データベース『えひめの記憶』
久万町誌
3 合併三〇年の歩み
戦後三〇年余を経た昭和五〇年代後半からの日本は、GNPが自由諸国でトップクラスとなり、経済大国の地位をゆるぎないものとし、国際的な役割も非常に大きいものとなっていく。
反面、貿易黒字とか強烈な経済競争が非難を浴び、国内的には、経済が高度成長から安定成長へと移行し、産業構造もその主体が重工業から電子産業など高度技術重視へと移っていく。
また、内政的な問題の一つとして国、地方を通じ財政債務が大きな課題ともなる。
久万町も町村合併から二〇年を過ぎ、三〇年代に入ると、既に企画され実践に移されていた中・長期の振興計画のうち、ほぼ完成する施策もあり、同時に新しい時代に即した諸施策も積極的に講じられていく。
昭和五〇年四月二九日には、町長に河野修(五代~現在)が就任し、前町長日野泰の施策を継承するとともに、対活と協調を基本姿勢として「潤いと活力のある町づくり」を目標に町政を進めていくこととなる。
久万町は元来、進取の気風に富んだ町村なのであろうか。
合併三〇年に至る久万町の行政の大きな特徴の一つは、国の施策の進展する方向、換言すれば、住民の進むべき道筋を先取りした形で進めていく「進取の気風」だといえよう。それらを国・県などの有形、無形の援助を得ながら、町、議会、関係団体、住民が一体となって実現してきたのである。
次にそれらの概要を述べてみたい。
① ほ場整備、夏秋野菜栽培に力点
久万町の基幹産業である農林業の振興は、合併前後を問わず一貫して力点を注いできた施策の一つである。
国は、昭和三六年に農業基本法、同三九年に林業基本法を制定して農工間の所得格差、つまり農林家の所得向上をねらいとして構造改善政策を打ち出し、そのプロジェクト事業を展開するが、久万町は農業構造改善事業、林業構造改善事業とも県下第一号の指定を受け、事業に着手することとなる。
水田ほ場整備は、昭和四一年度の東明神及び下畑野川ナベラ地区を皮切りに、昭和六三年度までの二三年間に三七四・一㌶を、また畑のほ場整備は四四㌶の整備を行ったが、水田については、整備可能地区のほとんどの整備を終え、西日本でトップの実績をおさめたのである。
他面、ほ場整備は、生産そのもののレベルアップはもちろんだが、農道、水路の完備によって農家周辺の生活環境は著しく改善されていく。昭和四五年から始まった米の生産調整が年を追ってきびしくなるにつれ、水田の土地利用が焦点となるが、昭和四八年から久万高原の冷涼性を活用したトマトなどの夏秋野菜を露地で試作的に栽培したのが動機となって、五一年にはハウス栽培へと移行し、その販売高は飛躍的に伸びるなど、ほ場整備の相乗効果は計りしれないほど高まったのである。
畑のほ場整備についても、観光りんご園、夏秋大根などの目的をもった経営農地として有効な活用が図られてきている。
また、稲作生産組合にみられるように、大型農機を設置し、共同耕作を行うなど農家の協業化が進んだことも波及効果の一つであろう。
② 久万林業主産地づくり
久万町の林業の本格的な主産地づくりへの着手は、昭和三六・三七年度に久万町が愛媛大学農学部に委託して行った林業構造改善総合調査を受けて始まったといえよう。もちろん、非常に優れた技術と情熱で、久万林業の創始者となられた篤林家の存在が基盤となって、以後の主産地づくりに大きく貢献してきていることは周知のことである。
調査は、林業政策、経営、技術各論のほか、森林組合や林家のあり方、先進地事例など多岐におよび、まとめとして久万町での林業構造改善の方向を打ち出している。それらを概括すると、久万林業では、杉、桧の一般的建築材を中心目標として「品質の揃った良質の木材を大量に生産する」ことで生産目標が定められたのである。
この生産目標を達成していくために、育林技術体系が確立され、町、森林組合、民間指導者が一体となった普及指導が積極的に進められたのである。
実践過程では、町内に産地原木市場の設置をみ、林業労務班の結成や、加工部門では磨き丸太、椅子など木工品製造に手がつけられていった。
また、民間組織として、林業研究協議会が全町的に組織されていき、久万林業振興の大きな力となっていく。
普及活動では、婦人林業教室につづき、日曜林業教室が、そして林業まつりが開かれるなど積極的な活動が現在も続いている。林道の整備、国産材加工施設の建設、除間伐推進事業、林内作業道整備など国・県の補助対象事業の導入は県下一の実績を示している。
なお、撫育管理の遅れ勝ちな除間伐対策事業を、町単独事業としても六〇年度から始めたほか、林道受益者負担金を平成元年度から七%とし、林家の負担軽減を図って林道整備を更に促進する施策も講じられている。
昭和五八年六月一日には、それまで産業課に属していた林業係を「林業課」として独立させ、試練の時期にある林業行政への対応を図ってきている。
なお、特筆すべきことは、昭和六三年、愛媛県林業試験場が久万町大字菅生宮の前地区へ移転新設されることが決定したことである。
久万林業の主産地づくりの大きな弾みとなることはもちろん、就業の場づくりなど有形、無形の効果が期待されている。
③ 新しい観光開発とその波及をめざして
昭和五〇年代に入ると我が国の経済は安定成長期を迎え、国民の所得水準も著しい上昇をみせ、自由時間も増大するなど生活にゆとりができるようになる。
このような社会の変化や国民の生活意識の変化は、観光にも質的な変化となって現れてくる。
また、都市圏の過密現象は、都市生活者に農山村のすぐれた自然環境に目を向けさせるきっかけともなる。昭和四七年から、農林水産省は「自然休養村」を全国二〇〇か所を指定して事業化するが、久万町は愛媛県第一号の指定を受け、その拠点施設として「ふるさと村」づくりに着手することとなる。
昭和五一年に民家等の移築に着手し、五二年七月にオープン。営業と併用しながら運輸省の「家族旅行村」事業等をあわせて整備し、五九年四月に「ふるさと旅行村」として総合オープンした。入村者ゼロから出発し、一〇年を経た六三年度は約二〇万人の入村者を数えるまでに成長したのである。
久万町の観光拠点としての「ふるさと旅行村」の成長は、同時に観光産業の芽を新しく育てていくことにつながっていく。観光りんご園を主軸とする観光農園、婦人農産物加工組合、観光農業生産組合、木彫会、民宿、そして後に手がけられるふるさとの森事業などの誕生と伸長は、その波及効果の賜であろう。
昭和五七年に国の観光政策審議会が発表した「望ましい国内観光の実現のために」と題した提言の中にも、観光地の整備を地域づくり、まちづくりの一環として行うことが強く要請されているという指摘があるが、モデルの無い手作りの久万町の観光開発の方向が、的を射たものであったことが立証されたといえよう。
また、昭和六一年には民間事業として久万スキーランドが設立され、スキー場経営が始まったことも久万町の観光全体に好影響を与えることとなっている。
④ 交通網の整備
久万町を走る国道は三三号線と三八〇号線の二本である。
三三号線は昭和四二年に全線改良されたが、その後、飛躍的な産業活動の進展と車社会の出現によって、全面的な整備が必要であるという気運が徐々に高まり、昭和六〇年一一月に沿線一三市町村が「国道三三号線整備促進期成同盟会」(会長河野修久万町長)を結成し、決起大会、同盟会など整備に向けての活動に取り組んでいる。
整備目標は、①高知ー松山間二時間にむけての改良促進 ②バイパス高知ー伊野間、松山ー砥部間の整備促進 ③防災工事・歩道整備で安全な道路の確保 ④三坂トンネルの早期構想化の推進の四点である。
関係市町村による建設省等への陳情活動も活発に行われ、六二年度には三坂トンネルに調査費がつけられ図上調査も行われた。
また、「三坂トンネル早期実現協力会」も組織され、会員は活動費に充てるため毎月拠出金を積み立てている。
特に久万町にとって三坂峠は、最も身近かな場所にあり、町・議会が中心になった「三坂トンネルをぬこう」の合い言葉で息の長い運動を続けている。平成元年度には調査費が更に上積みされ、一歩前進した状況になっている。
久万町と小田町を結ぶ三八〇号線の整備については、昭和五〇年四月に主要地方道久万~内子線が国道に昇格し、沿線町村で構成する改良促進期成同盟会が中心になって運動を進め、久万町側の整備は現在四、六二二㍍と進んでおり、昭和六三年四月には真弓トンネルが開通するなど急速に整備されてきている。
⑤ 都市公園づくり
久万町大字菅生の久万公園の整備は、昭和五三・五四年度に国庫補助を受け町費も充てて用地を購入した上、陸上自衛隊に粗造成工事を委託し、五五年度から六二年度にかけて都市公園整備事業として整備を行った。
公園面積五・九七㌶に整備された施設は、全天候型テニスコート四面、多目的グランド、バックネット、芝生観覧席、鉄骨平家建て一八九平方㍍の休憩施設、七五台分の駐車場、庭園、児童広場、夜間照明、植栽など運動施設を主体とした見事な都市公園が整備されたのである。
この公園は、久万町のスポーツ、レクリェーション需要を満たしたことはもちろん、増加しつつある観光客に活用されているほか、久万林業まつりなど大型イベントの場として最適であるため、多様な活用が進められており、久万町の中核的な施設の一つとして発展を遂げている。
また、笛ヶ滝公園も都市公園としてグランド、バックネットなどの整備が昭和六〇・六一年度に行われたが、この公園は明治三三年に設置され、数十本の老松と農業用水の馬頭池の修景が非常に素晴らしく、町民の憩いの場として、また初級者向けのスキー場として多様な活用が行われてきている。
⑥福祉対策
わが国が長寿社会を迎える昭和四〇年代に入ると、社会福祉の中で焦点となったのは老人福祉問題であった。
長寿そのもののほかに、人口構造の高齢化や核家族化が進んだこともあって、独居老人やねたきり老人に象徴される老人問題が行政課題となった。
既に国においては昭和三八年に「老人福祉法」を制定し、昭和四一年には九月一五日を「敬老の日」と定めて国民の祝日とするなどその対策が次第に確立されていく。
制度的にも次々と施策が出され、老人家庭奉仕員の設置、老人健康診断の実施、老人医療費の無料化、老齢年金の支給などその対策は次第に拡大されていった。
また、これらの行政施策を基礎としながら、老人自らの長い経験と知識を社会に役立たせ、相互教育と親睦をねらいとした「老人クラブ」が結成される。久万町では昭和三二年の久万地区老人クラブを皮切りに、各地区で次々と結成をみ、同三九年には久万町老人クラブ連合会が結成されるなど県下に先駆けた老人組織の結成は、その後の久万町の福祉活動や社会教育活動の一つの母体として大きな成果を得ることとなっていく。
また、社会福祉事業を行う唯一の民間団体として久万町礼会福祉協議会が昭和四三年に法人組織となり、老人・児童・母子・身体障害者など福祉諸団体の総合的な施策推進の役割を果たしてきている。
また、ねたきり老人の介護などにあたるホームヘルパーの設置など、福祉部門の陣容も更に整えてきている。
児童福祉施設である久万保育園は昭和五九年に移転新築され、他の模範となる運営を進めてきている。
養護老人ホームは、昭和二九年に上浮穴養老院として発足し、以後、上浮穴唯一の老人福祉施設として非常に大きな役割を果たしてきていたが、昭和四八年に上浮穴郡生活環境事務組合に統合され、同五七年には移転新築されて「養護老人ホームささゆり荘」として老人福祉施設の拠点の一つとなっている。
母子福祉・身体障害者の諸活動も積極的に推進されており、これら福祉諸団体の活動には民生児童委員の役割が大きいことも特記されるべき事項であろう。
⑦ 健康づくり
住民の医療や健康づくりの拠点の一つは、病院・診療所である。久万町立病院は昭和三五年から五五年までの二〇年間、現在地で診療を続けていたが、建物の老朽化とともに、医療設備の近代化という強い要請もあって昭和五四年に新築工事に着手し、翌五五年一一月に完成しオープンした。
新病院は白亜の二階建てで、医療機器も最新式のものに一新され、建築面積も旧病院のほぼ二倍に増え、患者の利便や医簾機能を重視した設計に特徴がある。
一般病床九四床、結核病床五床の収容能力があり、内科、外科、産婦人科、歯科の診療科目のほか、増科に備えたスペースもあり、医療機器もTVレントゲン、胃カメラ、脳波検査もでき、更に昭和六三年度には、CTスキャナ(コンピューター断層撮影装置)を備えるなど医療設備の充実に努めてきている。
久万町立病院は、久万町民だけでなく上浮穴郡、特に面河村、美川村、柳谷村を含めた広域的な公的基幹病院としての役割も果たしてきており、長寿社会を迎えて、今後も更にその重要性は高まると思われる。
また、町立病院と並んで地域医療に大きな役割を果たしているのが国民健康保険直営診療所である。
直瀬診療所は昭和三四年に開設され、同五八年には直瀬地区多目的研修集会施設と併せて新築された。畑野川診療所は昭和三三年に開設されたが、交通網の整備が進むなど環境条件が好転したこともあって同四四年からは直瀬診療所の出張所となった。
父二峰診療所は昭和三二年に開設され、久万町立病院の出張所であったが、同三六年から診療所として運営している。また二名出張所は、昭和六二年に宮森生活館と合わせて新築され、地域医療の要となっている。
二つ目の拠点は、久万町保健センターで昭和六二年一月にオープンした。機能訓練室、調理実習室、保健相談室などを備え、町民の健康づくりに大きく責献している。
健康づくり活動は多岐にわたっており、住民検診をはじめとする各種の検診、高血圧教室、栄養学級、久万町健康まつりなど教育、普及活動を積極的に推進しており、より健康な生活が得られるよう懸命の努力を続けている。
⑧ 飲料水の確保と環境衛生
久万町に簡易水道が初めて設置されたのは昭和二九年であった。その直接の動機となったのは、昭和二一年に発生した南海大地震であった。町内の井戸水は、にごって使用不能となったり枯渇したりもした。町民は飲料水の不足のため、生活に不安が生じるとともに保健衛生とか防火対策の上からも簡易水道の必要性を痛感したのである。このため水道の設置運動が町内で盛んになる一方、川下農家の水利権利者は反対運動を展開したが、歩み寄りによって妥結をみ、久万町第一号の簡易水道が住安町市の窪に誕生したのである。
以後、伝染病予防など保健衛生の面とか、消火栓の設置という防火面からも簡易水道が町内に次々と設置されてきたのである。
平成元年現在、設置数は二二か所、給水人口七、七〇八、給水率九六%に達したのである。
飲料水の需要は、久万地区においては特に伸びていくことが見込まれるため、新しい水源を皿木地区に求めるなど、その対策も樹てられている。
環境衛生については、ごみ、し尿の処理が主要な事項である。久万町のごみ処理は昭和二五年に始まる。当時はごみの量も少なく、住安町から曙町までと菅生の一部を、夜間荷車で収集し、野焼き処理をしていたが同三五年一日三㌧処理能力の焼却炉を設置して処理することとなる。昭和四○年代に入ると、国民生活の向上と変化がごみ処理にも顕著に現われ、ごみの量が増えるとともに、不燃性ごみが排出されるなど質的にも大きな変化が現れてくる。
これに対応して、町では昭和四四年に可燃性、不燃性ごみ別のごみステーションの設置、ごみ収集車の購入、専任職員の配置などごみ収集態勢を整えたのである。
同四七年には、久万郷四町村が、現在地に一日処理能力二〇㌧の焼却炉を設置し、翌四八年にはビン破砕機と缶圧縮機を設置している。
し尿処理についても、寄生虫予防あるいは伝染病予防の見地から、従来の農地還元は昭和四○年代に入ると激変し、汲み取り処理の要望が高まったため、同四二・四三年事業で、現在地に一日処理能力一五㌔㍑の処理場を郡内五町村で設置したが、年を追って処理量が増えてきたため、施設の改良と併せ一〇㌔㍑を増設し、合計二五㌔㍑の処理施設としたのである。
環境衛生についても、下水処理を除き、基本的な施策が相当進んだこともあって、より高い水準での生活環境を図っていくというアメニティづくり(快適環境づくり)の段階へ現在移行しており、家庭、地域、社会が従来の枠を超えた環境づくりに取り組んでいるところである。
⑨ 行政改革の動き
昭和五〇年代後半に入ると、わが国は各面での成熟化が進み、情報化、国際化、長寿化等の時代を迎えることとなる。
他面、国、地方の累積債務は行政重要の伸長に伴って増大を続け国の債務は一三三兆円、地方の債務は五六兆円に達し、財政問題が大きな課題となる。
国は五九年一二月「行政改革の推進に関する当面の実施方針について」を閣議決定し、国と並んで地方においても協力な行政改革を推進するため地方行革大綱を策定する。
久万町においても六〇年に行政改革懇談会が設置され、数か月におよぶ審議を経て提言を行った。
提言を受けた町では「久万町行政改革大綱」を決定する。大綱では、当面の措置事項として、①応益負担の原則による事務事業の見直し ②課の統合など組織、機構の簡素合理化 ③職員定数の削減など定員管理の適正化 ④民問委託等の事務改革 ⑤会館など公共施設の設置及び管理運営の合理化 ⑥町立病院、診療所の合理化など行政改革懇談会の提言に沿った実施項目を決定している。
これらの実施項目のうち、現在までに、そのほとんどが措置済みであるが、中には、中、長期の検討や協議を要する事項もあり、行政改革への取り組みは継続して行われている状況といえよう。
⑩ 一部事務組合の歩み
昭和四八年四月、郡内五町村の特定な行政事務を共同処理する四つの一部事務組合が統合され、上浮穴郡生活環境事務組合が発足する。事務所は従前と同じ郡町村会館であった。
その年末には国民宿舎古岩屋荘に「老人いこいの家」が併設される。
五三年四月からは新設された消防業務が加わることとなり、消防本部、美川、小田の分駐所も完成し、消防職員二六名が採用される。
それまでの二年間、町民から要望の強かった救急業務は、久万町独自の発案で郡内の救急業務にあたってきたが、その救急業務も消防本部へ移行し、救急、消防の二業務がスタートすることとなる。
五五年には久万郷四町村が加入する火葬場が完成し、業務を開始する。ごみ処理施設も改良を加え、目量二〇㌧の処理能力となり、し尿処理施設も日量二五㌔㍑の処理能力となるなど環境衛生面も全郡的な規模でより良い状態に移行していくこととなる。
五七年には、養護老人ホームささゆり荘が見事に完成する。
現在職員数は五六名となったが、これらの事務を町村が個別に運用することを考えれば、その効用は計りしれないほど大きいものであろう。一部事務組合統合から新規事業も加えてきたこの一六年間、中心的な役割を果たしてきたのは郡内五町村の理事者と町村議会、そして組合職員とであった。
わけても、職員を指揮監督し、多くの所在施設の管理運営にあたった組合理事者(組合長初代久万町長日野泰 二代~現在 久万町長河野修)の労苦は大きいものであった。現在、県内でも模範とされる組合に成長し、郡民の負託にこたえていることは誠に有難いことである。
⑪ 豊かな人づくりへのとり組み
久万町の教育行政の基本方針は「人間尊重の精神を基調として、生涯教育の理念に基づき、知・徳・体の調和がとれ、人間性豊かな国際的視野をもつ日本人の育成をめざし、地域の特性を生かしながら家庭教育、幼児教育、学校教育、社会教育、社会体育、文化活動など各分野にわたる教育行政を総合的に推進する。」ことにある。
学校教育では知・徳・体の調和のとれた人間形成をめざしている。昭和六三年林業の町としても面目を施した畑野川小学校の木造校舎建築は、教育的な観点から高い評価を受けた。
家庭教育の努力目標はやさしさときびしさの中で、すこやかな成長をめざしており、PTA等の活動に力点を注いでいる。
生きがいとうるおいのある人生を目標とした社会教育では、公民館、婦人会、青年団、壮年会、老人会などの社会教育諸団体のほか、体育協会、文化協会などの組織が更に充実され、活発な活動を展開している。豊かな人づくりへのとり組みは、学校、家庭、地域など全町的に地道に進められてきているといえよう。
⑫ 明日へ向かって
久万町は昭和六三年町村合併三〇周年を迎えた。三〇年という節目の時期にあたって、明日へつないでいく記念の建設事業と関連行事が多彩に開催された。
九月には「ふるさとの村づくりサミット」が、自然休養村などの村づくりを進めている市町村長に呼びかけて行われ、地方公共団体がとり組んでいる観光事業への点検と今後の方向について意義ある共通認識を得る機会となった。
一〇月には上浮穴産業文化会館が落成した。建築に二か年を要し、固定席五〇〇と研修室など最新の設備を備え、上浮穴郡五町村の施設として世に誇れるものである。
場の提供とともに産業、文化の振興に役立つ館活動に期待が寄せられている。
一一月には「全国木のフォーラム」が行われる。
県内向けのミニフォーラムの後、木の建築文化の再建を図るためにをテーマに専門家の問題提起があり、林業、木材関係者に大きな共感をよぶ。在来工法による木造建築の再開発を、林業地からの発信として、小さな町が全国に大きく呼びかけ、フォーラムを開催した意義は非常に大きいものがあろう。
平成元年三月には、井部栄治コレクションを収蔵展示する木造建築の久万美術館が完成し、あわせて「美術館と町づくり」と題するフォーラムを久万町と愛媛新聞社とで盛会裡に開催する。
久万美術館は、久万町のめざす香り高い文化の町づくりの拠点施設としてその発展に大きな期待が寄せられている。
町村合併三〇周年の記念式典は、一一月に行われ、三〇年の歩みと記念事業の総括として中味の濃い感銘深いものであった。また、台併三〇周年記念誌として町政要覧が特別発行されたがその中で久万町長河野修は「久万町は昭和三四年に合併してより、ここに満三〇年の記念すべき年を迎えました。この間、激しい時代の変化の中で幾多の困難を克服しながら生きがいとうるおいのある町をめざして懸命に努めてまいりました。
特に、良質材生産林業、高原野菜を中心とする農業、ふるさと旅行村を中心に観光開発、町立病院、保健センター、産業文化会館、美術館の建設等今日見るゆるぎない久万町の基盤を築いてまいりました。このことは、町民の皆様のたゆまぬご努力とご理解あるご協力の賜ものであり、深い敬意と感謝を申し上げます。要覧のいずれもに新町が歩んできた歴史が息づいており、全町民の英知と連帯の成果を静かに回顧されますとともに、新しい町づくりに向かって誓いを新たにされますようお願い致します。」このように述べている。
合併三一年目を迎えた今、明日へむかって町づくりの新しい歩みが始まっている。力強く、確かな足跡を歴史に刻みながら。