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松山市

下村為山(1865~1949)

 洋画家。俳画家。松山城下(現、松山市)出身。本名は純孝。18歳の時に上京し、初め本多錦吉郎(ほんだきんきちろう)の洋画塾「彰技堂(しょうぎどう)」に入塾、23歳のときに小山正太郎の画塾「不同舎」に移り洋画を学ぶ。明治23(1890)年4月の第3回内国勧業博覧会に出品した油絵「慈悲者之殺生(じひしゃのせっしょう)」が褒章を受け、新鋭洋画家として注目され、明治前期洋画壇の青年画家として活躍する。
 この頃、従兄弟(いとこ)の内藤鳴雪に同郷の正岡子規を紹介され、俳句に熱中するようになる一方、子規と邦画洋画優劣論を試み、その写生論は、子規の俳句革新に影響を及ぼした。また自身は、俳句の写生を日本画において試み、近代日本画に新境地を開くとともに、俳画の研究に没頭してその大家となった。俳人としても知られ、俳号を「牛伴(ぎゅうはん)」という。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【下村為山の句碑】
 新涼や 灯ともして 市さかり

【松山市の市章について】
 下村為山のデザインにより、明治44年に制定されました。松山市の市名にある「松」と「山」をデザイン化したものです。

①正岡子規の髪塔

①正岡子規の髪塔

松山市末広町16(正宗寺内、子規堂もある)

②内藤鳴雪の鬚塔

②内藤鳴雪の鬚塔

松山市末広町16(正宗寺内、子規堂もある)

③松山市の市章

③松山市の市章

松山市二番町4丁目7-2(松山市役所)

④下村為山の句碑

④下村為山の句碑

伊予市中山町丑217(厳島神社)