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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

中世〔暦応1(1338)~貞和1(1345)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

1338(暦応1 延元3 8.28・戊寅) 
   2―20   岩松頼有、三島神社の大祝安顕に祈禱を命じる〔集古文書〕。
   3―7   忽那重清、北朝方に従って安芸国妻高山城に小早川氏を攻める〔忽那家文書〕。
   3―13   忽那一族、北畠顕家に従い山城国男山八幡宮に籠る〔忽那家文書〕。
   5―22   忽那一族、和泉国堺浜で北朝方と戦う〔忽那家文書〕。
   6―2   明阿弥陀仏、畠地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕。
   6―    忽那義範ら、久米郡高井城を攻略する〔忽那家文書〕。
   7―13   忽那義範、西条城を攻略する〔忽那家文書〕。
  閏7―17   鳥生貞実、足利方に属して新居関などで戦う〔予陽河野盛衰記〕。
   8―11   足利尊氏、征夷大将軍となる。
   9―28   足利直義、金子康広の伊予国での戦功を賞する〔金子文書〕。
   9―29   忽那義範ら、久米郡播磨塚で足利方と戦う〔忽那家文書〕。
   11―6   岩松頼有、観念寺領内で兵士らの乱暴を止めさせる〔観念寺文書〕。
   11―19   南朝方、忽那義範に忽那島に城を構えさせ防衛に当たらせる〔忽那家文書〕。
   12―6   河野通盛、観念寺に禁制を掲げる〔観念寺文書〕。


1339(暦応2 延元4・己卯) 
   2―10   岩松頼有、近藤辰犬に伊予郡宝珠寺の寺務職を安堵する〔大洲旧記〕。
   4―28   忽那島に滞在中の懐良親王、忽那義範の軍功を賞する〔忽那家文書〕。
   6―29   後醍醐天皇、懐良親王に綸旨を下し、九州経営を委ねる。
   6―29   懐良親王、忽那義範の軍忠を賞する〔忽那家文書〕。
   7―7   忽那義範ら、周防国大島郡加室で北朝方と戦う〔忽那家文書〕。
   この秋   北畠親房、『神皇正統記』を著す。
   10―11   明阿弥陀仏ら、桑村郡古田郷内の田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
   11―3   越智俊氏、宇和郡高田八幡宮で領内の平安を祈る〔高田八幡神社文書〕。
   12―6   四条有資、興隆寺に朝敵退散を祈らせる〔興隆寺文書〕。


1340(暦応3 興国1 4.28・庚辰) 
  1―21   越智兼信、観念寺に灯油田を寄進する〔観念寺文書〕。
  1―23   東寺の供僧祐舜、弓削島荘鯨方の所務職を請負う〔百合文書〕。
  2―12   忽那氏、越智郡大浜城で北朝軍と戦う〔忽那家文書〕。
  2―13   善恵(河野通盛)、肥前国神崎庄内の地頭職をその子通将に譲る〔明照寺文書〕。
  2―18   岩松頼有、温泉郡繁多寺で兵士らの乱暴を停止する〔関戸守彦所蔵文書〕。
  2―    北畠親房、『職原抄』を著す。
  3―17   伊予国司四条有資、興隆寺に桑村郡得能の領家職を寄進し、南朝の京都回復を祈らせる〔興隆寺文書〕。
  9―13   斯波高経ら北朝軍、越前国府中を攻略、ついで脇屋義助を破る。
  9―18   幕府、岩松頼有に六波羅蜜寺領河原荘公文名の乱暴を停止させる〔六波羅蜜寺文書〕。
  10―10   忽那義範、忽那島に来襲した安芸国守護武田信武の軍を撃退する〔忽那家文書〕。
  10―21   懐良親王、忽那義範の戦功を賞する〔忽那家文書〕。
  10―    吉川辰熊丸代河内道覚、武田信武に忽那島での軍忠を報告する〔吉川家文書〕。
  12―3   越智盛高、桑村郡池田郷内の田地などを観念寺に寄進する〔観念寺文書〕。


1341(暦応4 興国2・辛巳) 
  2―13   僧性賢、忽那島友貞半名地頭職を手放す〔長隆寺文書〕。
  3―8   河野通遠、智承に国分寺領を安堵する〔国分寺文書〕。
  3―8   河野通遠、父通盛の命をうけて、国分寺の寺領を確保させる〔国分寺文書〕。
  8―12   摂津親秀、矢野保内の所領を孫能直らに譲る〔美吉文書〕。
  9―5   尼蓮信、田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕。
  9―28   越智盛藤、桑村郡池田郷内の田畠を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕。
  12―20   忽那一族、北朝方と道後で戦って恵良城に退く〔忽那家文書〕。
  12―23   足利直義、夢窓疎石の請により天龍寺船を元に派遣する。


1342(康永1 4.27 興国3・壬午) 
  1―    九条家所領目録が作成され、越智郡作礼寺(仙遊寺)が法成寺末寺として記録される〔九条家文書〕。
  3―23   東寺の供僧祐瞬、弓削島荘串方の雑掌職を得る〔百合文書〕。
  3―    忽那氏一族、湯築城を攻略する〔忽那家文書〕。
  4―8   越智高康ら、桑村郡桑村郷内の田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕。
  4―23   脇屋義助、南朝軍を統率するため今治に上陸する。この頃大館氏明、伊予国守護として在任する〔忽那家文書〕。
  4―23   幕府、五山十刹の序列を再編する。
  4―28   南朝、忽那義範らに屋代島内島末西方領家職を分与する〔忽那家文書〕。
  5―1   これより先、征西将軍宮懐良親王伊予を立ち、この日薩摩に着く〔忽那家文書〕。
  5―11   脇屋義助、国府で病死する〔太平記〕。
  7―14   細川頼春、宇摩郡川之江城を陥れ、南朝軍を千丈原で破る〔忽那家文書〕。
  8―5   細川頼春、国分寺で兵士らが乱暴するのを停止させる〔国分寺文書〕。
  10―19   大館氏明、細川頼春の軍を桑村郡世田山城で防ぎ戦死する〔忽那家文書〕。
  10―20   安芸国小早川氏平、世田城での軍忠を細川頼春に報告する〔吉川家中并寺社文書〕。
  11―16   宗亘、越智郡拝志郷恒光名の田地を国分寺に返す〔国分寺文書〕。


1343(康永2 興国4・癸未) 
  2―4   後村上天皇、忽那義範に備後国安田郷地頭職を与えてその功を賞する〔忽那家文書〕。
  4―28   幕府、細川頼春に命じて小早川一族の乱暴を止め弓削島荘所務職を東寺雑掌に渡させる〔百合文書〕。
  8―12   守護代藤原光定、幕府の命をうけて弓削島荘を東寺雑掌に確保させる〔百合文書〕。
  9―25   小早川一族小坂鶴夜叉代所信政、弓削島荘の状況を小坂氏に報告する〔百合文書〕。
  11―11   小早川一族浦氏実代丹後房、弓削島荘の状況を浦氏に報告する〔百合文書〕。
  11―14   小早川一族安宿美作五郎代大弐房貞秀、弓削島荘の状況を預所に報告する〔百合文書〕。


1344(康永3 興国5・甲申) 
  2―3   小早川一族船木弾正忠代信妙、弓削島串浦の所務について百姓らに通告する〔百合文書〕。
  7―    妙法院門跡亮性法親王、同門跡領温泉郡斎院勅旨田などに関する文書が焼失したので太政官符を下して証明されるよう請願する 〔妙法院文書〕。
  9―9   越智一族、観念寺への寄進状を作成する〔観念寺文書〕。
  9―11   越後守平高顕、垣生四郎兵衛尉に南朝方参加を促す〔忽那家文書〕。
  10―8   高重成、僧疎石の『夢中問答集』を開板する。
  11―5   越智兼信ら、観念寺に置文を定める〔観念寺文書〕。
  11―9   河野通朝、池内氏に風早郡河野郷池内を知行させる〔池内家文書〕。


1345(貞和1 10.21 興国6・乙酉) 
  1―21   越智兼信、灯油田として拝志郷得恒名などを観念寺に寄進する〔観念寺文書〕。
  2―6   光厳上皇、足利尊氏の奏請により国毎に建立の寺を安国、塔を利生と名付ける。
  2―27   宇和郡重山の内書帳がつくられる〔重山文書〕。
  6―10   越智信高、拝志郷内得恒名などの田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕。
  12―20   足利尊氏、三島社に奉納する法華経に外題を書く〔富田重助所蔵文書〕。