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久万町誌

六 井部 栄範

 秋山好古大将は井部栄範の事業を見て、その肖像に「至誠動天」と揮毫した。また船田如風は「森林の権化、久万郷の造林王」と評したという。およそ栄範の人となりを想像することができよう。
 栄範の父は江川治兵衛、母は宮本家より嫁いで名を「せい」と称した。その第六子である。天保一三年正月二五日、紀伊国和歌山市細工町に呱々の声をあげた。嘉永五年、一一歳で仏門に帰し、淡路の金屋村観音寺にはいった。その後明治二年、二八歳の時井部姓を継ぐことになった。
 明治五年、三〇歳の時木島堅州僧正の門弟として、師とともに菅生山大宝寺に来た。そのころは王政復古の思潮が台頭しており、諸制度の改廃、世相の激変、民心の動揺など、まさに、「城閣変じて桑園となり、士族の邸宅も柑橘園に変わる」の時であった。神社仏閣の維持にはことのほか困難をきわめていた。大宝寺もその例に漏れず危機に面していた。来住の師弟は前後策に頭を悩ました末、寺領杉を利用した。これは先々代の鑁州和尚が生前に植林したものであり、この杉数千本の伐採によってこの寺の危機をすくったのである。
 郷里和歌山市に生まれた栄範は、近くの大和、吉野の美林を見、利潤の多いことを知っていた。いままた、先々代の植林のありがたさをまのあたりにみて栄範は思った。「寺の百年の計は植林にしかず」と。師と計り明治六年三月、大宝寺と自分の所有地(字中通山反別五町歩、字中組山反別一〇町歩)に杉三〇〇〇本を植えた。これからは年次計画にしたがって明治一四年までに一六万三〇〇〇本を植え込んだ。現在は、約一一万八〇〇〇本になっている。栄範が三二歳の時である。これが今の久万林業の初めである。ところが明治七年、大宝寺に火災があり、一瞬にして全寺烏有に帰した。「百年の計」をと努力していた最中のできごとである。栄範は老師とともになげきつつ、その反面で大いに奮起した。
 「大宝寺再興のため、地方の産業文化開発のため、その基をなすものは山を生かすにあり。これは僧侶の片手間ではなすべくもない。」と、意を決し還俗した。それが明治七年のことである。その後植林に専念していたが、明治一一年、郡区町村編成法の発令に際し組頭に推され、翌一二年戸長になった。また、この年「久万山民積取扱」に当選した。願いによりこの年戸長を免ぜられ、各郡連合会議員に挙げられた。明治一五年、四一歳の時、山林共進会において時の農商務卿より木杯を授与された。同年、更に民積監督人となった。明治一七年四三歳で学務委員を兼ねた。
 この年、以前に巡査教習所費として寄付したことにより木杯を受領した。また、同年、県より新道開削事業相談役の嘱託をうけ、村の勧業委員を命ぜられた。この年、菅生小学校建築のため、敷地一反三畝(一三㌃)・校舎一棟を寄付したために木杯一組を賞与せられた。同年、県会議員に推され県政に尽くした。同年、久万町村ほか三か村の勧業委員を命ぜられた。
 その他、暴風罹災民救助土木事業費(県土木事業)寄付等に対しても、それぞれ恩賞にあずかった。
 また、二一年、小学校教科図書選定委員にあげられ、翌二四年、七鳥小学校舎へ家屋、敷地等を寄付した。このように。多年公共事業に貢献したことがついに天聴に達し、二六年五二歳の時、藍綬褒章を賜わった。この年、久万山融通株式会社を創立し、社長となった。同二七年には菅生村へ工事費を寄付したので木杯を受領した。明治三一年、愛媛県地方山林会議員となり、明治三三年、融通会社を改めて久万銀行とし、頭取に就任した。が、その後は行運振わず、三六年には解散のやむなきにいたった。その時、栄範は、地方産業界におよぼす影響の大なるを憂い、その復興に努力した。そのかいあって経営も大いにふるい、久万銀行の基礎を固め地方金融界の重鎮となったのである。
 晩年はひとり植林につとめ、また信仰の道に精進したのであったが、七三歳を一期として大正三年二月二二日この地に永眠したのである。
 以上は大体の栄範の経歴をたどったのであるが、特に栄範の面目躍如たる面をひろいあげておこう。
 久万山は、宝永、享保のころ既に人口二万人を超えていたが、享保一七年(一七三二)の飢饉以来一万七〇〇〇人になった。そこで、安永四年(一七七五)、藩公の仁慈により非常に備えて籾米をたくわえることにした。(凶荒予備組合の始まりである)ところが、明治四年の改革により、廃藩と同時にこの制度のことごとくは区長に引き継がれた。明治八年、名も「民積」と改め取扱人を定め管理することになった。栄範は、前経歴に記した通り初め取扱人又は監督人として、山内賤雄、山之内誠一郎、山内門十郎等当時の郡首脳部の人々と交替で経営に当たり苦心している。任期満了後も引き続き任に当たった。後任の催促などの文書も残っている。現在上浮穴凶荒予備組合が郡民におよぼす偉大なる恩典の陰に、栄範らの涙ぐましい努力があったことを忘れてはならない。
 久万林業の発端は既に述べたように栄範に起因する。その動機も記したが、旧藩時代久万山が藩の宝庫と言われたのは、山林資源があったからである。千古の美林がうっそうとして昼なお暗く茂っていたが、維新後の乱伐につぐ乱伐で四辺の山々はぼうぼうとした草山と化した。その上、稲作の緑肥採集のためと、伐替畑の習慣のため春ともなると山焼きを行うので、その失火延焼はあとをたたず、日増しに荒廃していった。木材の生産が生業であった郡民は、しだいに生業を失い、住民は日増しに窮乏していった。栄範は、菅生山に来た当時、この有様をまのあたりにみたのである。一つは寺の維持に資するため、一つは地方文化開発のため、この有様を座視するに忍びなかった。老師と相談して、暇あるごとに地理、風俗、人情を調べ、日夜考究し苦慮した末、久万郷村百年の計を立てようと、この広漠とした荒れ山に植林を思いたった。明治六年のことである。寺領と自分の所有地字中通山五町歩、字中組山一〇町歩に六年杉苗三〇〇〇本を航林した。以後、年次計画にもとづいて年々整地しては植え込み、明治一四年の九年間に杉一六万本を植え込んだ。その後しだいに林地を拡大し、久万造林会社所有五〇〇町歩に達する一大林地を造成した。栄範は苗木を、初め広島、古野に求めていたが、不便の地であり、海山の難路があることなどから成績がよくなかった。そこで自家育苗の研究にとりかかり、ついに成功した。研究見学の徒には研究の結果を詳細に説明し、帰るときは記念の苗木を贈って奨励している。菅生村内一五○戸の人々に、毎年一○○本ずつ無償で贈与している。村長となっては議会で決議し、年に各戸二〇〇本以上植え込むことを奨励し、林地の世話や共有地の共同植樹に明け暮れ、栄範の頭は植林から離れなかった。
 土佐街道開削のことは、栄範が菅生山にはいった時から着眼していたことの一つである。そのためにも林業に力を入れたのである。明治一八年、県道(松山ー高知間)の開削に当たって抜擢され、相談役となった。同線には三坂の峻坂、大川嶺のような絶壁峡谷があり、延長一六里の工事は至難でしばしば難航したが、その間、常に中心になって東奔西走し、寝食を忘れて事業の完成に専念した。自ら進んで難工事をうけ、資産の大半を投じてがんばり、ついに完成させた。
 栄範は、地方産業の発展消長は、金融機関によることに着眼し、明治二六年、百方の有志を説き、久万融通会社の創立を企画しついに設立した。そのため、製紙、製茶、製糸、その他の産業の進展が著しかった。明治三三年、融通会社を改めて久万銀行としたが、行運は振わず、三六年、解散のやむなきに至った。栄範は奮然として立ち上がり、復興に努めてその経営を固くし久万銀行の基を造った。
 寺運が振わない上に、つづいて火災に会い、困窮のどん底に陥っていた時、栄範は還俗して師を助け、財政を整理し、再建の資金を蓄積した。大正一五年に至って、今村完道住職の時、同寺本堂を再建した。その時の田畑の収入が米百余俵、資金数万円、欝蒼とした寺有林二五町歩(二五㌶)であった。
 村長として長年勤務し、積年の負債を償還した。更に巨額の財産、数一〇町歩の村有林を造った。自治、文化を振興させるなど、その事業・功績は郷村の範であった。
 宗教によって練られた信念は不断の努力を生み、不言実行の薫陶は久万山に平和の郷を造っていったのである。