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大洲市

山中槃堂(1843~1884)

 山中槃堂は、天保14年上浮穴郡小田町村に生れ、名は碑文にあるもののほか字は子恕、実名は幸忠また忠彦ともいう。大洲藩士に列して加藤泰秋に仕え、中小姓四人扶持を給せられた。
 資性学を好み、明倫堂教授武田敬孝に漢学を、矢野玄道に国学を学び、また古学堂で神道のことを学ぶなど和漢の学に通じ、著書も多かった。彼はまた武道にも長じ、その上詩文和歌俳諧書画も巧みであった。
 1872年(明治5)には第9大区13小区戸長に就任して専心民政に尽くし、傍ら地方史の研究、郷土資料の収集調査に努め民心の高揚に尽くした。晩年は皇国精神鼓吹のため横林村に門人浜田晋三とともに国漢学舎の創設を図ったが、事半ばにして病に倒れ、42歳の生涯を閉じた。(『大洲市碑録 第一集』より)

【追記:碑の建立場所について】
 碑は、大洲神社の東、肱川側に建てられています。昭和燈(写真③)から石段を登ってまず境内に入り、そこから東へ少し降りた所にあります。

①山中先生之碑Ⅰ

①山中先生之碑Ⅰ

大洲市大洲417-16(神楽山、大洲神社)

②山中先生之碑Ⅱ

②山中先生之碑Ⅱ

大洲市大洲417-16(神楽山、大洲神社)

③大洲神社石段

③大洲神社石段

大洲市大洲417-16(神楽山、大洲神社)