データベース『えひめの記憶』
松山市
村上杏史(1907~1988)
俳人。温泉郡東中島村(現、松山市中島大浦)出身。本名清。東洋大学を卒業後、朝鮮半島へ渡り、木浦(もっぽ)の京城(けいじょう)日報で新聞記者として働きながら清原拐童(きよはらかいどう、福岡県出身の俳人、高浜虚子の高弟)に入門して俳句を学んだ。昭和8(1933)年には高浜虚子にも出会い、その翌年から、木浦で俳誌『かりたご』を主宰した。
第二次世界大戦終戦後は故郷の中島に帰り、創作活動を続けるかたわら、戦争被害者のための授産場を開くとともに、昭和22(1947)年には洋裁学院を開設して女子教育に努めた。
昭和29(1954)年、『ホトトギス』同人となって、愛媛県におけるホトトギス派の俳誌『柿』に加わり、その後、主宰となって組織の発展に力を尽くした。昭和42(1967)年、愛媛ホトトギス会会長に就任。また、昭和52(1977)年、松山俳句協会が結成されると同時に会長に就任し、昭和62(1987)年には日本伝統俳句協会に加わり、同協会の四国支部長を務めるとともに、愛媛県俳句協会会長となって全県下で俳句の指導をした。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)
【千秋寺にある句碑】
金色乃 佛の世界 梅雨能燈も
(こんじきの ほとけのせかい つゆのひも)
【成願寺にある句碑】
竹林の 奥能方より 黒揚羽
(ちくりんの おくのほうより くろあげは)
【太山寺参道にある句碑】
道ゆづる 人を拝ミ天 秋遍路
(みちゆずる ひとをおがみて あきへんろ)
【高縄寺山門前にある句碑】
むささびの 落とせし山毛欅の 実なるらん
(むささびの おとせしぶなの みなるらん)
①千秋寺にある句碑 松山市御幸1丁目401(千秋寺境内墓所入口) |
②成願寺にある句碑 松山市久万ノ台1751 |
③太山寺参道にある句碑 松山市大山寺町1730 |
④高縄寺山門前にある句碑 松山市立岩米之野 |