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西予市

西園寺公広(生年不詳~1587)

 戦国時代末期の宇和郡の領主。宇和郡の西園寺氏は、鎌倉時代に公経が宇和郡地頭職を入手し、その下地管理のために南北朝時代に一族が宇和荘に下向して土着したものと言われる。公広はその末裔。郡内の黒瀬城(現宇和町卯之町)を本拠にして南予地方一帯を支配した。黒瀬城跡には今も、土塁や堀切によって守られた多数の郭の跡を確認することができる。戦国末期の宇和郡は、土佐の一条氏や長宗我部氏、豊後の大友氏などの侵略をしばしばうけたが、公広はその対応に苦慮した。永禄11年(1568)に、喜多郡の宇都宮氏が一条氏と結んで行動をおこした時には、中予の河野氏を支援して宇和・喜多両郡境の鳥坂峠でこれと戦った。元亀3年(1572)には、一条氏を攻撃したが、同氏を支援する大友氏に背後をつかれた。また天正年間には、長宗我部氏がしばしば侵入を繰り返した。天正13年(1585)、小早川隆景の伊予制圧の際これに降伏し、羽柴秀吉の九州征伐時には、隆景に従って各地に転戦した。その後宇和郡九島(現宇和島市)に引退したが、天正15年、領主として入部してきた戸田勝隆に謀殺された。卯之町光教寺に位牌と供養碑が残されている。(『愛媛県史 人物』から)


①西園寺公広卿御廟入り口

①西園寺公広卿御廟入り口

西予市宇和町卯之町(光教寺墓地)

②西園寺公広卿御廟

②西園寺公広卿御廟

西予市宇和町卯之町(光教寺墓地)

③西園寺公廣卿記念碑

③西園寺公廣卿記念碑

西予市宇和町卯之町(光教寺墓地)