データベース『えひめの記憶』
面河村誌
四 水没者のその後(「石鎚の水ここに展く」)より
水没者の代表は笠方ダム水没地区対策委員長
日野団平氏
〝石鎚の水ここに展く〟によれば水没者の立のき交渉にあたって、一部の人には問題はないとはいえないけれども全般的に地区民は好意的で誠意と理解があり、交渉にあたった担当者の評判はよかったということである。交渉が始まってから一年で妥結したのもその故であろうし、面河方式として以後の補償交渉の手本となったということである。
水没対象者は八四世帯で三八〇名、大部分が松山市・拓南・素鵞地区・中村・枝松・久米地区などに移転、一部中山町や砥部町・重信町・川内町などで、一世帯六名が尼ヶ崎に行ったほかは全部県内であった。移転者の八〇%が農業をしているか兼業がほとんどである。
補償金をもとに事業をして失敗したり、騰貴性のものや、ギャンブルで身をつぶした気の毒な人も一部にはいることも忘れてはならない。