データベース『えひめの記憶』
面河村誌
一 面河の俳句
昭和二十年戦争に負けた混乱期の中で、食糧難就職難に喘ぐ屋促する時、ささやかながら、面河の文化の火を絶やすまいと、俳句愛好者の切実な気持ち。たとえ十七文字の短かい語句の中にでも花鳥風詠をよみこもうと趣味の俳句会が、渋草のみならず村内の愛好者で催されていました。
それが面河村の文芸というのか、俳句として充実したのは、昭和三十二年三月、竹田昇・中谷修らの協力に依って、面河村の俳誌「蔡」の創刊に結集された感じでありました。
当時笠方にも、日野春峯・小椋拓らが、笠方俳句会誌として、「初蝶」を発行いたしました。
このようにして、面河俳壇は、その黄金期を迎え、中川武久・中川紅渓(清愛)・中川呑天坊(正直)・高岡峯雪(慶徳)・竹田独笑(昇)・中川英明・伊藤義一らが活躍した時代でもあります。
昭和二十四年一月、愛媛県下有数の月刊俳誌「雲雀」を主宰されていた、品川柳之の添削指導を受けることになり、「蔡」「初蝶」を合併、改めて「樹海」を発刊することとなりました。
しかしながら、昭和三十四年七月、面河俳壇の中心的な指導者であった中谷修・中川寿明が南米ブラジルに移住、その後、人移り又来りなどしつつ、時には我等がささやかながらはぐくんできた面河の俳句も、まさに消え去らんとする時期もありました。でも、決して火は消えたのではありません。菅鶴夫・中川清愛・伊藤憲次郎ら、尚、健在で、面河俳句の伝統を守りつづけておられます。
今では、あまり知る人もなけれども、昭和二十年以降の、面河俳壇の、大体の歴史であります。とりとめのない事をおぼろな記憶をたよりに、書き記してみました。先生の方で、よしなに、おまとめ下されば幸と存じます。よろしく。
昭和五十二年八月十四日
高 岡 豊
松本光夫様
この手紙は昭和二十年、つまり太平洋戦争終了後の、面河俳壇の略史である。しかしながら、それ以前にも、非常に素ぼくな俳句があり、句会を催していた。例えば、中組三社神社に奉納してある俳句が、その一つであり、恐らく、これが、面河俳壇のルーツであり、貴重なものではあるまいか。
大正八年(一九一九)一月、願主高岡仁鹿(大正十三年死亡)伊予道後、松の本選として、中組はもちろんのこと土佐・温泉郡川之内方面より、俳句同好者相寄り、句会を開き、その選句が、神社に寄進され、それが今もなお、残っている。非常に興味深く当時の農村で、他郷の俳友を誘い、一タの句席に、その風流を競う、あるいはこれが面河村での俳句、句会の始めであったかも知れず、これを、氏神の社殿に奉納する心の豊かさを、忘れてはなるまい。
秋晴や苔の下る唄朗 五 味 愛 茂
鍋ずみの浮いて根芹の囲まるる 五 味 政恵女
水番のかがり灯つけて水鶏かな 五 味 茂 雄
旭赫々伊予アルプスの雪白し 高 井 亀 助
猫の恋馬子石投げて通りけり 仁 鹿
面河村俳句の黄金時代は、昭和二十二年機関紙「蔡」、それから「初蝶」、蔡と初蝶が合併して「樹海」、弘形村(美川村)の俳壇を中心とした「むささび」、面河村広報紙の面河俳壇、品川柳之主宰の「雲雀」など、及び中川紅渓(清愛)が、しばしば投句した大阪毎日新聞の「毎日俳壇」などに、代表されている。こうした紙上の中から抽出したものを記載してみる。
◎初蝶(昭和二十四年十月・笠方俳句五周年記念集)
中川孤泉(春義)
紅梅や妻より弁当箱受くる
梅匂ふ畑仕事は身につかず
伊藤孤月(憲次郎)
夕立や蟻八方の地に急ぐ
鳳仙花何かありたる家らしく
日野隆子
百日紅の花落ち深山黄昏れる
炎天に登りし山路今暮れる
伊藤胡丹
父となりていよいよ忙し炭を焼く
不機嫌な妻の居ろ炉を立ちにけり
小椋 拓
連峰の朴咲く頃は人の妻
手を振れば躑躅黄に燃ゆさようなら
八幡信子
満月や鈴ふる様に虫が鳴く
夕涼み隣の人も遊びに来
日野春峰
うつむいて向日葵地を見ているごと
つばくろやシンガポールは遠いのね
松本節子
露草は露をしづかにたもちいる
池端の冬を耐へ来し杜若
◎むささび(昭和二十九年九月・第三号)
西岡昭子
思はさる人に思はれて夕涼み
七夕やふと母在りし頃の事
中谷 修
寝ても尚地底の虫の声のこる
いなづまに天涯裂けて光となる
高岡幽砕
麦焼けば暮色退く身のほとり
掌にはずみ光無数の蜘蛛の卵
菅要四郎
石鎚の高嶺にたかし峰の雲
ささめごと月も聞かずや雲に入る
◎おもご俳壇(昭和三十三年~同三十五年・面河村広報)
松岡功子
バラ真紅一途に生きること希う
小野与二郎
別れてもすぐ肌恋し遠稲妻
峯 女
ゆかた着て廻覧板を急ぐ道
竹田吉恵
長男のシャボン玉を追って消えた
中川忠幸
みんな見て落葉美悪にからみ落つ
高田好子
雨が降る恋のシグナル下通る
「毎日俳壇」に度々入選し、松山の柳原極堂・酒井黙弾らに師事し、極堂より紅渓の俳号を受けし中川清愛は、彼独特の農村生活・その環境を淡々と表現し、まさに消え去らんとする面河俳壇の孤燈を守り続けている。
面河ダム伊予へ土佐へと秋の水
娘のくれし浴衣少し妻に派手
母達や運動会に踊の輪
このあたりの春山一つ越せば土佐
海抜は五百村の朝寒し
伊予の川紅葉浮べて土佐に入る
村の祖は落武者とかや盆まつり
春耕や牛のさきとぶ青蛙
仁淀川三十六里春の水
面河村広報(昭和五十年七月号)投句
面河診療所医師伊藤蔦子
千両に万両活けて年迎う
静もれる診察室やお正月
看護婦の明るい笑顔医務始