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宇和島市

伊達宗城(1818~1892)

 宇和島・伊達家第8台藩主。江戸(現、東京都)の旗本・山口直勝の次男として生まれる。後嗣のなかった宇和島藩主・伊達宗紀の養子となり、天保15(1844)年8代目藩主となった。2年後の帰藩後から先代に続いて藩政改革を推進、10年余りにわたって殖産興業、文武教育の振興、富国強兵と洋式兵学の導入などを進めた。特に蘭学の導入を積極的に図り、二宮敬作を重用し、高野長英や村田蔵六(大村益次郎)を招いて、蘭書翻訳・蘭学教授・砲台設計・軍艦建造などにあたらせた。
 幕末期には、将軍継嗣問題などの幕政にも関与して一橋慶喜将軍擁立派の一員として動き、安政の大獄に関係して隠居したが、幕末四賢侯の一人に数えられるほどの開明的な発想の持ち主であった。
 明治政府では、明治2(1869)年、民部卿兼大蔵卿となって鉄道建設のイギリス借款に尽力、明治4(1871)年、全権として天津(てんしん)で日清修好条規を調印、日清間の対等条約として注目された。その後、公職は退き華族会館第一部長、修史館副総裁などを歴任した。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【追記】
伊達宗城墓所:等覚寺(宇和島市野川)
       ※ 伊達家歴代藩主の墓所は、等覚寺と大隆寺にある(ともに宇和島市内)

【山里倉庫について】
 この建物は弘化2(1845)年、8台藩主伊達宗城の代に建てられたもので、城内調練場(いまの宇和島郵便局付近)の片隅に武器庫として使われたという。
 間口29.484m(16.21間)、奥行6.097m(3.35間)、建築面積(付属建築含む)228.805㎡(68.21坪)。のちになり伊達倉庫株式会社の米倉に使用された。
 昭和41(1966)年、伊達家から宇和島市に譲渡され、翌42(1967)年8月旧藩時代の建築物として保存するため原型のまま城山郷土館として、ここ藤兵衛丸跡に移築したものである。(説明プレートより)



①伊達博物館前の銅像

①伊達博物館前の銅像

宇和島市御殿町9-14

②伊達博物館

②伊達博物館

宇和島市御殿町9-14

③山里倉庫

③山里倉庫

宇和島市丸之内1丁目(宇和島城藤兵衛丸跡)