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西予市

緒方惟貞(1822~1883)

 文政5年~明治16年(1822~1883)宇和島藩野村の庄屋。通称与次兵衛、諱は惟貞、字は成卿。静山、静隠と号す。文政5年5月8日、野村庄屋惟真の次男として生まれる。嘉永4年(1851)野村の庄屋職を継ぎ、宇和島藩より5人扶持を与えられる。緒方氏はもと大神氏の一族で、豊後国の国人であった。戦国時代、大友氏との反目もあって宇和郡野村に居住するようになり、惟照の時、宇都宮氏にかわり白木城主(現野村町)となる。秀吉の四国平定で下城し、江戸時代には代々野村庄屋職を継承してきた。惟貞の祖父惟吉(源治)は野村・山奥組代官ともなった人物である。文化14年(1817)被差別民が、その頭に対して待遇改善を要求した時、庄屋であったその予惟真(惟貞の父)と共に、被差別民の要求を支持して藩庁と交渉する気風をもっていた。惟貞は、頼山陽の長子聿庵に師事し、藩内では勤皇僧晦巌や上甲振洋とも交流があった。文武を学び、特に弓術にすぐれていたという。
 文久年間(1861~1864)、騒然とした世情に呼応して脱藩、上坂している。このため藩の処罰をうけ、さらに文久3年隠居、子の惟忠(陸朗)に庄屋職を譲った。しかし惟忠が幼少のためその後も実質的には彼が実権をもっていた。のち、大津事件で著名となる児島惟謙は一族で、嘉永5年(1852)より3年間酒造業を手伝いながら同家に寄宿した経歴をもち、同家の家風の与えた影響も少なくなかったと思われる。嘉永5年野村で大火があり、100戸が罹災した。このため惟貞は愛宕神社(現野村町)に無火災を祈願し、100年間の願相撲を奉納することとした。これが現在も伝わる乙亥相撲のはじまりである。
 明治3年(1870)野村騒動がおこった。前年の凶作で大豆銀納の資金に窮した農民達が、櫨の実の買い上げ価格引き上げを要求して蜂起し、のちには村役人層に対する不正糾弾の要求を掲げるようになった騒動である。領内各地から野村に屯集した農民は1万数千名とも言われる。彼等は名門で声望のあった緒方庄屋に押しかけ、藩民政局もその調停をのぞんだ。惟貞は、彼等に食糧や筵さらに提灯まで提供する一方で農民代表を呼び出し、祖父惟吉勤役中の掟書を読み聞かせ、要望書を提出するよう説諭している。こうして両者の調停に成功し、野村騒動を解決に導いた。明治16年3月20日没。行年60歳。神葬によって安楽寺(現野村町)に葬られる。(『愛媛県史 人物』より)


①児島大審院長苦学之地

①児島大審院長苦学之地

西予市野村町野村12-334(緒方酒造付近)

②児島大審院長苦学之地にある惟貞の碑

②児島大審院長苦学之地にある惟貞の碑

西予市野村町野村12-334(緒方酒造付近)

③緒方本家

③緒方本家

西予市野村町野村12-17(緒方酒造)