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久万町誌

第一章 村落社会の構造

 郷村(惣)は南北朝時代から室町時代にかけて現われた農村の自治組織であるという。
 久万町には、東明神村、西明神村、入野村、久万町村、菅生村、上野尻村、下野尻村、上畑野川村、下畑野川村、直瀬村、露峰村、父野川村、二名村とあって、今は久万町の大字となっている。いつごろできたかはわからない。
 この村(大字)の下に組がある.※印は昭和二〇年以降にできた組を示す。
 ○ 東明神村
   三坂組、樅ノ木組、横通組、野地組、高山組、皿木組、中組、本組上、本組下、※山神組
 ○ 西明神村
   北条組、沖組、栄谷組、槙野川組、高殿組一、高殿組二、仰西組
 ○ 入野村
   新開組、梶山組、影組、日之地組、駄場組一、※駄場組二、※春日台
 ○ 久万町村
   住安町上、住安町中、住安町下、本町、桂町、福井町上、福井町中、福井町下、曙町一丁目、曙町二丁目、曙町三丁目、古町、辻組上、辻組下、※緑ヶ丘、※旭ヶ丘
 〇 上野尻村
   上野尻組一、上ノ尻組二、上野尻組中、上野尻組下、※大谷組
 ○ 下野尻村(旧大洲領)
   馬酔木谷組、※日切組
 ○ 菅生村
   中通組、中組上、中組下、中通組下、北村組、槻之沢組、高野組、中野村組一、中野村組二、向条組、槙谷組(美川村より分村合併)、宮之前組、※東国組
 ○ 上畑野川村
   東河之内組、西河之内組、東明杖組、西明杖組、宝作組、岩川組、上西之浦組、下西之浦組
 ○ 下畑野川村
   上田組、中村組、上河合組、東河合組、西河合組、柳井組、上狩場組、南狩場組、東狩場組、嵯峨山組、※新狩場組、※新開山組、※紅吉組、※西峰組、※住吉住宅組
 ○ 直瀬村
   房代野組、上永子組、下永子組、上ノ段組、下ノ段組、久保組、庵条組、鳥越組、大西組、沖組、竹屋敷組、下沖組、古宮組、東組、駄場組、中通組、吉久組、西之川組、※夕日ヶ丘住宅組
 ○ 露峰村(旧大洲領)
   橋詰組、西之川組、中村組、中組、若宮組、落合組、※父二峰教員住宅組
 ○ 父野川村(旧大洲領)
   馬野地組、大久保組
 〇 二名村(旧大洲領)
   永久組、徳好組、宮成組、森田組、東条組、黒沢組、中条組、上厚組、帯石組、富重組、瀬戸組、※由良野組
 右の組の下に五人組(伍長)があり、向こう三軒両隣の最も小さい単位となっている。組に昭和二〇年以降は嘱託員を責任者として置き、町行政の末端としている。
 五人組には輪番による世話役がおり、小部落つまり組には、組長がおり(今は町内会長)、大字には村総代(「社寺」あるいは「年行事」というところもある)がいて、寺や神社の経費や年中行事などをつかさどる。村総代が三人の所もあれば、五人の所もあり、人数はまちまちである。
 藩政時代には、村々に庄屋・小走・使番・桝取役(斗差ともいう)・組頭がいたが、村の大小によってそれぞれ人数は一定していなかった。
 庄屋には中世の土豪や地侍の出が多く、久万山では、久万大除城主大野氏の旗下が、天正一三年(一五八五)、秀吉の四国征伐によって滅び、一統下城し、帰農したという家が多い。こうした家が中心となって村づくりをしてきたが、やがて近世になって村役人となったようである。
 庄屋は村行政の中心となり、絶対権を持っていて、年貢の収納・村の土木工事・戸籍の調査・宗門改め・土地の売買・村民の訴願・村民の生活上のことにまでその権力は及んだ。
 組頭は庄屋の補佐役で、一名あるいは数名おり、小走は庄屋の命によって村内の使い走り、使番は他村への使い、役所への使いをし、年貢収納の時に桝ではかって受け取る役に桝取役がいて、これら村の役人は年俸にあたる給米をもらっていた。庄屋、組頭は代々世襲制が多かった。
 百姓も久万山では本門百姓と無縁家来となっている。百姓門は本門百姓で田畑を持ち、家屋敷を持ち、検地帳の上で年貢を負担する農民であり、無縁家来というのはそうしたことのない農民をさすようである。
 こうした小農民は一七世紀の中ごろまでに自立していったという。領主はこの小村を大いにすすめた。郡奉行や代官は、ひとりひとりを支配したのではなく、村民に連帯責任をもたせて村全体を通して支配したので、領主に年貢を収めるのも村が単位で、検地帳も村ごとに作り、年貢取立ての命令書も受領証もすべて村あてに出された。最末端の自然村が行政村として単位をなしたわけである。
 家庭生活においても戸主が絶対権を持ち、長子相続制であった。茶の間の座席にも序列があり、上座、下座、先座とあって、主人の座、妻の座、下男下女の座ときまっていた。
 こうした仕組みの中で人々はどんな暮らしをしていたのであろうか。