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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(1)思い出の作物と農作物

 **さんは、もともと松山市道後生まれであるが、3歳の時に親戚で子供のなかった**家の養女となった。養家には、水田30a、畑70aの耕地があり、米麦のほか、ミカン、ショウガ、タマネギ、サツマイモ、除虫菊など、戦前、中島町で作られていた主要作物はほとんど作っていた。彼女も、小学生のころから養母に連れられて田畑に出かけ、農作業の手伝いをしながら、その手ほどきを受けた。戦前の農村では、小学生も農作業の重要な働き手であり、田植えや秋の取り入れの季節には、小学校も農繁休校となるほど家族みんなで働いた。
 中島町では、昭和40年ころまでに水田は全部柑橘園に換わり、今は、一粒の米を作っているところも見られないが、彼女が子供のころには、稲の苗取りや田植えなど、子供たちも泥まみれになって、その作業を手伝っていた。タマネギの出荷も印象に残っている農作業の一つである。タマネギは、年によって価格の変動が大きく、農家の経済を圧迫することもあったようだが、作りやすい野菜であるため、どの農家でもかなりの栽培面積を持っていた。6月に収穫したタマネギは、山の小屋に一時取り込み、夏ごろまで貯蔵してから、毎日少しずつ浜まで運び販売するのであるが、浜売りと呼ばれる商人や、ときには渡海船と呼ばれる船便を利用して、広島方面にまで出荷することがあった。そのころには、道路も整備されておらず自動車もなかった時代で、山道や坂道の荷物の運搬は、すべて人力で行い、専ら背中に背負ったオイコが頼りであった。**さんも小学生のころから、毎朝早く起きて、学校へ登校するまでに一荷ずつタマネギを運んだ体験がある。朝露を踏みしめながら……。
 また、中島の特産として名をはせた、ショウガ栽培にも思い出がある。**家の父は「半年間の栽培で、これだけええ金の取れる作物はない。」と力を入れていたが、ミカンが台頭する以前の換金作物として、東中島町一帯にその栽培が広かっていた。ただ前述のとおり、大正8年に発生した土壌伝染性の病害によって、栽培面積は次第に少なくなり、ショウガを1年作れば、3年間は休まねばならないという輪作方式が、ますますその面積を狭めていた。一方では、この優れた作物を少しでも長生きさせようとする、産地維持の努力が続けられた。そのころ中島町の農家では、ほとんどの家で牛を飼っていたが、畑に出る時には、家畜のきゅう肥を背中に負い、家に帰る時には、牛に食べさせる草を刈って運ぶという生活習慣ができていた。現代流に言えば「自然生態系農業」の原型であるが、とくに土作りの大切なショウガ栽培にあっては効果的であった。とにかく「土地を肥やし、作物を育てる」先人たちの努力が、今日の中島農業を支えてきたものと言える。
 ところで小浜集落では、このショウガの貯蔵に、地元の神社境内のそばにある集落共有地を充て、およそ60戸の農家がこれを利用していた。各自の場所は、毎年秋の貯蔵前に抽選によって取り決めが行われ、そこに大人の高さほどの穴を掘って、春の出荷時まで貯蔵するのである。この抽選による共同貯蔵は、古くから行われてきた小浜地域独特の協定活動と言えるが、販売に際しては、各農家の自由意志に任されていたため、個人での商人取り引きが多く、共同販売に結び付かなかった。
 小浜集落から1.5kmばかり離れた神浦集落の野菜販売方法は、地域の総代(区長)が全責任を持って共同販売に当たっていた。あらかじめ農家の生産量を確認調査していた総代は、価格の動向によって販売数量を調整し、各農家の出荷割当てをつかさどってきた。しかし、現在のようなきめ細かい情報はなく、青果業者の意見を参考に価格の取り決めをする状態にあったから、すべては業者ペースの販売が進められたようである。
 このように、同じ中島の地域にありながら、集落によって生産や販売の仕組みがそれぞれ異なり、生活習慣にも少しずつ開きがあることは、かつて松山藩、大洲藩に分かれていた藩政時代の名残や、島内道路が全面開通されるまでの、孤立的な立地条件が、その背景にあると言えよう。