データベース『えひめの記憶』
面河村誌
五 電報・電話業務
昭和三年(一九二八)十二月、面河村長菅広綱は、「電信及び電話通話事務開始に関する寄附申込の件」として、渋草郵便局がその業務開始の場合、創設費八〇五八円の七割、五六七〇円を寄付するものとする議案を杣川村会に提出、承認を得ている。
村当局としても、村民の要望により、通信事務近代化へ、積極的に取り組んでいたことをうかがうことができる。
ちなみに、上浮穴郡久万郵便局は大正九年七月、電話業務を開始している。面河郵便局での電話の通話は、それから一三年後、昭和八年(一九三三)三月六日である。
当初の加入者は次の二台であった。
面河村役場 一番
面河郵便局 番外
それから約九年後、昭和十七年から昭和二十七年に至る間、次のとおり増設されている。
二 番 農業会(面河村)
三 番 営林署杣野担当区官舎
四 番 パルプ工場(中川ハツ)
五 番 森林組合(面河村)
六 番 福見屋(中川行次)
七 番 森尾猪十郎
八 番 大野善太郎
九 番 大西旅館
一〇番 上浮穴郡食糧事務所面河支所
つまり、面河村に電話開通以来一九年間にして、電話加入台数一〇台、まさしくスローテンポである。
しかしながら、その後電話加入者の増加につれ、昭和十七年交換台一台であったのを、昭和四十二年三月には、交換台二台が面河郵便局に置かれた。
やがて、電話業務の合理化の完全実施とともに、昭和四十八年(一九七三)十月、村内の電話全部が、自動化になり、トレラー式自動電話機が土泥古宮跡に設置され、現在に至っている。
なお、面河村内の電話台数の推移は、次のようである。
昭和 八年(一九三三)………………一台(番外一台)
昭和二十七年…………………………一〇台
昭和三十六年…………………………八一台
昭和四十八年………………………五一〇台
昭和五十二年………………………五八三台
昭和四十年の一〇一台が、昭和四十八年には、その五倍余の五一〇台、まさに驚異的な延びである。
ちなみに現在の電話台数を、他と比較対象すれば次のようである。
上浮穴郡…………………六、九九二台………三・四人に一台
愛媛県………………四〇〇、三八一台………二・七人に一台
全 国………三、〇一三、一二四万台………三・五人に一台
○救急電話一一九番は、昭和四十八年(一九七三)十一月、面河村役場に設置された。
○現在の単位通話料は一〇円である。
昭和二十七年(一九五二)八月一日、日本電信電話会社(いわゆる電々公社)が発足、電気通信の業務が、郵政省から切り離されたが、特定郵便局では、従来と同様に、昭和四十八年十月、完全自動化まで、その委託業務を行った。
電信(電報)業務の取扱いは、電話通話後昭和十年(一九三五)からである。
昭和八年八月、面河村長重見丈太郎は、次のような電信(電報)業務の促進の意見書を、逓信大臣南弘に提出している。
「愛媛県渋草局へ、昭和廿年度ニ於テ電信業務開始内定ノ処、一時中止ノ旨連絡アリ遺憾デアリ、本村ヨリノ電報打電ハ、弘形局又ハ久万局カラデアリ不便一方ナラズ、面河山国有林ノ伐採、面河渓探勝者ノ為、経費差係リ上早急開始サレ度」 (原文のまま)
そうして、現在は、電話の増設により、しだいに電報は利用されなくなり、慶弔電報以外、余り利用されていないのが実状である。
なお、電報料金は、次のとおりである。
普通電報(二五字) 三〇〇円
慶弔電報 四五〇円
(昭和五十一年十一月より)