データベース『えひめの記憶』
面河村誌
一 明治新政と地方自治
明治新政は、いうまでもなく、我が国、歴史上の未曽有の大変革であった。
明治四年(一八七一)藩を廃して県を置き(廃藩置県)全国を三府七二県とし、府に知事、県に権令を任命した。
伊予国では、八藩を八県とし、後に西条・小松・今治・松山の四県を松山県、新谷・大州・吉田・宇和島の四県を宇和島県とした。明治五年二月、松山県を石鉄県、同年六月、宇和島県を神山県と改称した。
明治五年六月、これまでの町村を行政区画とすることをやめて、新たに大・小区別を定めた。石鉄県下を、八大区、二一七小区に分けている。
浮穴郡久万山分二四か村、三八六七戸を次のとおり定めている。
第十七大区(久万山分)
第 一小区 北番村直瀬 二二八戸
第 二小区 〃 仙野 二五六戸
第 三小区 〃 大味川 二二二戸
第 四小区 東川村・七鳥村・仕出村 三七一戸
第 五小区 久主村・黒藤川村 二七二戸
第 六小区 西谷村 二六八戸
第 七小区 柳井川村 二二七戸
第 八小区 日野浦村・沢渡村 二四七戸
第 九小区 大川村・有枝村・黒岩村 三二三戸
第一〇小区 畑野川村 二二二戸
第一一小区 菅生村・野尻村・久万町村 四二二戸
第一二小区 入野村・西明神村・東明神村 三六四戸
第一三小区 窪野村・久谷村 三三五戸
浮穴郡(久万山分)のうち、神山県(旧大州藩)に属していた父野川村・露峰村・下野尻村・二名村は、第十大区第五小区(臼杵村・多居谷村・猿谷村を含む)となり、戸数は七五六戸であった。
当時の松山県は、一二郡、五六一か村である。
宇摩郡・新居郡・越智郡(六か村)
周布郡(二四か村)
温泉郡・久米郡・和気郡・野間郡・桑村郡のうち一七か村
風早郡のうち七八か村
浮穴郡のうち四三か村
伊予郡のうち一九か村
明治六年(一七八三)一月、石鉄県の県庁を一時今治に移し、同年二月二十日、石鉄・神山の二県を合併して愛媛県とし、その県庁を温泉郡松山に置いた。現在の愛媛県の誕生である。
明治七年五月二十日、新しい大、小区制が愛媛県から布達された。
大区名 小区数 管轄区域
一 一七 宇摩郡の全部
二 二五 新居郡の全部
三 二三 周布郡桑村郡の全部
四 二四 越智郡の全部
五 一九 野間郡の全部・風早郡の一部
六 七一 和気郡・温泉郡、久米郡の全部
風早郡・伊予郡、浮穴郡の一部
七 八 浮穴郡の内久万山
八 二四 浮穴郡・喜多郡・伊予郡の一部
九 二八 浮穴郡・喜多郡・伊予郡の一部
一〇 一八 宇和郡の一部
一一 一一 宇和郡・喜多郡の一部
一二 九 宇和郡・喜多郡・浮穴郡の一部
一三 二九 宇和郡の一部
一四 五 宇和郡の一部
これにより県内は一四六区、三一一小区に改められ、神山県に属していた、父野川村、二名村、露峰村、下野尻村は、第七大区に編入せられ、窪野村、久谷村は、三坂峠を境に、久方山分から分離して、第六大区に含められた。
第七大区(久万山分)の小区は次のごとくである。
第一小区 東明神村・西明神村・入野村・久万町村・菅生村・野尻村
第二小区 畑野川村・北番村直瀬
第三小区 北番村杣野・大味川
第四小区 東川村・七鳥村・仕出村
第五小区 沢渡村・黒藤川村・久主村
第六小区 西谷村・柳井川村
第七小区 日野浦村・黒岩村・有枝村・大川村
第八小区 父野川村・露峰村・二名村・臼杵村
明治二十一年十二月、香川県が愛媛県から分離独立したので、大小区の名称替えが行われ、これまで第七大区であった浮穴郡久万山分は、第十四大区と番号が変わったが、小区の変更はなかった。つまり、新しい区は、大区一四、小区三一一となった。これらの区は、将来において、国政事務を分担する、新たな地方行政単位を指向したのである。
既に明治五年四月、庄屋・名主・年寄が廃止され、戸長に事務いっさいを引き渡し、これを待遇するに准官吏とした。
明治四年(一八七一)戸籍法を定め、同五年二月一日から実施した。(壬申戸籍)明治維新より、激しく変動した戸口の実態調査をするため、行政区画としての区は、その役割を果たした。
明治五年三月、太政官は「村役場心得」を公布、末端における地方行政担当者の職責を明らかにした。
区長可心得条々(抜粋)
一 区長ノ儀ハ区内諸村戸長共へ伝達ノ件始メ平生諸世話諸駈引等共役務ナリ僅而御仁政ノ御趣旨ヲ準シ可遂精励事戸長可心得条々(抜粋)
一 村内ノ者離散セサル様相心得貧窮ノ者アラハ難渋イマタ行詰サタ内扶助ノ手立ヲナスヘシ自然下ニオイテ不任程ノコトハ速ニ可申出常ニ花美ノ奢ヲ戒メ無益ノ費ヲ省キ農事ヲ勧メ諸人成立ノ心遣可為肝要事
明治九年、香川・愛媛二県を合併して愛媛県となり、県庁を松山に置いた。明治二十二年十二月、香川県が愛媛県より分離独立して、全国は三府四三県となる。
明治十一年(一八七八)十二月、愛媛県は初めて、郡役所を設置した。
松山(和気、温泉、久米)・北条(野間、風早)・森松(浮穴)・今治(越智)・新屋敷(周布、桑村)・川之江(宇摩)・大州(喜多)・八幡浜(西宇和)・卯之町(東宇和)・宇和(北宇和)・城辺(南宇和)である。
明治十一年(一八七八)七月、我が国地方自治制度の礎石として画期的な意味をもつ「郡区町村編成法」が公布され大小区制を廃止し、従来の町村が行政区画として復活した。この結果、浮穴郡は明治十一年十二月、上浮穴郡四四か村、下浮穴郡六〇か村に二分せられ、愛媛県は一八郡、一〇八〇町村となり、一四郡役所、五八〇の戸長役場が置かれた。初代の上浮穴郡長には秋山 静、下浮穴郡長には桧垣 伸が任命せられ、上浮穴郡役所は久万町村、下浮穴郡役所を森松に置いた。
明治十年、西南戦争(西郷隆盛を中心として鹿児島県に起こった士族の反乱)の最中に、愛媛県権令(知事)岩村高俊は、特設県会の開設を県内(愛媛、香川)に布達した。
議員発数七〇名、当時の久万山は第十四区、久万町村の鶴原太郎次(平民、戸長)が当選している。特定県会の仮規則前文は次のごとくである。
凡ソ県内大小ノ事衆庶公議ニ出サレバ平等中正ノ議ヲ尽スヲ得ス然レトモ管下人民壱百三十余万(愛媛・香川)人毎ニ諮り戸毎ニ詢スタ日モ亦足ラントス此故ニ自今公選ノ方ヲ以テ人民ノ代議人ト定メ本県県会ヲ開設セシメ永ク公明ノ利益二係ラシメントス
此段布達候事
議事ノ要領トスル条款左ノ如シ
一 小区費ノ事
二 民積ノ事
三 取締安寧及風致ノ事
四 学校及ヒ病院貧院等ノ事
五 物産ヲ興シ及ヒ荒無地ヲ開墾スタ等ノ事
六 水陸運輸ノ便ヲ起ス事
七 道路堤防橋梁用水ノ事(抜粋)
上浮穴郡選出県会議員
鶴 原 太郎治 久万町村
梅 木 源 平 西明神村
二 宮 益 雄 小田町村
佐 伯 義一郎 久万町村
加 藤 彰
二 宮 篤三郎 石山村
久 松 定 夫 田渡村
山 内 門十郎 弘形村
船 田 武 平 久万町
大 西 平三郎 久万町
高 橋 積一郎 久万町
正 岡 慶 三 明神村
都 築 九 平 小田町村
大 野 助 直 田渡村
新 谷 善三郎 仕七川村
菅 広 綱 面河村
井 部 栄 治 久万町
八 木 菊次郎 久万町
田 中 執 明神村
吉 岡 好 吉 仕七川村(旧姓 青木 面河村生水)
中 田 千 鶴 父二峰村
大 野 貴 義 川瀬村
大 田 国 康 小田町
歴代の上浮穴郡長は次のとおりである。
秋 山 静 明治一三年~
桧 垣 伸 明治二三年~二七年
加 藤 純次郎 明治二七年~三三年
篠 原 邦 貫 明治三二年~三四年
三 浦 一 志 明治三四年~三九年
筬 島 桂太郎 明治三九年~四〇年
松 田 虎次郎 明治四〇年~四五年
荒 田 読之助 明治四五年~大正六年
山 下 雅 大正六年~八年
足 達 儀 国 大正八年~八年
古 川 栄 一 大正八年~一一年
国 西 藤三郎 大正一一年~一二年
武 知 忠 幸 大正一二年~一三年
武 田 嘉四郎 大正一三年~一五年
上浮穴郡会議員は、明治二十三年から設置されたのか、またその構成員数も不明であるが、杣川村から、郡会議員選出の記録が残っているので、その最も古いと思われるものを記載しておく。
議 事 録
杣川村会ハ上浮穴郡第五号告示ニヨリ上浮穴郡会議員壱名ヲ選挙スタ為メ明治三十年五月一日午後二時開会ス抽籤ヲ以テ議員ノ着席順序ヲ定ムル左ノ如シ
壱 番 遠 藤 又 七
弐 番 欠
参 番 菅 武 作
四 番 高 岡 勝 次
五 番 菅 福 次
六 番 宇 野 銀九郎
七 番 小 椋 勇 蔵
八 番 菅 福太郎
九 番 高 岡 源 次
拾 番
拾壱番
拾弐番
本日出席者八名弐番不在ニ付欠席拾番拾壱番拾弐番ハ欠員
本日ハ村長事故欠席ニ付助役ヲ以テ議長トス
午後二時議長ハ投票ヲ始ル為議員ノ面前ニ於テ投票函ヲ開キ其空虚ナルヲ示シタル後之ヲ卓上ニ置キタリ議長ハ投票ヲ受ケ封緘ノ儘函ニ投入シ然ル後之ヲ開キ投票ノ数ト投票人ノ総数トヲ計算シタルニ
投票総数 八票
投票人 八人
投票ノ総数ト投票人ノ総数ト符合セリ
右揮テ有効投票ニシテ被選人投票点数ハ左ノ如シ
五 点 菅 福 次
弐 点 八 木 胤 愛
壱 点 松 本 市 蔵
故ニ菅福次有効投票ノ過半数ヲ得夕ルヲ以テ当撰人トス
右撰挙ノ顛末ヲ記録シ議長之レヲ朗読シ其正当ナルヲ証スタ為メ茲ニ署名捺印ス
明治三十年五月一日
杣川村議長 菅 福 次
明治二十三年七月一日、第一回衆議院議員の総選挙が実施された。もちろん当時は制限選挙で選挙権者は、年齢二十五歳以上の男子で、しかも直接国税一五円以上納めている者に限られた。米一升六銭、一五円の国税を納める者は、よほどの資産家である。
明治二十三年、全国人口約三九〇〇万人、一・一三%強の有権者数である。
明治三十五年(第七回)総選挙から、選挙法が改正され、直接国税一五円から、一〇円となった。それでも全人口に対して二・一八%、しかも婦人は、政党に加入することも、選挙演説を聴く自由さえ禁止されていた。
大正八年(一九一九)第十四回総選挙から、直接一〇円が三円に切り下げられ、大正十四年(一九二五)、多年の念願であった普通選挙法が公布され(内閣総理大臣加藤高明)、納税資格による制限は、撤廃された。
しかしながら残念なのは、時の政府の選挙干渉である。警察官・行政官吏・市町村の吏員までも政府に迎合して奔走し、官憲の権力を悪用し、圧迫が加えられ、政府与党に対しては寛大、野党に対しては、言論や文章に至るまで、厳重かつ極端に抑圧した。
昭和二十一年(一九四六)四月、第二十二回総選挙から婦人にも参政権が与えられ、現在に至っている。約六〇年になんなんとする永い歳月である。
第一回貴族院議員の選挙は、明治二十三年六月実施された。貴族院の構成は、皇族、華族、勅選、多額納税者によってなされている。合計三七六名、当時愛媛県の多額納税者一五名、一名の貴族院議員を選出している。
○華 族ー版籍奉還の際、従来の公卿、諸侯の制を廃して華族と称した。公・侯・伯・子・男爵
○勅選議員ー明治憲法下で、国家に勲功あり、又は学識ある男子から、勅選された。任期は終身
明治十八年(一九八五)十二月、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任した。維新以来の太政官制度に代わる、内閣制度の発足である。内閣各省は、外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の九省、各省の長に大臣を置いた。
明治十七年、区、町村会法が改正され、従来の大区、小区を廃して、府県の下に郡、町村を復活した。
明治二十二年(一八八九)二月、大日本帝国憲法公布、同年四月、市制及び町村制が実施され、同二十三年、府県制、郡制が定められた。
ちなみに、愛媛県知事白根専一、上浮穴郡長は檜垣伸である。
郡においても名称、区域とも旧に復し、郡長は「町村戸長ヲ監督ス」と、明確に規定された。
府知事・県知事についても、これを内務大臣の統制、監督の下に管治された。
こうして、政府ー府県ー郡の整然とした官治的地方支配体制ができ上がったのである。
上浮穴郡役所は、明治三十四年久万町住安町に新築された。木造二階建て同一階建ての二棟、堂々たるもので、上浮穴凶荒予備組合が、新築貸与したのである。大正十五年(一九二六)自治体としての郡役所が廃止になるまで、四八年間、一三代の郡長が郡政を担当したのである。
明治二十二年四月一日愛媛県内の町村を合併して、新町村をつくり、県内を一市一八郡とした。明治二十九年、更に町村を分合して、一市(松山)一二郡となる。
上浮穴郡は、旧村四四か村であったが、町村制実施とともに、新村一五か村となった。
明治維新は、政治上の大変革をもたらし、江戸幕府以来の鎖国政策を解き、諸外国との交際を始めたので、外国の風習も、次々と入ってきた。一般国民に第一に許されたのが、住居の自由、耕作の自由、土地売買の自由であった。
明治二年、全国の関所を廃して、転居や旅行も自由にできることとなった。それまでは縁組などで、他村に嫁入する場合でも、寺の住職の添書を必要としたし、伊勢神宮参拝(お伊勢参り)なども、庄屋の認書(往来手形)を持って行かねばならなかった。
明治四年、それまで、田には稲、畑には雑穀を作らねばならなかったのが「田畑勝手作り」の布告で、田畑を宅地に変更することもでき、また、換金作物として畑に桑や茶を植えることも自由になった。
寛永二十年(一六四三)以来、禁止されていた土地売買も許されたので、農民も土地を売って、他の職業に就くことも可能になった。
明治二年八月、職業の自由も許されたので、農民も商人になり、志を立てて松山方面へ出て行った例もある。
地租の改正は、村にとっては大変革であった。現物で納めていた地租を、貨幣によって徴集されることになった。当時は税金も高く、その上、農作物を商人に安く買いたたかれ、あるいは売れなくなって、税金を納めるのに苦労したので、土地を安く売ったり、はなはだしいのは酒を持参して、土地を「無償」で渡したりなどした例さえあるという。
明治五年(一八七一)戸籍法(壬申戸籍)が実施された。華族・士族・平民の名称が、それぞれつけられた。そして、武士と庄屋のみに許されていた「姓」(苗字)を、全住民がつけることとなった。
杣川村(面河村)の例をとると、「高岡」「菅」「中川」は、大味川六人衆又はその関係する子孫にあやかったとも思われるし、「松岡」は摂州高槻から移り住んだ松岡市兵衛に、「小椋」姓は、木地師の総本山の江州小椋郷に由来すると思われる。
明治四年武士の「切捨て御免」の風習も禁止され、明治九年、帯刀も禁ぜられ、農民も平等の地位になった。
明治二十一年四月の、市制及び町村制の実施で、日本の地方自治の単位と構造が決定した。これらの制度は、歴史的変遷に応じて、幾多の修正を受け、大正時代に自治権の若干の拡大、納税条件を緩めて、選挙権の範囲の拡大などがあるが、だいたいにおいて、地方自治の大筋は、戦後の改革にまで及ぶわけである。
ここに、山県有朋(明治二十一年山県内閣の内務大臣兼任)の、一文を記したい。
国家ノ基礎ヲ鞏固ニセント欲セハ必先町村自治ノ組織ヲ立テサルヲ得ス之ヲ喩ヘハ町村ハ基礎ニシテ国家ハ猶家屋ノ如シ
つまり、「地方自治の上に、国家の基盤が立つ」という近代的な自治権思想と一脈相通ずる自治観であると考えられる。