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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

近世〔延宝1(1673)~元禄16(1703)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

1673(延宝1 9.21・癸丑) 
  2―    幕府、城米廻船条例を制定する。
  5―15   松山藩、石手寺内の諸堂を修復させる〔伊予古蹟志〕。
  6―27   松山藩領石手川の堤防決壊、城下町浸水激しく、西堀端付近では堀の土手に畳を運んで避難する。その後延宝2・5―5大普請所に高瀬舟の準備が命じられる〔垂憲録拾遺〕。
  6―    幕府、分地制限令を制定する。
  9―25   宇和島藩領内で牛馬の病死が多発する〔県編年史7〕。
  この年   宇和島藩、従来の高持制を廃して鬮持制を実施する〔不鳴条〕。


1674(延宝2・甲寅) 
  9―17   宇和島城下で大火、佐伯町が全焼する〔記録書技〕。
  9―    今治藩法度を制定する〔国府叢書〕。
  この年   宇和郡高田礒新田新村、下灘竹ヶ嶋新浦はじまる〔記録抜書〕。
  この年   暴風雨、西条藩領で牛馬が数多く疫病死する〔西条市誌〕。


1675(延宝3・乙卯) 
  3―3   安朗、大祝職に補せられ、松山藩主より宅地2反7畝、今治藩主より金・木材を与えられ、両藩主の命により、今治鳥生村から宮浦に移る〔大山祇神社文書〕。
  3―3   松山藩、飢饉のため困窮者多く、救済のため小栗市場に小屋を設け、川普請を実施する〔垂憲録拾遺〕。
  4―    遊行上人(42代尊任)伊予を廻国する。
  8―2   松山藩領伊予郡で稲穂を盗刈りする者があり、両手の指2本を切り札の辻へさらす〔垂憲録拾遺〕。
  10―    西条藩領氷見組の初見〔史学研究98号〕。
  この年   宇和島藩領内海村の魚神山が新浦となり、須賀川下新田の築造はじまる〔記録抜書〕。


1676(延宝4・丙辰) 
  3―1   今治藩江島為信、太田道灌流の兵式の演習隊制を編成する〔今治拾遺〕。
  4―17   将軍の紅葉山参詣に際し、松山藩辻固めを命じられる。4―24増上寺参詣の際も同様〔本藩譜〕。
  6―11   松山藩領洪水に見舞われる〔叢談〕。
  10―25   今治藩主松平定陳、弟定道へ5,000石を分知する〔今治拾遺〕。
  この年   宇和島藩領飢饉、死者多数にのぼる〔記録抜書〕。


1677(延宝5・丁巳) 
  1―3   松山藩、大坂蔵屋敷法度を定める〔松山政法編集〕。
  6―13   松山藩、宇摩郡のうち37か村1万3,591石余の地の預かりを免じられ、7―14幕府代官三田次郎右衛門へ引き渡す〔叢談〕。
  10―27   松山城下町の地図が作成される〔松山市役所旧蔵松山町内切図〕。


1678(延宝6・戊午) 
  7―18   伊予国など大風雨、西条藩で堤防255間・塩浜286間・新田堤860間・家屋293軒が被害を受ける〔厳有院殿御実紀〕。
  7―18   大風雨のため松山藩城下町で803戸、郷村で1,594戸破損する〔厳有院殿御実紀〕。
  8―4   伊予国などで大風雨、西条藩で堤防278間・家屋277戸が被害〔厳有院殿御実紀〕。


1679(延宝7・己未) 
  2―9   松山藩奉行高内又七親昌、領内諸郡に新令25条を出し、春免実施について徹底をはかる〔菅菊太郎旧蔵文書〕。
  9―27   今治藩、領内の布木綿の丈幅を規定し、翌正月より実施される。幅は鯨指で1尺、丈は鯨指で3尺9寸にして7尋〔鈴木永頼見聞録〕。
  この年   新居郡大生院村の曽我部親信の開墾地で有望鉱脈発見される(市之川鉱山の開発)〔西条市誌〕。
  この年   江島山水『山水十百韻』を刊行する〔同書〕。
  この年   宇和島の桑折宗臣撰『詞林金玉集』が刊行される。


1680(延宝8・庚申) 
  1―22   宇和島藩が使用していた船印の日ノ丸、幕府公用船の船印となったため、宇和島藩は赤九曜の丸に改める〔記録書抜〕。
  6―1   松山藩、道後温泉の入浴規程を定める〔増田文書〕。
  6―11   周布・桑村両郡の神職、神祇講を結成する〔小松邑誌〕
  8―    松山藩領久万山村々の庄屋、連判して夫米・小物成の免除を願い出る〔入野村庄屋文書〕。
  延宝年間  吉田藩主伊達宗純、延宝の改革を断行し、高禄の家臣を淘汰する〔落葉のはきよせ〕。


1681(天和1 9.29・辛酉) 
  1―23   宇和島藩、領内に天災が続発したため累積した年貢未進分3万石を免除し、窮民救済のため3,000俵を支給、また未進のない優良村に対しては、小役のうち三色を5年間免除する〔記録書抜〕。
  1―    今治藩、飢饉のため飢人6,777人、死者55人を出す〔鈴木永頼見聞録〕。
  4―    幕府巡見使駒井次郎左衛門・小田切喜兵衛・水野小左衛門ら松山に入る〔叢談〕。
  5―2   宇和島藩領皆田と吉田藩領法華津で境界紛争おこる〔記録書抜〕。
  5―9   松山藩領内にキリシタンの制札を立てるよう布告される〔垂憲録拾遺〕。
  5―24   今治藩、城下町役・職人作料などの規定できる〔浮穴家文書〕。
  5―    将軍綱吉、諸大名招請の能を主催、松山藩主松平定直も参観する〔松山市史料集〕。
  6―9   幕府巡見使、土佐より宇和島藩領へ入る(入用銀88貫560目)〔記録抜書〕。
  6―    幕府、越後国高田城主松平光長の所領を没収して、光長を松山城主松平定直に預ける〔常憲院殿御実紀〕。
  10―15   松山藩、諸頭に対し養子に関する規定を出す〔垂憲録拾遺〕。
  11―8   今治藩不作のため、はじめて家臣の俸給を5%削減する〔今治拾遺〕。
  11―    宇和島藩、火消役加勢を命じられ、桜田監物・神尾帯刀が勤める(入用銀78貫600目余)〔記録抜書〕。
  12―10   曙舟子、俳論『詠句大概』を刊行する〔県史文学〕。
  この年   大洲藩・新谷藩、知行制度が改定され、封禄蔵米支給となる〔新編物語藩史〕。
  この年   宇和島藩、大浦新田築造開始される〔記録抜書〕。
  この年   吉田藩寺社方森田仁兵衛、『吉田古記』を編纂する〔吉田領寺社古記並古城跡之覚書〕。
  この年   宇和島藩、宗門改めを実施する(人口6万5,932人)〔記録書抜〕。
  この年   宇和島藩士井関盛英、『宇和旧記』を著す〔家中由緒書〕。


1682(天和2・壬戌)  
  3―11   松山藩主松平定直、御幸寺山で狩をするため勢子として町内に人数を割当てる〔松山町鑑〕。
  6―21   幕府禁令発布され、宇和島藩、家中・町在に倹約を命じる〔記録抜書〕。
  7―18   宇和島藩、在郷代官を置く〔記録抜書〕。
  7―18   宇和島藩、先年の内ならし検地(地坪)以後も土地の評価に不平等があるため、地組のくみ替えを行わせる〔不鳴条〕。
  10―2   松山藩、城下町で出火した場合、町人を消火活動に参加させるべく処置を定める〔垂憲録拾遺〕。
  12―7   松山藩領桑村郡石延村で地坪が実施される〔桑村郡石延村田畑地坪水帳〕。


1683(天和3・癸亥) 
  1―11   松山藩、野間郡波止浜塩田築造に着手する。3―9汐留、8―7初の製造塩藩主に献上する〔高浜家記〕。


1684(貞享1 2.21・甲子) 
  この年   宇和島藩士井関盛英『弌塹截』を著す〔家中由緒書〕。
     

1685(貞享2・乙丑) 
  4―    今治藩、今治・拝志両町法度を発布する〔鈴木永頼見聞録〕。
  5―    今治藩、郷中法度を発布する〔国府叢書〕。
  5―    吉田藩の御浦下代岡村直正、『郡鑑』(河野本)15冊を編纂する。〔同書写〕。
  6―    今治藩、山林取締令を発布する〔国府叢書〕。
  8―    今治藩、領内の寺社明細言上書を作成する〔同書〕。
  11―10   大洲地方で大地震がおこる〔御年譜微考〕。
  11―10   地震、宇和島城下大手道少々割れる〔記録抜書〕。
  12―4   大地震、松山藩領道後温泉湧出停止し、松山城も石垣など崩壊する〔津田家記〕。
  この年   宇和島藩領、近家村内藤三右衛門新田できる〔記録抜書〕。
  この年   宇和島藩、家中困窮のため、京都桔梗屋了順から銀300貫目、在浦から65貫目、城下町から60貫目を借用する〔記録抜書〕。


1686(貞享3・丙寅) 
  3―15   松山藩主松平定直、大山祇神社へ社領50石を寄進、うち田5反・畑1町5反を大祝職田とする〔大山祗神社文書〕。
  この夏   松山藩領野間郡延喜村農民、凶作のため年貢減免を求めて越訴する〔伊予史談84号〕。
  この年   吉田藩、山田仲左衛門事件おこる〔吉田藩昔語〕。


1687(貞享4・丁卯) 
  1―28   幕府、初めて生類憐みの令を発す(~宝永5年)。
  9―7   松山藩主松平定直、三の丸へ居館を建設中であったが、落成したので引き移る〔叢談〕。
  9―21   松山城三の丸普請落成につき、「御移従の御祝儀能」が開催される〔叢談〕。
  9―    今治藩領、暴風雨、757軒倒壊破損する〔今治拾遺〕。
  10―18   馬の尻尾を切った今治藩奉公人渡辺作左衛門、牢舎内で斬首される(生類憐み令による)〔国府叢書〕。
  12―24   松山藩主松平定直、黄檗宗千秋寺へ和気郡の内で新田50石を寄進する〔千秋寺記〕。
  12―    大山為起、松山藩主の招きに応じて来松、味酒神社神官となる〔葦水翁行状〕。
  12―    松山藩主松平定直、黄檗宗千秋寺を開創する〔予松御代鑑〕。
  この年   松山藩、周布郡中山越(桜三里)を改修し、桜木8,240本を植える。代官矢野五郎右衛門源太の名により矢野桜(源太桜)と呼ぶ〔周桑郡記録〕。
  この年   大坂の木屋平兵衛、『四国遍路道指南』(大坂の修業僧真念著)を出版する〔同書〕。


1688(元禄1 9.30・戊辰) 
  2―    大山為起、松山の味酒神社で『日本書紀』の講義を開始する(門人は千人に達したという)〔葦水翁行状〕。
  7―    宇和島藩領宇和郡多田・山田・山奥・野村組の農民、年貢の津出しをめぐって騒ぐ〔記録抜書〕。
  10―    松山藩主松平定直、道後宝厳寺へ田地20石を寄進する〔草庵日誌〕。
  12―    宇和島藩、領内産の仙貨・杉原紙を、この年より藩で買い入れ、大坂の問屋に送る〔御歴代事記〕。
  この年   宇和島藩、財政難のため家中役米の軽減措置を中止し、天和2年以前と同様100石について20俵とし、これに加えて5か年間1割減俸する〔記録抜書〕。


1689(元禄2・己巳) 
  1―    今治藩、大島・伯方島に月改役を置く(大島は仁江村孫右衛門、伯方島は北浦村七郎右衛門)〔小笠原家譜〕。
  2―25   宇和島藩、搔鰯に5分の1の運上を課す〔不鳴条〕。
  3―7   松山藩、質地の年貢は質取主から納付するように命じる〔松山政法編集〕。
  9―7   松山城三の丸の舞台で初めて能が演じられる〔叢談〕。
  11―    今治藩勘定所、庄屋給分役高定書を布達し、翌3年より実施する。庄屋給分は100石の場合5俵〔国府叢書〕。
  この年   今治藩、越智郡八幡新田村で地坪が実施される〔同村地坪検地帳〕。
  この年   宇和島藩大良之鼻、新浦になり、畑など開発、鰯網一張できる〔記録抜書〕。
  この年   高野山宝光院の寂本、 『四国遍礼霊場記』を著す〔同書〕。


1690(元禄3・庚午) 
  1―    松山城下町に消防組織ができる〔松山町鑑〕。
  7―12   宇和島藩領宇和郡山田村東方の農民47人、庄屋・組頭の不正を訴える(~7―13)〔東宇和郡沿革史〕。
  7―21   今治藩主松平定陳一行、参勤の帰路中、兵庫沖で難船、6隻破船する〔今治拾遺〕。
  10―1   宇和島藩、財政窮乏のため3か年の借上げを実施、700石以上の藩士は半知とする。また鉄砲組(10組)・長柄組(5組)のうち1組あて5人ずつ解雇する〔記録書抜〕。
  この年   宇和島藩、鰯網・塩・他所より入る雑穀に対し、歩一運上の徴収をはじめる〔記録抜書〕。
  この年   俳人大淀三千風、全国行脚の途次、松山を訪れる〔松山市史年表〕。
  この年   大坂の寂本編『四国遍礼功徳記』刊行される〔同書〕。


1691(元禄4・辛未)
  3―3   宇和島藩三浦村庄屋勘兵衛、高島5か所の網代のうち、1か所の下げ渡しを願い出て許される〔三浦田中家文書〕。
  4―    宇摩郡別子山村別子銅山の稼行について、大坂泉屋吉左衛門より願書が提出される〔別子銅山公用帖〕。
  5―    吉田藩吉田町・町人町の一部に上水道敷設される〔鳥羽文書〕。
  8―18   松山藩、奉行・側役などの役料を定める(奉行役料は100俵、側役役料は20俵)〔本藩譜〕。
 閏8―14   今治藩、財政難のため、5か年を限り家中より借米する。給人の場合6分の1〔今治拾遺〕。
  この年   西条藩、新居郡の與兵衛・甚左衛門、深の州に新田を築く〔西条市誌〕。
  この年   宇和島藩で、御庄の山林を伐採し、御鷹場を開墾する〔記録抜書〕。
  この年   宇和島藩で、山奥(組)の番茶を他所に出すこと、及び御庄に入る酒に運上を課すこと、はじまる〔記録抜書〕。
  この年   別子銅山開発初年度の産銅32万斤余(192t)〔垂裕明鑑〕。
  この年   松山城下町、71町の人口を調査する(総人口1万9,172人、うち奉公に出ている者2,568人)〔松山町鑑〕。


1692(元禄5・壬申) 
  1―18   今治藩領越智郡別所村地坪のため、松山藩より手代池内七左衛門・永江安兵衛、北条村庄屋四郎右衛門来る。今治藩家老服部伊織、郡奉行多却孫左衛門出張する〔今治拾遺〕。
  この年   日向国飫肥(家老江島為信の前任地)より甘藷苗を取り寄せ、大島へ植え付ける〔今治拾遺〕。
  この年   宇和島藩、麦大豊作、平年作の2倍のところあり、平均して2割から3割増しとなる〔記録抜書〕。
  この年   宇和島藩、御庄組・津島組・御城下組・野田平地薪伐に対し、この年より杣口銭あるいは運上を課す〔記録抜書〕。


1693(元禄6・癸酉) 
  1―19   宇和島藩、村々の税率、3年間の定免となる。高10万3,180石5斗に対し、物成4万2,174石6斗増徴分3,078俵〔記録書〕。
  2―10   大山為起『東遊紀行』の旅に出発する〔同書写〕。
  この夏   宇和島藩で旱魃、植え付け不能の田80町歩・立枯30町歩となる〔記録抜書〕。
  この夏   吉田藩領に大旱魃がおこる〔三瓶町誌〕。
  12―5   今治藩領越智郡本庄村幸新田沖土手汐留工事、郡奉行大山文右衛門・西山文太夫、代官白樫平右衛門見分のため出張する〔今治拾遺〕。
  この年   松山藩、生類憐れみ令発布により鹿座を廃止する〔松山手鑑〕。


1694(元禄7・甲戌) 
  1―15   松山藩、城下町の借家を調査する(総合計2,978軒のうち333軒は明借家)〔諸事頭書控〕。
  1―26   今治藩、本庄村に開かれた地域を幸新田と命名、造成された塩田は32町8反1畝〔対揚遺芳〕。
  4―25   別子銅山大火災、132人焼死する〔別子銅山公用帖〕。
 閏5―17   宇和島藩領洪水、田地の永荒・当荒合計279町余、流畑336町余となる〔記録抜書〕。
 閏5―    西条藩松平頼純帰国する。領内の大庄屋以下御目見順決定される〔新居浜市立図書館所蔵文書〕。
  6―14   松山藩領松山町方の宗門帳が提出される(総人口2万66人、うち奉公人1,730人)〔諸事頭書控〕。
  9―23   松山藩主松平定直、江戸城西丸普請助役を命じられる〔常憲院殿御実紀〕。
  11―3   今治藩、拝志町の支配、町奉行から代官支配に変更される〔今治拾遺〕。
  11―29   今治藩主松平定陳、大山祇神社に家禄10石を与える〔大山祇神社文書〕。
  12―23   宇和島藩、家中10年賦拝借皆済年のため、困窮する者続出、宇和島藩庁、大坂で230貫目、郷町で70貫目を調達して救済する〔記録抜書〕。
  この年   宇和島藩、俵物3万5,000俵、銀にして100貫目分を大坂に運ぶ〔記録抜書〕。


1695(元禄8・乙亥)
  2―8   江戸大火、6万7,450軒焼失、この時松山藩三田中屋敷類焼する〔増田家記〕。
  4―25   天領別子銅山大和間符と西条領立川銅山大黒間符とが坑道抜き合い、境界争論おこる〔予州別子立川両御銅山仕格覚書〕。
  7―4   松山藩、三津浜洲崎の川口改修を許可される〔垂憲録拾遺〕。
  8―19   幕府、金銀貨改鋳を布達する。


1696(元禄9・丙子) 
  4―20   宇和島藩領雷雨、御庄中之川村へ梅実大の霰降り、麦穂打ち落とされる〔記録抜書〕。
  7―4   宇和島藩、新田を高付して、10万石に高直しの件、許可される〔記録抜書〕。
  11―19   松山藩領浮穴郡久万町、大火で190軒焼失する〔叢談〕。
  この年   西条藩領旱魃・暴風雨のため大不作となる〔西条市誌〕。
  この年   坂上羨鳥編『簾』刊行される〔同書〕。


1697(元禄10・丁丑) 
  2―4   幕命により宇和島・松山・大洲・今治各藩、協力して伊予一国絵図を作成する。完成提出は元禄13・6―22〔記録抜書〕。
 閏2―4   幕府、別子・立川両銅山坑道論争を裁許する(別子側に有利)〔垂裕明鑑〕。
  2―    松山藩主松平定直、将軍綱吉の御前で「小鍛冶」を舞い好評を得、翌日綱吉自身の能を拝見する〔叢談〕。
  3―11   今治城下町人不如意につき、今治藩庁が上方商人より借銀して、低利で融資する〔今治拾遺〕。
  4―晦   今治藩主松平定陳、大書院に藩士を集め、論語を講じる〔今治拾遺〕。
  7―6   宇和島藩、城下塩座を横新町・竪新町に開くことを認める〔記録抜書〕。
  この年   大坂の寂本、『四国徧礼手鑑』を出版する〔四国八十八ヶ所名所図会〕。
  この年   松山藩儒官大高坂芝山の『適従録』・『芝山会稿』刊行される〔同書〕。


1698(元禄11・戊寅) 
  1―26   浮穴郡で仰西渠を開鑿した山之内仰西没する〔法然寺過去帳〕。
  5―1   宇和島藩、近家村で塩田築造工事はじまる〔記録抜書〕。
  5―26   今治藩、関東にある所領5,000石を収公され、代償として宇摩郡のうち18か村を与えられる〔今治拾遺〕。
  6―5   今治藩主松平定陳、備後福山城主10万石水野勝岑改易につき、城請取を命じられる〔今治拾遺〕。
  11―2   宇和島藩、古金銀引き替えのため、当分の間、藩札通用を許可される〔御歴代事記〕。
  12―    大洲藩主加藤泰恒、大洲八幡宮を再興する〔加藤家年譜〕。


1699(元禄12・己卯)
  1―22   越智郡大浜村、地組帳を作成する〔伊予八藩土地史料〕。
  2―29   宇和島城外船入りなどの修理工事が許可される〔記録書抜〕。
  6―5   徳川綱吉、今治藩主松平定陳に領知目録を渡す〔今治拾遺〕。
  8―26   宇和島藩領近家村塩浜、辰巳新田ができる〔御年譜微考〕。


1700(元禄13・庚辰) 
  1―    松山藩シテ方能役者高橋甚七を召し抱える〔予松御代鑑〕。
  2―12   宇和島藩・吉田藩、津布理村・安土浦の干潟を検分して、新田開発を認可する〔記録抜書〕。
  3―7   遊行上人(46代尊証)伊予松山へ来着する〔本藩譜〕。
  3―23   宇和島藩、樺崎新田開発に着手する〔記録抜書〕。
  3―30   遊行上人、松山城三の丸にて松山藩主松平定直と対面する〔本藩譜〕。
  4―3   遊行上人、松山を出発する(この時参詣する者9万4,241人、散銭4貫840目7分4厘)〔本藩譜〕。
  6―22   松山藩、幕命によって国絵図を提出する〔叢談〕。
  7―3   宇和島藩、長者ヶ駄場新田開発をはじめる〔記録抜書〕。
  8―12   宇和島藩、領内の物産46品目について歩一運上を課す〔記録抜書〕。
  9―    宇和島藩、新調銀が少ないため、銀200目以下は札遣とする〔記録書抜〕。
  この年   阿波の六左衛門、西条藩領新居郡黒島付近に着目、塩田の適地であると語る〔西条市誌〕。
  この年   吉田藩、宇和島藩と協定して、宇和郡津布理村・安土浦の干潟干拓を計画する〔記録抜書〕。
  この年   今治藩の越智郡大島津倉村に前堀塩田できる〔新編物語藩史〕。


1701(元禄14・辛巳)
  2―    今治藩、越智郡仁江村田方割賦帳作成される〔吉海町教育委員会所蔵文書〕。
  2―    吉田藩主伊達村豊、播州赤穂藩主浅野内匠頭とともに公家衆馳走役となる〔藤蔓延年譜〕。
  4―17   松山城下長町より出火し、西風強く大火となり136軒類焼する〔本藩譜〕。
  5―15   幕府の命により、松山藩領内の80歳以上の人数を差し出す(男288人・女270人)〔本藩譜〕。
  6―    別子銅山請負人泉屋吉左衛門の代理金右衛門ら、銅山から新須賀村に出る運搬路を天満道から種子川道に変更したい旨、西条藩に願い出る〔別子銅山公用帖〕。
  8―21   宇和島藩、夏の旱魃による損毛2万石、8―10より―17までの降雨による損毛1万石を江戸家老に通知する〔記録抜書〕。
  9―15   大洲藩、幕府より大洲城三ノ丸西方隅櫓再建の許可を受ける〔北藤録〕。
  9―23   宇摩郡で強盗殺人事件の犯人9名が磔獄門となる〔今治拾遺〕。
  この年   西条城下に新地町できる〔西条誌〕。
  この年   坂上羨鳥編『たかね』全3巻、刊行される〔同書〕。


1702(元禄15・壬午) 
  2―11   江戸大火、松山藩二本榎屋敷類焼する〔本藩譜〕。
  2―    吉田藩江戸下屋敷類焼する〔吉田町誌〕。
  5―21   松山藩、諸郡村々に盲人救助米を出すことを命じる〔座頭瞽女勧物米請書之覚〕。
  7―28   暴風雨のため伊予国各地に被害続出する〔御歴代事記〕。
  7―28   松山大風、松山城天守閣の鯱落ちる。潰家は侍屋敷23軒・町家20軒・百姓家2,389軒、死者は16人を出す〔垂憲録拾遺〕。
  7―28   大洲藩領に大洪水があり、潰家1,332軒、流死2人となる〔加藤家年譜〕。
 閏8―18   松山藩、新組300人を召し抱える。1か年1人に12俵宛を支給する〔増田家記〕。
  8―    宇和島藩領、暴風雨のため、田地の被害3,382町歩余に及び、損毛2万180石余におよぶ 〔記録抜書〕。
  11―26   松山藩、秋の大風で被害を受けた諸郡へ救助米を支出する。周布・桑村郡へは700俵ずつ、野間・風早郡へは500俵ずつ、久万山へは500俵、伊予郡へは3,000俵は配布する〔垂憲録拾遺〕。
  12―14   赤穂浪土の仇討成功する(12―15幕府、大石主税・堀部安兵衛・大高源吾ら10名を松山藩江戸藩邸に預ける)〔赤穂御預人始末〕。


1703(元禄16・癸未) 
  8―19   大洲藩領大暴雨のため、倒家608軒〔加藤家年譜〕。
  12―10   大山為起『日本書紀』30巻の講義を終え門弟とともに日本紀竟宴を行う〔日本紀竟宴〕。