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面河村誌

二 鼓の音

   祇園精舎の鐘の声
   諸行無常の響あり
 寿永の昔(一一八二)、源氏・平家の合戦で、屋島(讃岐国)の海戦に敗れた平家の武将は、さらに西方壇ノ浦(長門国)へ、そしてまた、讃岐・伊予路へ逃れ散った。
 追われる者は、人里遠き山奥へ、周桑・中山川の上流鞍瀬川をさかのぼり、相名峠を越えて、妙集落近辺に、ひっそりと住みついた、平家残党の墓所・物語などが、伝えられている。
 妙谷川の支流、妙集落の「裏の谷」といわれる上流に、「鼓ヶ滝」がある。滝より落ちる水の音が、ポン、ポンと鼓を打つような音がするという。
 この滝の近くの洞窟に、平家の落武者が住んでいたと伝えられている。彼らの打つ鼓の音が、滝の水音にまぎれたのかも知れない。なお、この谷筋に、「平家岩屋(こびき岩屋)」「無野川の滝」「谷源の淵」などがある。いずれにしても、この奥まった一帯は、平家落人の、しのびの場所としては、絶好の場所であったのではあるまいか。
 妙の部落は、何か物語を秘めた土地である。かつては寺院であったと伝えられる屋敷跡、ここでは、安徳天皇はじめ、平家一門の供養をし、京の空、栄華の都大路をしのんだことであろう。
 「実盛さん」「若宮さん」、今も祠まで建って祭られている「つるえさん」、五輪さんと呼ばれている小さい石の五輪塚、名もない奇妙な自然石の塚、石垣の残る古き屋敷跡、その史実はともかくとして、平家の落人にまつわるいろいろの事柄が今に至るまで残されている。
 明治時代以前と思わる墓地のぼろぼろの石碑、昔を思いめぐらせば、悲喜こもごもの物語を秘めている妙集落である。
 天正十年(一五八二)、土佐の長曾我部元親の軍勢は、四国平定を目指して久万山へ、そして、笠方一帯も、その余波を受け、戦場となったようである。梅ヶ市は、その戦における戦死者を埋葬した埋替地、つまり最初ここに埋葬したものをさらに、他へ埋め替えし地、その地名を不吉であるとして、後年梅ヶ市と改めたとか。
 妙に石田三成(豊臣秀吉の重臣、関ヶ原の戦(一六〇〇)で敗れ斬首)の石碑あり(場所不詳)と伝えられている。石田三成の末臣が、関ヶ原の戦に敗れ、この地に逃れて死んだものではあるまいか。大味川六人衆の一人、加藤長助が、この合戦に出陣しているので、あるいは豊臣方の残党が逃げて来たとも推測できる。
 今日も妙谷川は、昔の姿で流れている。岸辺のすすきが風になびき、秋もようやく深くなろとしている。