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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

原始・古代〔治安1(1021)~建久2(1191)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

1021(治安1 2.2・辛酉) 
  8―21   伊予国などの匙文を奏する〔小右記〕。
     

1022(治安2・壬戌) 
  10―28   検伊予国交替使、実録帳を進上する〔朝野群載〕。


1023(治安3・癸亥) 
  1―22   正六位上越智助時、伊予掾となる〔除目大成抄〕。
  7―14   主計頭安倍吉平、伊予国が談天門を造営する年について勘申する〔小右記〕。
  7―24   伊予の相撲人越智富永ら上京する〔小右記〕。


1025(万寿2・乙丑) 
  2―27   伊予国などの匙文を奏する〔小右記〕。
  7―19   伊予の相撲人秀高(姓不明)、入京する〔小右記〕。
  7―25   伊予の相撲人富永・惟永ら入京する〔小右記〕。
  9―26   伊予守済家(姓不明)、任国に来る〔小右記〕。


1026(万寿3・丙寅) 
  1―24   伊予国鎰文を申上する〔左経記〕。
  7―23   伊予の相撲人秀高、入京する〔小右記〕。


1027(万寿4・丁卯)  
  7―19   伊予の相撲人秀幸、2日後同じく富永ら入京する〔小右記〕。


1028(長元1 7.25・戊辰) 
  1―18   伊予守済家、京都法成寺の念仏僧非時料米に400石を献ずる〔左経記〕。
  1―24   関白藤原頼通の邸宅に伊予簾が使われていた〔左経記〕。


1029(長元2・己巳) 
  9―2   伊予国司に2か年の延任が許される〔小右記〕。


1031(長元4・辛未) 
  2―26   東大寺が伊予国に与えた返抄に捺した寺印を実検する〔小右記〕。
  3―28   伊予国、内裏不老門の造営を辞退する〔小右記〕。
  7―23   伊予の相撲人惟永ら上京する〔小右記〕。


1034(長元7・甲戌) 
  8―2   伊予の相撲人惟永ら、内裏で胡籙と弓を賜る〔左経記〕。
  8―19   風損した内裏殿舎のうち、応天門、神嘉殿などの修造を伊予国が担当する〔左経記〕。


1041(長久2・辛巳) 
  この頃   右近内侍、伊予に来る〔出羽弁集〕。


1049(永承4・己丑) 
  この年   越智国秀・品治吉末、ついで翌年越智友近、伊予掾となる〔魚魯愚抄〕。


1052(永承7・壬辰) 
  1―    伊予権守藤原資信、遙授の物を請うため、雑色成友を下向させる〔春記〕。
  4―25   雑色成友、伊予より帰京する〔春記〕。
  8―8   伊予の百姓ら、京都に上って権守藤原資房の善状を申す〔春記〕。
  この頃   『新猿楽記』成立。伊予国の特産物として、手筥・砥石・簾・鰯などの記載がある。


1055(天喜3・乙未) 
  9―28   伊予国、東大寺封物の綿代米74石5斗を進納する〔東南院文書〕。
  12―23   伊予国、東大寺封米90石を仮納し、返抄が給付される〔東南院文書〕。
  この頃   『堤中納言物語』できる。


1060(康平3・庚子) 
  4―20   内大臣藤原頼宗、伊予国の封戸50烟などをその女藤原延子に譲る〔本朝続文粋〕。


1062(庚平5・壬寅) 
  8―15   伊予国久米郡長村里の僧円観、庵中で焼身する〔後拾遺往生伝〕。


1063(庚平6・癸卯) 
  2―27   前陸奥守源頼義、安倍貞任ら追討の功により正四位下に叙せられ、伊予守となる〔扶桑略記〕。


1064(康平7・甲辰) 
  3―29   源頼義の捕えた安倍宗任らを伊予国に移す〔朝野群載〕。


1065(治暦1 8.2・乙巳) 
  8―3   淀津に到着した伊予国の年料米について、解文が申上される〔帥記〕。
  9―1   蔵人所、伊予国に簾用途料の墨等を交易進上させる〔朝野群載〕。
  この年   伊予守源頼義、重任を願い出る〔本朝続文粋〕。


1066(治暦2・丙午) 
  2―6   伊予守藤原実綱の赴任に能因法師が同行する。のち、大旱魃のおり社壇で和歌をよみ、三島明神に雨乞いをする〔三島神社文書〕。


1067(治暦3・丁未) 
  この年   安倍宗任らを伊予国より大宰府に移す〔百錬抄〕。


1076(承保3・丙辰) 
  8―7   伊予国から東大寺に封米を納める〔東大寺文書〕。


1080(承暦4・庚申) 
  6―10   天皇の安穏を祈るために村山神・大山積神・野間神など、諸国の神に勅使を派遣する〔朝野群載〕。


1082(永保2・壬戌) 
  1―11   伊予采女正六位上越智永子、位階昇進の推薦をうける〔朝野群載〕。
  3―18   伊予国から東大寺に封米を納める〔東大寺文書〕。
  この年   伊予少目従七位上越智時任、伊予大目となる〔江家次第〕。


1085(応徳2・乙丑) 
  11―1   太皇太后宮職、伊予国などの私稲を出挙した利を法定院の寺用にあてるよう上申する〔朝野群載〕。


1086(応徳3・丙寅) 
  11―26   白河上皇、院庁で政務をみる(院政のはじまり)。


1090(寛治4・庚午) 
  7―13   京都賀茂御祖社の御厨として宇和郡六帖網および内海が寄進される〔賀茂注進雑記〕。


1094(嘉保1 12.15・甲戌) 
  6―19   伊予国、年料米の解文を奏する〔中右記〕。
  8―7   伊予守高階泰仲、国内疲弊のため造伊勢宮催促使の派遣を断わる〔中右記〕。
  この年   『扶桑略記』の記述終わる。


1097(承徳1 11.21・丁丑) 
  3―10   天皇の春日詣のため伊予国などに淀川の浮橋を分担して造らせる〔中右記〕。
  8―21   白河法皇、故郁芳門院のため、醍醐寺に無量光院を創建し供養する。
  12―28   伊予国の減税申告書が議せられる〔中右記〕。


1099(康和1 8.28・己卯) 
  12―28   正六位上中原弘忠、野間郡大領となる〔朝野群載〕。
     

1102(康和4・壬午) 
  1―7   南海道諸国の神社の破損を調べる。
  7―5   伊予国の年料米を奏する〔中右記〕。


1104(長治1 2.10・甲申) 
  6―19   東大寺、伊予国封米の未進を決算する〔東南院文書〕。
     

1105(長治2・乙酉) 
  12―27   右少弁藤原為隆、伊予国の年料米の吉書を奏する〔中右記〕。


1106(嘉承1 4.9・丙戌) 
  12―16   関白藤原忠実の春日社詣に伊予国などの織物が使われる〔殿暦〕。
  この年   東大寺要録できる。


1108(天仁1 8.3・戊子) 
  7―28   正四位下藤原基隆伊予守となり、伊予国大島荘吉浦方田50町を聰子内親王に寄進する〔中右記〕。
     

1111(天永2・辛卯) 
  8―20   伊予の相撲人紀恒、藤井守次ら内裏相撲召合せに勝つ〔中右記〕。
  この頃   伊予国の運上した皇后宮封物が祇園社の神人のために奪われる〔中右記〕。


1112(天永3・壬辰) 
  8―21   東大寺、伊予国司に寺封200戸の調庸雑物などの代米の納入を求める〔東南院文書〕。


1113(永久1 7.13・癸巳) 
 閏3―28   近衛府生惟宗忠清、相撲使となり伊予国に来る〔長秋記〕。
     

1115(永久3・乙未) 
  2―12   中宮職御服所に伊予国封残米90石2斗2升を納める〔朝野群載〕。


1116(永久4・丙申) 
  1―9   京都法成寺金堂の修正会に伊予の封米および油が使われ、また盂蘭盆講にも絹が用いられる〔執政所抄〕
  この年   三善為康、『朝野群載』を編む。


1117(永久5・丁酉) 
  12―20   正六位上越智貞吉、伊予大掾となる〔除目大成抄〕。


1127(大治2・丁未) 
  この年   京都醍醐寺円光院領越智郡大島荘内吉浦田43町、甘原田37町の荘域を定める〔上醍醐雑事記〕。
  この年   源俊頼、『金葉和歌集』を撰進。


1129(大治4・己酉) 
  5―18   伊予国などの租穀1年を免除する〔中右記〕。
  7―15   白河法皇の葬送が行われ、殿中渡殿に伊予簾が用いられる〔長秋記〕。


1130(大治5・庚戌) 
  3―13   東大寺政所、同寺領新居郡新居庄などの文書絵図目録をつくる〔東大寺文書〕。


1135(保延1 4.27・乙卯) 
  6―3   伊予守藤原忠隆、弓削島についての鳥羽上皇の院宣の請文を発する〔百合文書〕。
  9―13   伊予国衙、弓削島の塩浜田畠の所当官物を免ずる〔百合文書〕。


1136(保延2・丙辰) 
  6―19   伊予国三島社が造営される〔三島神社文書〕。


1141(永治1 7.10・辛酉) 
  8―4   太政官、暲子内親王家領高田勅旨田などの課役を免ずる〔根来要書〕。     


1148(久安4・戊辰) 
  5―10   東大寺、伊予国などの封物の未進を注進する〔東南院文書〕。
  この年   大原三千院来迎阿弥陀三尊像できる。


1150(久安6・庚午) 
  9―16   越智郡弓削島荘の住人ら、伊勢神宮役夫工米などの課役免除を願い出る〔百合文書〕。
  11―26   弓削島荘の住人ら、国使の非法を訴え、国司がこれを認める〔百合文書〕。
  この冬   藤原通憲、『本朝世紀』の編纂を始める。


1152(仁平2・壬申) 
  3―19   土御門内裏の造営が始まり、伊予国は紫宸殿を分担する〔本朝世紀〕。


1153(仁平3・癸酉) 
  1―28   稲荷社領伊予郡山崎荘が立券される〔中右記〕。
  4―29   東大寺諸荘文書目録が作成され、同寺領新居郡新居荘の関係文書が記録される〔守屋孝蔵所蔵文書〕


1156(保元1 4.27・丙子) 
  3―13   伊予守藤原親隆、先使を送り在庁官人に神事および農事につとめるよう命ずる〔兵範記〕。
  7―11   平清盛、源義朝ら、崇徳上皇の白河殿を夜襲し、上皇方を破る(保元の乱)。
  この年   高野山金剛峯寺両界曼荼羅成る。


1157(保元2・丁丑)
  3―26   新造内裏の棟上げが行われ伊予国に常寧殿建造が割当てられる〔兵範記〕。
  7―15   伊予国、法成寺盂蘭盆会に細美6丈布を供える〔兵範記〕。


1158(保元3・戊寅) 
  12―3   官宣旨を下して石清水八幡宮領越智郡岩城島・生名島・佐島、温泉郡味酒郷などで荘官らの違法行為をするのを禁止する〔石清水文書〕。


1159(平治1 4.20・己卯) 
  12―9   藤原信頼・源義朝ら、上皇御所三条鳥丸殿を製撃する。平清盛、信頼・義朝らを破る(平治の乱)。
  12―27   平重盛、伊予守となる〔公卿補任〕。


1161(応保1 9.4・辛巳) 
  1―    後白河上皇、国内の前斎院勅旨田などを日吉神社に寄進する〔妙法院文書〕。     


1164(長寛2・甲申) 
  8―    弓削島荘の下司平助道、重ねて国衙の公事免除を訴える〔百合文書〕
  9―    平氏一門、法華経を書写し厳島社に奉納する。
  12―    弓削島荘住人ら、再び国衙課役の免除を訴え、藤原能盛が免除の旨を留守所に命ずる〔百合文書〕。


1165(永万1 6.5・乙酉) 
  1―20   伊予国衙、国司の命をうけて課役免除の旨を弓削島荘に伝える〔百合文書〕。
  7―19   弓削島荘住人ら、国衙公事の免除を訴え、国司が免除の旨を留守所に伝える〔田中教忠所蔵文書〕。


1166(仁安1 8.27・丙戌) 
  7―    弓削島荘住人ら、国衙公事の免除を訴え、国司藤原親信が免除の旨を留守所に伝える〔百合文書〕。     


1167(仁安2・丁亥) 
  2―11   平清盛、太政大臣となる(5月辞任)。
  2―25   弓削島荘住民ら、国衙所役の免除を訴え、国司がこれを許す〔百合文書〕。
  この年   僧重源、入宋する。


1171(承安1 4.21・辛卯) 
  12―12   官宣旨を発して伊予郡玉生荘などを石清水八幡宮宝塔院領として確認する〔石清水八幡宮記録〕。
     


1172(承安2・壬辰) 
  11―    弓削島荘住人ら、国衙使の停止を求めて解状を提出し、国司高階泰経がこれを認めてその旨を留守所に伝える〔雨森善四郎所蔵文書〕。 


1176(安元2・丙申) 
  2―    八条院領目録が注進され、新居郡新居荘・風早郡高田荘などが記録される〔山科家古文書〕。


1177(治承1 8.4・丁酉) 
  6―1   平清盛、平氏打倒の陰謀を知り、鹿ヶ谷の謀議が発覚、藤原成親・成経・僧西光が逮捕される (鹿ヶ谷事件)。
    

1179(治承3・己亥) 
  8―22   官宣旨を伊予国に下して弓削島荘をもとのように従三位藤原綱子に領有させる〔百合文書〕。
  11―20   平清盛、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する。
  この年   後白河法皇、『梁塵秘抄』を編む。


1180(治承4・庚子) 
  1―2   石清水八幡宮、伊予の封米を検納する〔石清水文書〕。
  8―17   源頼朝、伊豆に挙兵。


1181(養和1 7.14・辛丑)  
 閏2―12   河野通清、平氏に反して挙兵する〔吾妻鏡〕。
  8―23   河野通清戦死の知らせが京に伝わる〔平家物語〕   
  9―27   河野通信、平氏の命をうけた田内成良の軍に敗れる〔吾妻鏡〕。
  11―2   後白河院庁、石清水八幡宮宝塔院領伊予郡玉生荘などでの乱暴を停止させる〔石清水八幡宮記録〕。


1182(寿永1 5.27・壬寅) 
  3―8   右近衛中将従三位平維盛、伊予権守を兼ねる〔公卿補任〕。
  8―22   伊予国などの不動倉の匙文を奏する〔吉記〕。
  この年   飢饉により、餓死者数万に及ぶ。


1183(寿永2・癸卯) 
  7―28   源義仲・行家が入京、後白河法皇が平氏追討の宣旨を下す。
  8―16   後白河法皇、源義仲を伊予守とする〔百錬抄〕。
  12―1   摂政藤原師家、伊予国の封米を奏する〔吉記〕。


1184(寿永3 元暦1 4.16・甲辰) 
  1―26   源頼朝に平氏追討の宣旨を下す。
  4―6   源頼朝、喜多郡矢野荘などを平頼盛に返すように法皇に願い出る〔吾妻鏡〕。  
  4―24   源頼朝、上賀茂社領野間郡菊万荘・佐方保などで武士が乱暴するのを停止させる〔賀茂別雷神社文書〕。


1185(寿永4 文治1 8.14・乙巳) 
  2―21   河野通信、兵船を率いて源義経の軍に加わる〔吾妻鏡〕。
  3―14   源義経、長門国壇ノ浦に平氏を破る(壇ノ浦の戦)。
  11―29   源頼朝、守護・地頭を設置する。
  12―6   源頼朝、九条兼実に伊予国を与えるように推薦する〔玉葉〕。
  12―29   右大臣九条兼実に伊予国を賜り、源秀長伊予守となる〔吉記〕。


1186(文治2・丙午) 
  4―8   醍醐寺文書目録が作成され、越智郡大島荘の文書が記録される〔醍醐雑事記〕。


1187(文治3・丁末) 
  2―2   後白河法皇、伊予国の修造した鳥羽殿に行く〔玉葉〕。
  3―    僧栄西、再び宋に渡る。
  9―3   興福寺の建材が伊予国から摂津国川尻に着いたことが伝わる〔玉葉〕。
  9―11   伊勢例幣の不足を伊予国に補わせる〔四度幣部類記〕。


1188(文治4・戊申) 
  7―1   六条殿御所を伊予国に割り当てる〔玉葉〕。
  9―29   弓削島荘で検注が行われ、検田目録が作られる。ついで翌年には桑検注目録・作畠麦検注取帳、同目録が作成される〔百合文書〕。
  12―10   伊予国、六条殿の火鎮祭を勤任する〔山丞記〕。


1189(文治5・己酉) 
 閏4―30   藤原泰衡、衣川に源義経を襲い討つ。
  7―19   河野通信ら、頼朝の奥州征伐に従軍する〔吾妻鏡〕。


1190(建久1 4.11・庚戌) 
  12―    後白河院庁、伊予郡玉生荘などが石清水八幡宮宝塔院領であることを確認する〔石清水文書〕。
     

1191(建久2・辛亥) 
  1―15   源頼朝、政所吉書始を行い、これまでに御家人に与えた御判下文等を回収して政所下文を与える。
  2―10   内裏の破損が大きいので修理を伊予国に命ずる〔玉葉〕。
  7―    栄西、帰朝し臨済宗を広める。
  10―    この時注進された長講堂所領注文に弓削島荘・忽那島荘・三島荘が見える〔京都大学文学部所蔵文書〕。