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中山町誌

三、 日露戦争と中山町

 下関条約によって、清は朝鮮の独立を認め、リャオトン(遼東)半島・台湾・ポンプー諸島を日本に割譲した。以後日本は朝鮮半島を足場にして中国大陸に進出する機会を窺うようになる。
 この頃の資本主義国の経済は発展著しく、市場の独占、植民地獲得競争が激化し帝国主義の嵐が吹き荒れていた。このような状況下で、満州(中国東北部)に勢力を伸ばそうとしていたロシアはフランス・ドイツと共同で、日本に対してリャオトン半島を清に返すよう三国干渉を行った。日本はやむなくこれを受け入れ、以後反ロ感情が高まった。
 明治三三年(一九〇〇)に中国で義和団事件が起こり、日本・ロシアを主力とする各国連合軍は出兵してこれを鎮圧した。その後ロシアは撤兵せず朝鮮半島への南下の動きを示した。日本は日英同盟を結びこれに対抗し、ロシアの撤兵を要求したが交渉は成立しなかった。そして明治三七年二月一〇日、日本はロシアに対して宣戦を布告し日露戦争の開戦となった。
 明治三七年四月一九日に四国第一一師団に動員が下命され歩兵部隊・機動特科隊はそれぞれ召集された。中山地方のほとんどの軍人が入隊召集されたと思われる松山歩兵第二二連隊は、その初陣として旅団長陸軍少将山中信義の統率により、高浜港から乗船出征した。そして四月二四日にリャオトン半島に上陸し、二七日に鐘家屯に達し、三〇日に半島両断作戦に協力した。
 六月六日に旅順攻撃の目的をもって新たに編成された第三軍に編入され、乃木希典大将の指揮下に入り善通寺第一一師団土屋光春中将に率いられて南進し、剣山・大白山・大孤山を攻略し旅順に迫った。この頃より難攻不落といわれた旅順の攻撃は明治三八年(一九〇五)一月二日まで約半年間繰り広げられた。松山連隊の目標として示されたのは東鶏冠山で、八月二二日に第一回総攻撃から一二月一七日まで続けられた。
 その後、松山連隊は鴨緑江軍に転属し、清河城の戦闘、撫順の占領、奉天付近の戦闘と重要な役割を果たした。以後両国軍は大きな衝突もなく、九月五日にポーツマスで講和条約が結ばれたことによって、この戦争も終止符を打った。そして、松山連隊は明治三九年一月三日に奉天を出発し大連を経て、一〇日から一一日にかけて高浜港に到着した。
 中山町におけるこの戦争の従軍者等の詳細はわからないが、明治四二年(一九〇九)の調査によると出淵村・中山村で従軍者一三四名、戦病没者七名金鵄勲章受章者八名となっている。
 明治三九年四月から五月頃に中山村では盛大な凱旋祝賀会が行われた。この会には村長・村会議員・各部落代表が参加し出征軍人を讃え、酒食が出され、また在郷軍人会の手により日露戦争戦捷記念碑(乃木大将筆)が紅葉谷に建立された(大森寅治郎談)。
 この戦争は当時世界最強と言われた陸軍を有するロシアが相手であっただけに、銃後においても全てが戦争遂行のために結集され、国民の総力を挙げての戦いであった。