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中山町誌

第二節 奉公

 奉公の種類
 長期にわたって雇われ働くことを奉公といった。商家の場合はでっち奉公、女中奉公、職人は徒弟奉公、年少者の子守奉公などである。
 奉公人は、家計が貧困で生活を支える口過ぎのために主家に雇われて働く者達である。これらの人をおとこし・おなごし、またにいや・ねえやとも呼んだ。明治以降、昭和初期にかけて多く行われた。
 奉公口はまた、次のような目的もあった。一つは前述のように口過ぎのためと、もう一つは将来職人として、自立できる技能を身につけ併せて、他人の飯を食べる生活を通して、人間教育をするという意味もあった。
 農家であらしこやおなごしを雇うのは、大農家に限られていた。年季奉公は正月から年末迄の一年季契約が普通であったが、おとこし(あらしこ)の中には軍隊に入るまで年季奉公を続けた者もあった。
 年季奉公は住み込みで、朝は五時に起き、一日中働いて、よなべにはいろりの端で雑巾ぬい、足袋のつくろいなどをし、毎晩一一時に床に就くのが普通のようであった。盆・正月などの休みにわずかの小遣い銭を貰って家に帰るのが唯一の楽しみであった。
 大工・左官などの職人はすべて技術の習得と人間教育の両方を目的としていた。
 大工職人の徒弟奉公は、弟子入りから年季明けは五年を要したが、明治から昭和初期にかけての弟子修業は厳しいものであり、年季半ばで辞める者もあった。技術の習得は、親方の仕事を見て習い覚え、聞き覚えで、一切教えてはもらえなかった。食事の時間も惜んで親方の動きに注目し、墨引きは必ず逃さず、親方が失敗した時も注意して見届け、盗むようにして習得していった。この弟子の間は食べさせて貰うだけで、衣類は親もちである。五年修業で年季が明けたら、お礼奉公をする者もあった。

 左官職人では、弟子入り当時は、まず土こね、土選びから始まる。失敗したら叱責するが、手に取って指導する親方は少なく、自ら親方や先輩の仕事を見て覚え、聞いて覚えて習得していった。年季明けの後、一年のお礼奉公をして、はじめて一人前の職人として認められた。

 日 雇 い
 日雇いは一般にひようにんともいい、またひよにんさんとも呼んだ。農繁期や山林の手入れなど多くの労力を要するとき、日雇人を雇うのが便利で、奉公人を雇う時代でも、手間換えの労力を持たない家ではこの日雇人を雇っていた。
 日雇人には、自作地が少なく労力に余裕のある人が時哲雇われる場合と、ほとんど自作地がなく日雇い専業の場合とがあり、それだけでは生活が苦しく、貧乏から抜け出せないのが実情であった。
 労働時間は、戦前迄は日一杯の仕来りであったが、戦後は順次改められて、土木事業などの雇人との影響もあって、昭和三五年頃から八時間労働が定着してきた。最近は賃金も物価の上昇や他業種労働者との均衡などを考慮して決められるようになった。