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西予市

兵頭太郎右衛門【泉貨居士】(生年不詳~1597)

 生年不詳~慶長2年(~1597)泉貨紙の創始者、泉貨居士と号す。泉貨居士の祖先は河野系の土居氏で、父を土居清兵衛尉と称し、東宇和郡鳥鹿野村(渓筋村)鎌田城に住み、宇和の松葉城主の西園寺公広に仕えた。泉貨居士は土居清兵衛の次男で、通正(道正)と称し初め僧となって野村の安楽寺で修業した。彼は剛勇で気慨に富んでいたので、野村の白木城主宇都宮乗綱に認められ、18歳で還俗して太郎右衛門と称し西園寺公広に仕えた。
 天正のころ魚成の竜ヶ森城代の魚成源太が、土佐の長宗我部に通じたので、公広は太郎右衛門をして討たしめた。彼は源太を土佐境の桜ヶ峠で倒した。公広はその功を偉とし、廿五貫文の上地を与え、且つ兵頭の姓を授けた。天正13年西園寺氏が亡び、戸田勝隆の世となるや、彼に仕えず、再び安楽寺に隠せいし泉貨居士と称した。慶長2年2月28日死去するまでの10年間に、楮を原料とする従来の和紙に、卜ロロとホゼを混ぜて粘着性を生かし、重ね漉きして強靭な和紙を発明した。これを彼の名をとり泉貨紙という。
 終戦当時の泉貨紙は統制外で片面のザラ紙を称した。本物の泉貨紙の製造家は昔は数百軒あったが、今は野村町高瀬の菊池定重一軒である(①)。泉貨紙の用途は帳簿の表紙、質屋や呉服屋で使うエブ札、文庫紙(たとう紙)、二月堂のお水取りに着用の紙子紙、四国へんろの経本、美術学校の卒業証書、サンドペーパー、坊さんの衣包みなどである。
 菊地の泉貨紙は通産省の伝統的工芸品に指定され、定重は県指定の伝統工芸士である。泉貨居士の墓も頌功碑も野村町の安楽寺にあり、墓は県指定の史跡である。文化8年の肖像画もある。(『愛媛県史 人物』より)

【追記:文中①について】
 国選択無形文化財に指定されている「泉貨紙」は、現在愛媛県西予市、愛媛県北宇和郡鬼北町、高知県高岡郡四万十町十川で製作されている。西予市においては、上記のとおり野村町の菊地製紙がなおその技術を継承し続けている。また、鬼北町においては昭和40年代にいったん衰退したが、昭和60年に「広見泉貨紙保存会」が結成され、昭和62年に泉貨紙第1号が復活。現在は「鬼北泉貨紙保存会」が製作を続けている。

①安楽寺

①安楽寺

西予市野村町野村3-286

②泉貨居士頌功碑

②泉貨居士頌功碑

西予市野村町野村3-286(安楽寺境内)