データベース『えひめの記憶』
面河村誌
二 仕事の唄
1 田植え唄
定規を用いる以前の田植方法は、歩き田などといわれる乱雑植えであった。つまり手加減・目分量で植えるので「横なみ」は、ほぼ一定の間隔となるが、「縦なみ」のチグハグは当然のことで、値え方よりも、何人かの植え手の、手や足の動きが一致することが、能率を上げるうえにたいせつな要件であった。ここに、田植唄のリズムが生まれた。定規を用いる植え方では、リズムの一致は難しいので、だんだんと田植唄は聞くことができなくなり、ましてや最近の機械植えに至っては、田植唄に全く用はない。労働の情緒がなくなった。
そろたそろたよ 植手がそろたよ
苗もほどよく伸びて
ホヲ 今日こそ 田植どき
わたしゃ 山の柴栗
はや「かね」つけて にこにこと
春咲くは うつげ 卯の花
五月に咲くは 紅の花
住みたいは 久主と 休場よ
まだ おりたいは 柳井川
日は暮れる いぬにゃいなれず
だんなの お暇の でるまでは
2 田の草取り唄
はえた はえたぞ この田の草は
芹に いも草 はりめ草
かわい 殿御と 田の草とれば
水のにごりで 手をにぎる
ややができます 三月でござる
梅が たべたや すゆすゆと
こんど来る時ゃ 持て来ておくれ
裏の 小藪の 青梅を
3 臼ひき唄
うすよ まえまえ やり木をつれて
二十日と五日にゃ 暇やるぞ
とろり とろりと 廻るは 淀の川瀬の水車
かけた 襷の切れるまで
こちと あんたは うすひきじょうず
入れて まわして 粉(子)をおとす
とろり とろりと ねむたいおりは
かわいい とのごも くりゃよかろ
4 籾すり唄
大正時代の初期のころまでは、やり木を使って籾をすっていた。一時間に五、六俵(四斗俵)ぐらい。それが今では機械化し一時間に二、三十俵もする。作業内容も変わったので、籾すり唄も忘れられてしまった。
臼ひき唄も同じである。唐黍・ハッタイ粉・蕎麦粉など、すべて手回しの臼を用いた。生活様式の一変でこうした作業もなくなり唄も道具類もほとんど現存しない。
娘十八 嫁入り 盛り
持たせてやりたい この八木を
どんど どんどこ どんすりあげて
あすは 道後の湯に ゆこや
こいと云われて あの行く夜は
足のかるさよ うれしさよ
桜三里を夜越すときは
一人 淋しや 妻恋し
5 茶摘み唄
お茶摘みの盛んだったのは、明治時代から大正時代にかけてである。どこの畑でも茶の芽が萌え、集落には焙炉から手揉の新茶の香りがただよった。「松前のオタタ」のイカナゴ売り・タカ菜の漬物、そして焼酒・お茶摘み娘・若い男子があふれる茶時、女子・子供は板飴、小学校も茶休み(農繁休業)、何か、農村らしき活気がただよっていた。
昭和二十年太平洋戦争終了後、生葉は、製茶の機械化の進んだ高知県へ移出、やがて、「ヤブキタ」(茶の木の改良種)の導入、高度経済成長期に入って、農村人口の流出、自然茶畑は植林化され、現在「ヤブキタ」の茶園は、多くは鋏摘み、製茶も農業協同組合の製茶工場で機械化され、往年の農村茶時風景は全く見られない。
お茶をとるなら こまかに おとり
ここの新茶は おいしいよ
ここは 茶どころ 茶は えんどころ
娘やりたや むこほしや
向うに 見えるは 茶摘みじゃないか
白い 菅笠 ちらちらと
お茶がすんだら 摘み娘は 帰る
あとに残るは籠ばかり
6 馬子唄
土佐街道(県道)は、松山札ノ辻を起点として、明治二十五年八月、伊予・土佐を結ぶ重要交通路として開通した。
それまで、久万町方面から 松山への荷物の輸送は、駄馬で旧三坂街道の上り下り、直瀬方面からは井内越、当地からは、割石・黒森峠を越えて、物資を運んだ。
馬の首に鈴(これは自動車のクラクションに相当する)を付け、山坂を越え黙々と歩む馬の歩調に合わせて歌う馬子唄が谷あいにこだまする。哀調とも、優雅とも聞き取れる。
馬よ歩けよ 靴買うてはかそ
二足五文の安靴を
三坂越すりゃ 雪降りかかる
もどりゃ 妻子が泣きかかる
むごいもんぞや 明神馬子は
三坂夜出て 夜もどる
遠い山道 鈴の音するが
あれは荏原の兼さんか
これは三坂馬子唄として今もなお愛唱されている。
7 木挽唄
明治時代から大正時代にかけて、建築材料の柱・板などすべて木挽の手になったのである。杉・樅・栂の四分板、檜の寸桟・松の五分板などが主たるものである。ほとんど山小屋に寝泊りして、自炊生活、ただ黙々と鋸を挽く、仙人の生活であった。
大工さんより 木挽が憎い
仲の良い木を引きわける
何の因果で 木挽を習うた
花の盛りを 山小屋で
木挽さんたちゃ 一升飯食ろうて
鋸の柄のやうな くそたれる
木挽女房になるなよ妹
妹だまして 姉がなる