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瀬戸内の島々の生活文化(平成3年度)

(2)中島に生きた若い人々

 ア 若者宿と娘宿
 
 「中島町誌(①)」によると、中島地方では古くから「若い者組」という自然発生的な組織があって、盆踊りの行事や祭礼のみこしかき、農産物出荷の仲仕役などの奉仕的活動を行い、集落の主要行事には欠くことのできない存在であったという。そして若者たちは、学校を卒業すると、全員この若者組織に加入して、25歳になるか妻帯するまでは、泊まり宿で夜だけの合宿生活を行うことが、習わしであった。いわゆる「若者宿」である。一方娘たちのグループにも「娘宿」があり、親たちも、小学校を終えた娘たちに布団を持たせて、この娘宿に泊まりに出す家がほとんどであった。娯楽の少ない当時の島の生活にあっては、当然、この泊まり宿が、若い人々の交流の場所となったことは言うまでもない。ただ、巷間(こうかん)に伝わる「よばい」の呼び名も、若者たちが娘宿などに遊びに出かける様を、おもしろおかしく表現したもので、必ずしも自由奔放な男女関係のみを指すことではない。
 若者たちのこの泊まり宿は、地域によって集落の公会堂や、宿親と呼ばれる篤志家の家が充てられ、ムラにおける唯一の研修機関と位置付けられていた。そして若者たちの自主生活では、長幼のしつけが厳しく守られ、宿親や先輩たちから教わる村落生活の仕組み、人間のあるべき姿についても、島で生きる若者たちにとっては、意義深いものがあった。やがて、時の流れとともに、この若者組は、青年会・青年団へと発展していったのである。
  
 イ 戦前・戦後の娘たち

 島の娘たちの生活にも、戦前と戦後はかなりの開きがある。
 戦前の若い娘さんは、学校を卒業すると一時的に島を離れる人が多かった。松山・阪神方面での就職である。仕事は工場勤務やお手伝いさんがほとんどであったが、当時の娘たちは、このことを一つの花嫁修業として考えていた。したがって適齢期になると島に帰って、島の若者と結ばれるケ-スが多く、親たちも、一時的に島を離れる娘さんの就職については、何ら心配することはなかった。
 戦後の中島の娘たちは、学校を卒業してもほとんど島を出ないで、自分の家で生活をする人が多くなった。**さんも、そして小浜地域の同じ年ごろの娘さんたちも、ほとんど家に残って農繁期の手伝いや、集落のミカン出荷組織である高山組合のミカン選別作業に従事した。一方農閑期になると、娘たちは農業から解放されて、お茶、生け花、裁縫などの習い事に通うのである。地域の中には、このような花嫁修業の娘さんを受け入れて指導する女性も何人かいた。そして島の外に出なくても、女性としての基礎知識は十分習得できる環境ができあがっていた。
 戦後のしばらくは、農村地帯では若い人も多く、中島での青年団活動も活発であった。農家の長男はほとんど農業を継ぎ、次・三男は大工など、ほかの職種の道を歩む人が多かった。ところで中島一帯の農村地域では、「紋日」(祝祭日、節句など)には農作業を休む習慣があり、この休日が若い人たちにとっては何よりの楽しみである。男女の青年が、みんなで一緒になって和船をこぎ出し、船上で和気あいあいとした団らんは、海辺の青年特有の社交場である。若い娘たちのさすパラソルの色模様がさらに華やかさを添え、島は青春そのものであった。農業以外の若者からは「俺らも総領に生まれれば良かった。そしたら農業をやりながら紋日は自由に休めるのに……。」とうらやむ声も聞かれた。
 **さんは当時を振り返って、「古い時代から続いた〝若者宿〟の習慣は形を変えて、その名残があったが、私の娘時代には小浜地域での娘宿はもうなくなっていた。戦後の私たちの青年期は、中島ではとくにスポーツや演劇活動が盛んで、昭和24年には、東中島村青年団が体育優良団体に選ばれ、文部大臣表彰を受けたこともある。この青年団活動への参加が、男女青年の交流の場となった。」と語る。そして、「今どきの若い人たちの遊びと違って、金をかけることはほとんどなかったけれど、それでも皆で集まって何かをやろうとすることが結構楽しかった。」と当時を懐かしむ。
 
 ウ 弁論大会での苦い体験

 中島地方の青年団では、古くから弁論大会が盛んであった。忽那一族の氏寺「長隆寺」の御開帳記念行事にも、青年団の弁論大会が加えられたほどであるから、その発表に当たっては、衆知を集めて原稿を練ったといわれる。そしてこの伝統は、終戦後の青年団活動にも引き継がれた。
 当時、弁論大会への出場は男子で占められ、女性の発表はほとんど例がなかったのであるが、ちょうど女子青年の支部役員をしていた**さんは、周囲から勧められるままに壇上に立つことになった。彼女は「中島でも、水道の施設やガスが利用できるようになれば、住み良い家庭生活が味わえるので、その日が早くくれば良い。」という意見を述べた。
 水道施設のなかったころの中島地域の飲料水は、すべて井戸水に依存していた。大正時代に調べた飲料水検査の記録によると、東中島村の井戸763か所のうち、飲料水として適当なところは218か所にとどまり、およそ70%は不適当と診断されていた。さらに昭和21年12月の南海地震は、中島地方でも地盤変動を起こし、海岸に近い民家の井戸は、海水が侵入して飲料水には使えない状態にあった(①)。
 また井戸水の利用には、ハネツルベ(写真3-1-20参照)と呼ばれる方法で、屋外の深井戸から水をくみ上げ、バケツで屋内に運んで使用する不便さは、農作業を終えてからの主婦の大きな負担であり、島しょ部の女性のかかえる共通の課題であった。食事を作る場合にも、マッチで松葉くずに火をつけて、かまどの火を起こす生活であったから、家事の合理化を考えた上での発言であった。彼女の生まれが松山であり、女学生の一時期を実家で過ごした生活体験から、そのころ松山市内で一般化されていた生活様式を、一つのモデルとしたものである。
 ところが**さんのこの発表に対して、同じ地域内からかなり厳しい批判が出てきた「そんな町並みの生活が、中島ではできるはずがない。そのような生活は夢のまた夢」、「あの人は、しょっちゅう松山へ出かけているから、町かぶれしている。」の言葉を聞くたびに、「あんなこと、言わなければ良かった。」と当時はつらい思いもしたという。
 「その後、およそ10年を経て、中島の各家庭でも自家製のホームポンブが設備され、プロパンガスも入ってきたので、生活はずいぶん楽になってきた。今はそのことを喜んでいる。」と語る。大浦・小浜地域では昭和36年に、全戸に完全給水できる簡易水道が完成し、その他の地域を含めて今は中島町全体で生活用水の心配はほとんどない。

写真3-1-20 民家の井戸水を汲むハネツルベ

写真3-1-20 民家の井戸水を汲むハネツルベ

中島町 小浜集落にて。平成3年10月撮影