データベース『えひめの記憶』
面河村誌
一 忠光山観音院
忠先山貴福寺観音院の明学は享保六年(一七二一)袈裟の着用を許可されている。
補任袈裟之支
明学坊
右彼袈裟取令補任仍状如件
享保六年七月十六日
法印 快 端
法印 賢 任
道後湯築城の河野氏敗水、久万明神の大除城開城でその城主大野直昌も河野の後を追って安芸国竹原に渡った。
大除城開城後、その残党とその他かかわりのある大味川六人衆と呼ばれる面々が、大味川開拓の鍬を下してから約一〇〇年間、着々とその実が結ばれた時期である。
文久二年(一八六二)明学から、一四〇年後の秀学は、権大僧都に補任されている。
伊豫国浮穴郡杣野村
観音院秀学
補 任 応令許可権大僧都支
右奉
当山法頭御門主御気色件人宜令任権
大僧都依而御消息行之者
文久二年七月三日
僧正法印 浜 隆
秀学は、学問をよくし、漢文の素読を教え、観音堂を建てて、みずからは秀学坊と称して儒学に精通し俗世とのかかわりを好まなかったようである。
杣野十一番耕地一四九番地、ここが代々高岡家の住所であり、通称「お寺」と呼ばれたけれども、秀学はさして、宗教的な活動もせず、学問と瞑想、世俗に超越した風格があったと伝えられている。