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松山市

栗田樗堂(1749~1814)

 俳人。商人。松山城下の松前町(現、松山市)出身。本名は政範。明和2(1765)年、同町内の松山きっての造り酒屋・廉屋こと栗田家の婿養子となった。
 家業の酒造業で財を成したほかに、明和8(1771)年より大年寄役見習、大年寄、大年寄格となり、享和2(1802)年、53歳の時に病のため辞したが、通算20数年にわたり松山藩の要職を務めた。
 また一面、俳諧に親しんで、天明6(1786)年、当時の全国諸芸の達人を示した書『名人異類鑑』に「俳諧上々、廉屋与三左衛門」と記されている。また、京に上って加藤暁台(かとうきょうたい)に学び、近世伊予第一の俳人といわれた。小林一茶は、その師・竹阿の旅の跡をたどり、寛政7(1795)年と翌年と2度も樗堂を訪ねている。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【追記】
 栗田樗堂墓所:①満舟寺(広島県大崎下島)
        ②得法寺(松山市萱町)

【庚申庵前の句碑】
 草の戸の ふるき友なり 梅の花

【阿沼美神社の句碑】
 浮雲や また降雪の すこしづつ

【厳島神社の句碑】
 はつさくら 華の世の中 よかりけり



①庚申庵前の句碑

①庚申庵前の句碑

松山市味酒町2-6-7

②阿沼美神社の句碑

②阿沼美神社の句碑

松山市味酒町3-1-2

③厳島神社の句碑

③厳島神社の句碑

松山市神田町1-7(樗堂の死の翌年に建てられた)