データベース『えひめの記憶』
松山市
伊佐庭如矢(1828~1907)
県吏員。道後湯之町の初代町長。文政11(1828)年、道後の医者・成川国雄(なるかわくにお)の三男として生まれた。儒者・三上是庵(みかみぜあん)について学を修め、御宝(みたから)町に家塾を開き、次いで松山藩の重臣・菅良弼(かんりょうひつ)の家令になった。明治維新後、松山藩に出仕して小学校世話方や社寺掛となり、廃藩置県後は県吏員として戸籍掛、社寺並衛生掛を担当した後に県幹部に抜擢され、高松支庁長、庶務課長、新設の衛生課長を歴任し、一時内務省図書局事務取扱となって上京したが、翌年には愛媛に呼び戻された。
明治15(1882)年、山田香川郡長となり、その翌年からは県立高松中学校(現、香川県立高松高等学校)校長を兼ねて教育界でも活躍した。緊縮財政により高松中学校が廃校となると、金毘羅神宮禰宜(ねぎ)に就任して財政の立て直しを行い、その功により内務省より一代恩給が下賜される名誉を得た。
明治23(1890)年、出身地の道後湯之町町長に推され、以来、10年以上にわたりこの職責にあった。この間、道後温泉を町営に移し、明治27(1894)年4月、三層楼の道後温泉本館(現在、国指定重要文化財)を建築した。また有志と計画して道後鉄道会社を設立し、道後温泉本館開業の翌年、一番町及び三津口と道後温泉の間に軽便鉄道を走らせて湯治客を誘致した。道後温泉繁栄の基礎を築いて町長を勇退した後は、悠々自適の生活を送り、80歳で没した。(『愛媛人物博物館~博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)
【追記】
伊佐庭如矢墓所:道後鴬谷墓地内(ホテル椿館北側)