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伊予市誌

四一、入仏寺の本尊 (八倉)

 今から一、一九〇年ほど前の弘仁時代のある冬のころ、八倉峠下の谷あたりが、夜になるとぼうと光り始めた。それからは、それが毎夜のように続くのであった。八倉の人たちは、それを不思議に思った。やがて不安になって、このうわさは村中に広がっていった。
「なんぞのたたりじやろか。不思議なことよのう。悪いことが起こらにやよいが。」
 村人たちは、不安にかられ思案にあまった末、とにかく、数十人でその谷へ行ってみることにした。手に手に鍬や鎌を持って、しばらく木の技やかやなどを切り払いながら登っていくと、やがてほんのりと、なんだか明るく感じられる所へ出た。あたりを見回した村人たちは驚いた。まだ冬だというのに、谷の小さな沼に蓮の花が美しく咲き誇っていたのである。
 どうしてこんな冬に、蓮の花が咲くのであろうかと思って、とにかくみんなで、ためしにこの辺りを掘り下げてみた。すると、地下三尺(約〇・九㍍)ぐらいの所から、金や銀・銅で作られた阿弥陀如来像が出てきた。村人たちは、さっそく、これを本尊としてここにお寺を建て、入仏寺と名づけた。そして山の林の中で光を放っていたことから、山号(お寺の名)を林光山と呼び、蓮の花が冬なのに咲いていたので、蓮花院ともよんだ。また、誰言うともなく、この谷を蓮花谷と呼ぶようになった。
 その後、しばらくして、国々の寺を巡り歩いていた文脱という僧が、このうわさを聞いて入仏寺を訪れた。そして、この蓮花谷にしばらくの間、小屋を建てて住んでいたが、ついにここで亡くなった。このとき、入仏寺の本尊阿弥陀如来がいらっしゃって、文脱を極楽へ導いていってくれたという。
 このうわさが伊予の国中に広がると、人びとは、この谷に葬られれば、紀州 (和歌山県)の高野山の大谷に葬られるのと同じだと思い、それがうわさになった。特に、親孝行の子などは、年寄った親や病気の親を背負ってこの谷を訪れたと言い伝えられている。
 今の入仏寺は、約三〇〇年前に何かの都合で、すぐ東側の谷に建てられたものである。