データベース『えひめの記憶』
久万町誌
1 産業組合~農業会
我が国における農業協同組合の前身とみられる農業団体は、藩政時代に組・地区・村等を単位として設けられていた無尽・頼母子講などがある。天保一四年(一八四三)二宮尊徳が小田原報徳社を設立している。報徳社は、頼母子講を発展させたもので、組合員が出資をし、これを基金として、お金に困っている農民に無利息で貸出しをした。
また、これより先天保九年(一八三八)大原幽学は、先祖株組合(農民による生産組合)をつくっている。これは、組合員か所有地の一部で困っている組合員をみんなの力で助けたのである。
しかし、これらは封建社会の末期に生まれたものであり、近代的協同組合とは区別している。
日本における近代的協同組合の発足は、徳川幕府が倒れ資本主義社会となった明治以降である。明治時代に入って我が国で初めてつくられた協同組合は、生糸と茶の販売組合であった。
しかし、これらは一部地域であり、全国的に協同組合がつくられるようになったのは、明治三三年(一九〇〇)産業組合が制定されてからである。この産業組合設立のため、特に尽力したのは、内務大臣品川弥二郎と法制局長官平田東助であった。この二人は、明治の初め既にドイツに渡って信用組合の実際を視察していたので、日本の農村の実情から設立の必要を強く感じ、明治二四年(一八九一)議会に信用組合法案を出したが、議会の解散によって成立しなかった。
その後、明治三〇年(一八九七)農商務省の手により、信用組合法案は産業組合法案として議会に出されたが成立をみず明治三三年三月六日(一九〇〇)ようやく制定をみて、組織の法律的基礎が確立された。
しかし、大正九年(一九二〇)世界恐慌は、日本をもまきこみ農民は農産物の暴落に悩まされ、産業組合も事業不振で解散するものが相次いだ。そこで大正一四年(一九二五)から地主・富農中心であった組合から全農民を組合員とし、その利用を伸ばすように努めた。また、この年産業組合中央会から組合員家庭向けの雑誌である「家の光」が創刊され今日に至っている。
昭和一二年(一九三七)の日華事変をさかいに日本は戦時段階に入り、産業組合は本来の自主共同の役割を失って、国家の代行機関としての性格を強めざるを得なくなった。
昭和一八年(一九四二)には、産業組合と農会・畜産組合・養蚕業組合・茶業組合が統合して「農業会」となり、農民は強制加入させられた。会長は知事の任命によらなけれぼならなくなり、農業会は完全に国家統制の代行機関となったのである。