヌシノカミは「あは、え白(もう)さじ。わが子ヤエコトシロヌシノカミ(八重言代主の神)、これ白すべし。しかるに、鳥の遊び・取魚(すなどり)して、御大(みほ)の前(さき)に往きて、いまだ還り来す。」すなわち、私はお答えできません。わが子ヤエコトシロヌシノカミがお答え申しましょう。今は鳥の猟や魚を取るために美保の岬に行ってまだ帰ってきませんと申しました。そこで天の鳥船の神が美保の岬にコトシロノヌシノカミを迎えに行った。コトシロノヌシノカミは父のオオクニヌシノカミにかしこんで、この国はアマテラスオオミカミの御子に献上いたしましょう。と申し上げるとともに、すぐに乗って来た船を踏み傾け、かしわ手を逆に打って船を覆し、青柴垣(あおふしがき)に変えてそこに隠れられた。美保神社では毎年新暦4月上旬に蒼柴垣(あおふしがき)神事が奉斎されている。
 エビスノミコト(蛭子命)については、『古事記』にイザナギノミコト(伊耶那岐命)とイザナミノミコト(伊耶那美命)の神が高天の原の玉飾りのある矛で、天の浮橋に立って、漂っている土地をかき回し、海水をころころとかき鳴らして、矛を引き上げた時に、矛の先からしたたり落ちた海水がかさなり堆積してできたのが淤能碁呂島(おのごろしま)である。イザナギノミコトとイザナミノミコトの二神がこの淤能碁呂島で最初に生んだ子が「水蛭子(ひるこ)」で、すなわち蛭子(えびす)であり、不具であるということで葦船に入れて流し捨てたのである。
 コトシロノヌシノカミが美保の岬にしばしば魚釣りに遊幸する神さまとして、またエビスノミコトは葦船によって海へ流された神としてともに海に深くかかわる神として信仰されるようになったものと考えられる。美保関の人々は今でも「沖(おき)の御前(みさき)」と「地(ち)の御前(みさき)」と言われる美保の岬島をエビスさんのタイ釣り場所と言っている。
 この美保神社のコトシロノヌシノカミと西宮神社の西宮戎(えびす)の信仰圏が拡充していった要因として海運業の発達があげられる。西回り航路の開発によって美保関は船舶の寄港地となった。船乗りたちによって、神社の霊顕が浦々に宣伝され信仰圏が拡大したこと、もう一つの要因として、美保神社の1年神主の存在、西宮の神人であるエビスカキの存在をあげることができる。
 美保神社は古来より神社として氏子側との協力により運用されてきた。神社側は世襲の宮司がおり、氏子側は抽選によって年々の奉仕者が定められ、選ばれた奉仕者が1年神主である。神主になるためには異常なまでの精進、潔斎、謹慎の生活が始まり、1年神主に神が憑着して神の意志を伝える託宣がなされる神秘性が、また船乗りたちによって宣伝され、全国的に信仰圏を広めていったものと考えられる。
 西宮神社のエビス神について、中世末期以降福の神として全国的に信仰が拡大されるようになるのは、西宮神社の神人すなわちエビスカキの力が大きかったと言われている。このエビスカキとは西宮の護符を全国津々浦々まで足を伸ばし頒布していった人々である。エビスカキは各家を回り門付をしてエビスの木偶人形を舞わして家の長久と繁栄を祈るとともに、漁村では豊漁を、農村では豊作を商家では商売繁昌をことほぎ回った。このエビスカキが西宮エビスの神徳の深さを宣伝するのに大きくかかわった。戦後しばらくの間、烏帽子をかぶったエビスカキが門付をする光景はよく見られた。エビスカキにあやかり、いかがわしい若い衆が便乗して門付し、強圧的に金を要求していたことも、戦後風俗のひとこまであった。
 島々のエビスさま信仰はどうなっているか。魚島村では産土(うぶすな)神社である亀居八幡神社の飛地境内社として、魚島の集落の東端の俵崎に石室の蛭子神社が祭られ、西には現在の診療所の上に事代神社が祭られていた。東の蛭子神社はその場所に焼却場をつくったため、その横に移動して新しく祠(ほこら)がつくられた。この神社の神像はエビス像であるが、神像の底部には文禄3年(1594年)の墨書きがされている(⑫)。魚島でも昔は1月10日の十日戎はにぎやかにお祭りしていたが、現在では4月の第4土曜日のエビスまつりの方が盛大で、当日は村中の人々が蛭子神社の前で大漁を祈願しお祝いをしている。かつてタイしばり網盛んなりしころは、集落の西端にあるビシャモン岩に獲れた大ダイを「オオダマエビス」と唱えながら3回投げつけお供えする。同様にエビスさん、コンピラさん、春日さんにも供え、獲れたタイを大根なますにしてモロブタに入れ島中に配って回った。網漁業でも網の中央部分の烏帽子型の浮子をオオダマサマとして大切に扱っているが、これをエビスバとも呼んでいる。
 宮窪でも昔は正月8日には戸代(とだい)の鼻のエビスサンにお神酒を供え、その年の豊漁を祈願していた。宮窪の浜漁村は現在16常会に分かれているが、平均20戸の常会で頭屋を選び年3回(1月10日、10月10日、12月10日)エビスまつりを行っていた。その時は甘酒をつくりふるまわれた。宮窪は昔から杜氏が多く、漁民以外の杜氏の人々も熱心にお祭りしていた。現在ではエビスまつりには漁を休んでスポーツなどのレクリエーションを行い親睦を図っている。
 吉海町椋名では1月12日にエビスまつりが行われ、美保神社に幟をたてて参拝する。家が広くて死人のない家を頭屋(とうや)とし、頭屋では支度ができると太鼓を叩いてまわる。漁師は頭屋に集まって酒をくみかわして祝っていた。
 エビス神は海の彼方からやってきた神、すなわち寄神としての性格があると言われている。今回調査した島では確認されなかったが、愛媛の漁村にも海に流れていたエビスを拾いあげて持ち帰りお祭りした八幡浜大神宮の例や、三崎の正野ではエビスの祠の前に、(海中から取ったものか、浜に流れついかものか聞き漏らしたが)サンゴが供えられているし、すわりのよい石が供えられている。サンゴや石を供えている例は愛媛の漁村には多く見受けられる。

写真3-2-1 水難溺死者の霊供養碑

写真3-2-1 水難溺死者の霊供養碑

魚島篠塚漁港の俵崎にまつられている。平成3年10月撮影

写真3-2-2 木造船のバッシャ船

写真3-2-2 木造船のバッシャ船

宮窪町**さん所有の蛭子丸(13.63t)。渡辺造船所の最後の木造船。昭和50年9月27日進水、17年たった現在もなお現役として活躍しているイカナゴ漁のバッシャ船。平成3年10月撮影

写真3-2-3 船霊さまのほこら

写真3-2-3 船霊さまのほこら

宮窪町**さん所有蛭子丸の操舵室にまつられている船霊さま。平成3年10月撮影

図3-2-10 船霊さまの賽目

図3-2-10 船霊さまの賽目


写真3-2-4 船霊さまのエビスアバ

写真3-2-4 船霊さまのエビスアバ

越智郡魚島の烏帽子型の浮子(エビスアバ)と浮樽。平成3年12月撮影

写真3-2-5 美保神社

写真3-2-5 美保神社

島根県八束郡美保関町の美保神社は、漁民や船乗りの信仰が厚い。祭神は三穂津姫命、事代主神である。平成4年2月撮影