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愛媛県史 年表(平成元年2月28日発行)

原始・古代〔大同1(806)~承平6(936)〕

【西暦(和暦・干支)】
  【月日】 【事項】

806(大同1 5.18・丙戊) 
  5―24   初めて六道観察使が置かれる。南海道観察使は、式部大輔吉備泉が兼ねる〔後紀〕。
  この頃   最澄、天台宗を開く。


807(大同2・丁亥) 
  2―13   斎部広成、『古語拾遺』を選上する。
  11―11   伊予親王をめぐる陰謀事件に関連して、外舅藤原雄友が伊予国に配流される〔紀略〕。


808(大同3・戊子) 
  3―    伊予の人、興福寺の僧仁秀没する〔元享釈書〕。
  この年   風早郡の人光定、比叡山にのぼり天台の教義を受ける〔文徳実録〕。


809(大同4・己丑) 
  6―22   大宰帥の公廨を伊予などの5か国で支給して、運送の冗費を省くこととする〔類聚国史〕。
  9―2   神野郡の呼称を改めて新居郡とする〔類聚国史〕。


810(弘仁1 9.19・庚寅) 
  1―14   光定、内裏御斎会で得度する〔文徳実録〕。
  9―12   薬子の変おこる。


812(弘仁3・壬辰) 
  4―18   光定、東大寺戒壇院で具足戒をうける〔文徳実録〕。


813(弘仁4・癸巳) 
  2―21   伊予国の人勲六等吉弥侯部勝麻呂ら2名、野原の姓を賜る〔後紀〕
  この年   藤原冬嗣、興福寺南円堂を建立。


815(弘仁6・乙未) 
  3一17   光定、内裏殿上で天台の宗義をめぐって議論する〔伝述一心戒文〕。
  7―13   嵯峨天皇、夫人橘嘉智子を皇后とする。
  7―20   治部少録従七位下越智浄継、『新撰姓氏録』の撰進にあずかる〔新撰姓氏録〕。


822(弘仁13・壬寅) 
  6―11   光定らの尽力により天台大乗戒壇設立が勅許される〔文徳実録〕。
  この頃   『日本霊異記』編集される。越智直の百済出兵、石鎚山の寂仙禅師、和気郡の日下部猴の子などの伊予国関係説話も収録されている。


823(弘仁14・癸卯) 
  2一22   大宰府管内諸国に公営田1万2千余町を設ける。
  4一14   光定、比叡山延暦寺で義真について一乗菩薩戒をうける〔伝述一心戒文〕。


828(天長5・戊申) 
  10―3   伊予国弥勒寺、定額寺となる〔紀略〕。


830(天長7・庚戌) 
  6―23   伊予国の人風早益吉女、その貞節を賞され、位階2階を叙され、かつその戸の田租を終身免ぜられる〔類聚国史〕。
  この年   空海、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。


832(天長9・壬子) 
  12―20   伊予国の俘囚吉弥侯部於等利ら男女5人、願いにより阿波国に移配される〔類聚国史〕。


833(天長10・癸丑)  
  2―15   刑部大輔兼伊予守従四位下藤原衛ら、『令義解』10巻を撰進する。


834(承和1 1.3・甲寅) 
  5―26   伊予国の人浮穴直千継ら、春江宿禰の姓を賜る〔続後紀〕。
      

835(承和2・乙卯) 
  3―21   僧空海没する。
  11―13   越智郡の人越智直広成ら7人、宿禰に改姓することを許される〔続後紀〕。


837(承和4・丁巳) 
  1―9   伊予国の人典薬権允物部広宗および弟真宗ら、本貫を左京二条四坊に移す〔続後紀〕。
                
  5一21   伊予国に飢饉があり、救済される〔続後紀〕
  8―7   伊予国従四位下大山積神・従五位下野間神、名神に列せられる〔続後紀〕。


838(承和5・戊午) 
  2―10   南海道の諸国司に命じて海賊を逮捕させる〔続後紀〕。
  4―2   光定、伝灯大法師位に叙せられる〔文徳実録〕。


839(承和6・己未) 
  11―5   伊予国の人外従五位上風早直豊宗ら、善友朝臣の姓を賜り、本貫を左京四条二坊に移す〔続後紀〕。


840(承和7・庚申) 
  9―8   伊予国温泉郡の定額寺を天台別院とする〔続後紀〕。


843(承和10・癸亥) 
  6―25   伊予など18か国に飢饉があり、救済される〔続後紀〕。


845(承和12・乙丑) 
  12―5   風早郡の人侍医物部広泉、内薬正を兼ねる〔続後紀〕。


850(嘉祥3・庚午)  
  2―22   光定、内裏清涼殿で法花経を講論する〔続後紀〕。
  5―4   太皇大后橘嘉智子没する。この頃、新居郡にかつて住んだ橘嫗の後身が橘夫人であるとする伝承がある〔文徳実録〕。
  7―9   伊予国の人力田物部道吉・鴨部福主ら、私財でもって窮民を救済したので、位1階を叙せられ
る〔文徳実録〕。


851(仁寿1 4.28・辛未)   
        従五位下高階岑緒伊予守となり、内薬正侍医従五位下物部広泉伊予権掾となる〔文徳実録〕。 
      

853(仁寿3・癸酉) 
  6―15   宇摩郡の村山神、名神に列せられる〔文徳実録〕。
  7―16   僧円珍ら唐へ出発。


854(斉衡1 11.30・甲戌) 
  3―8   風早郡櫛玉姫神に従五位下の神階を授ける〔文徳実録〕。
  4―3   光定延暦寺別当となり、比叡山に四王院を建てる〔華頂要略〕。
  10―15   内薬正従五位上物部首広泉、朝臣の姓を賜る〔文徳実録〕。


858(天安2・戊寅) 
  8―10   内供奉十禅師伝灯大法師位光定没する〔文徳実録〕。
  10―22   桑村郡布都神に神階従五位下を授ける〔三代実録〕。


860(貞観2・庚辰) 
  10―3   風早郡の人内薬正兼侍医物部首広泉没する。広泉には医書『摂養要決』20巻の撰述がある〔三代実録〕。
 閏10―16   伊予国大山積神に神階従三位を、伊方神に従五位下を授ける〔三代実録〕。
 閏10―17   伊予国瀧神、神階従四位下に叙せられる〔三代実録〕。


861(貞観3・辛巳) 
  3―14   東大寺大仏の修理落成供養が行われる。
  5―21   伊予国野間神、神階従四位下に叙せられる〔三代実録〕。


862(貞観4・壬午) 
  5―20   海賊が横行し諸人を殺害、公私の物を掠奪するので、伊予など瀬戸内海沿岸の13か国に命じてこれを追捕させる〔三代実録〕。
  9―18   伊予国伊予村神、神階従四位上に叙せられる〔三代実録〕。


863(貞観5・癸未) 
  3―4   咳逆病流行により諸国名神に祈らせる。
  9―25   伊予国高縄神、神階従五位下に叙せられる〔三代実録〕。


866(貞観8・丙戌) 
 閏3―7   伊予国大山積神、神階正三位に、伊曽乃神・野間神・伊予村神、正四位下に、瀧神、従四位上にそれぞれ叙せられる〔三代実録〕。
  4―11   南海道の諸国司に海賊の取締り強化を督促し、捕獲人数の言上を命じる〔三代実録〕。
  7―    最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の諡号が与えられる。
  9―22   応天門の変おこる。
  10―23   浮穴郡に少領1員をおく〔三代実録〕。
  11―8   宇和郡を分けて、宇和・喜多の2郡とする〔三代実録〕。


867(貞観9・丁亥) 
  2―5   伊予国瀧神、神階正四位下に、村山神、正五位下に、浮嶋神、従五位下にそれぞれ叙せられる〔三代実録〕。
  2―19   右大臣藤原良相、山城国貞観寺に伊予郡苧津荘田を施入する〔仁和寺文書〕。
  3―27   海賊の横行が絶えないので、諸国の保長に対し、その動静を偵察し、逮捕にあたらせる〔三代実録〕。
  11―10   伊予国宮崎村付近に海賊が群集するので、瀬戸内沿海の諸国に対し人兵・俘因を差発し、これを追捕するよう指示が出される〔三代実録〕。


870(貞観12・庚寅) 
  8―28   伊予国大山積神、神階従二位に、礒野神・野間神・瀧神・伊予村神、正四位に、村山神、正五位上にそれぞれ叙せられる〔三代実録〕。  
  12―26   宇摩郡の人従七位上苅田首倉継・同浄根らに、物部連の姓を賜る〔三代実録〕。


871(貞観13・辛卯) 
  8―25   『貞観式』完成。その「民部省式」に、伊予国の貢調期限は明年2月、但し宇和・喜多両郡は明年3月と規定されている〔三代実録〕。 
  11―13   越智郡の人、外従五位下直講越智広峯、本貫を改め、左京職に移る〔三代実録〕
  この年   広隆寺縁起資財帳できる。


873(貞観15・癸巳) 
  12―2   左京に移った助教越智広峯、さらに善淵朝臣の姓を賜る〔三代実録〕。


874(貞観16・甲午) 
 閏4―19   宇和郡、戸口の増加により、新たに1郷が加えられたため、下郡に昇格して、大少領の設置が認められる〔類聚三代格〕。


875(貞観17・乙未) 
  3―29   伊予国大山積神、神階正二位に、磯野神、従三位に、風伯神、従五位下にそれぞれ叙せられる〔三代実録〕。
  4―5   越智郡楠本神、神階従五位上に叙せられる〔三代実録〕。
  8―23   神護寺梵鐘ができる。


876(貞観18・丙申) 
  4―11   善淵広峯、大極殿火災による廃朝の可否についての諮問に答申する〔三代実録〕。
  6―21   仏像1万3千を東海・山陰・南海三道諸国に分置する。
  6―27   もと興福寺の僧徳操、銭貨を私鋳し伊予国に配流される〔三代実録〕。
  10―13   風早郡忽那島の牛馬が繁殖し農作物を害するので、年貢の余りはことごとく売却し、その価直は正税に混合することを願い出て許される〔三代実録〕。


878(天慶2・戊戌) 
  4―8   興福寺の堂宇・僧房が焼失する。
  7―8   伊予国墓辺神および雄郡神、神階従五位下に叙せられる〔三代実録〕。


881(元慶5・辛丑) 
  3―26   伊予国解に応じて、諸国の神社祝部の選任資格を規定するとともに、諸社祝部氏人本系帳を作り、3年ごとに京進するよう定める〔類聚三代格〕。
  7―   円珍、『伝教大師行業記』を撰する。
  9―26  伊予国などの稲を興福寺に施入し、鐘楼僧房の造料にあてる〔三代実録〕。
  10―9  桑村郡に准じ久米郡に大少領をおく〔類聚三代格〕。
  12―28  伊予国野間神、神階従三位に叙せられる〔三代実録〕。


884(元慶8・甲辰) 
  10―17  桑村・久米両郡に准じて、喜多郡に少領1員をおく〔類聚三代格〕。
  11―17  伊予国井河神、神階従五位下に叙せられる〔三代実録〕。


885(仁和1 2.21・乙巳) 
  2―10  伊予国徳威神・門嶋神・宇和津彦神、それぞれ神階従五位下に叙せられる〔三代実録〕。      


886(仁和2・丙午) 
  3―12  東寺の新造一塔が雷火で焼失する。
  10―27  伊予・讃岐両国の正税穀各1,000斛を伊勢斎宮寮の費にあてる〔三代実録〕。
  11―23  新居郡に主政1員をおく〔三代実録〕。


887(仁和3・丁未) 
  6―2  伊予など19か国から進貢する絹がことに粗悪になったので、旧様の絹1疋を国ごとに下し、それにもとづいて織らせることとする〔三代実録〕。
  7―30  諸国に大地震がおこる。


890(寛平2・庚戌) 
  5―27  これより先伝燈大法師位峯檀、伊予国講師となる〔東南院文書〕。


891(寛平3・辛亥) 
  5―29  これより先伊予など3か国の解文により、中央の実力者が徴物使を派遣し、諸国から運ばれる調庸物・私糧を事前に差しおさえてしまうので、調庸物の貢納をすましがたいという実情が訴えられる〔類聚三代格〕。
  10―26  伊予国大国主神、神階従五位下に叙せられる〔紀略〕。


895(寛平7・乙卯) 
  11―2  伊予国の要望により史生1員をやめて弩師をおく〔類聚三代格〕。


896(寛平8・丙辰) 
  3―4   従来伊予など7か国が周防国鋳銭司の鋳銭料雑物を、交易調達し送進してきたが、これ以後停止される〔類聚三代格〕。


897(寛平9・丁巳) 
  1―25   諸国から貢進される采女の定数が改定され、伊予国は1人となる〔類聚三代格〕。
  4―19   南海道諸国司に前国司の怠慢を弁済させる条例を定める〔政事要略〕。
  この頃   伊予国から東大寺に封物として銭・米・紙などが納められていた〔東南院文書〕。


902(延喜2・壬戌) 
  3―13   伊予などの諸国に対し、みだりに田租を頴稲として徴収するのを禁止する(はじめて荘園整理令を発す)〔類聚三代格〕。


905(延喜5・乙丑) 
  4―15   紀貫之ら、『古今和歌集』を撰進する。
  7―28   内舎人大野夏貞、謀反の罪により伊予国へ配流される〔西宮記〕。


908(延喜8・戊辰) 
  7―    多治比宗安、周敷郡大領となる〔北山抄〕。


910(延喜10・庚午) 
  7―10   旱害のため、諸国の神社に祈らせ、恩赦を行う。
  12―27   伊予など11か国に命じて、これまで例進されてきた地子塩のうち剰余分を春米に改め、また例進外の地子稲も加え、都合210斛の地子米を貢納させるようにする〔政事要略〕。


914(延喜14・甲戌) 
  8―8   伊予国などの国造田を返進させその地子稲を正税に繰入れることとする。また地子交易の絹・綿・調布などの価格を定める〔政事要略〕。
  8―15   諸国から納める地子の雑物を定める。伊予国からは油3石・絹14疋・米210石を納めさせる〔政事要略〕。


927(延長5・丁亥) 
  12―26   『延喜式』完成、伊予国の式内社・牧・郡郷名・調庸以下の貢進物の品目と数量・出挙本稲・禄物価法・運漕功賃・駅家などについての記載がある〔紀略〕。


931(承平1 4.26・卯辛) 
  2―15   伊予国の損戸について奏する〔公記抄〕。
  3―20   摂政藤原忠平、伊予守留京宣旨のことを伝える〔公記抄〕。
  4―3   伊予国の調丁について審議がある〔公記抄〕。
  7―10   宇多法皇、御室の御物を仁和寺宝蔵に納める。


932(承平2・壬辰) 
  4―28   藤原忠平に追捕海賊使を定めさせる〔公記抄〕。


933(承平3・癸巳) 
  12―17   南海道諸国の海賊がいまだ追捕されないので、国々の警固使を定め派遣する〔扶桑略記〕。


934(承平4・甲午) 
  5―9   山陽・南海道10か国の諸社に奉幣使を送って、海賊の平定を祈願させる〔紀略〕。
  10―22   追捕海賊使を定める〔紀略〕。
  この冬   海賊、喜多郡の不動穀3,000余石を掠奪する〔扶桑略記〕。


935(承平5・乙未) 
  2―    平将門、伯父国香を殺す(承平・天慶の内乱始まる)。
  6―28   山陽・南海道の諸名神に奉幣使を送って、海賊の平定を祈る〔紀略〕。
  この頃   紀貫之、『土佐日記』を著す。
  この頃   源順、『倭名類聚抄』を著す。伊予国の本田面積は1万3,501町4段6歩とみえる。


936(承平6・丙申) 
  3―    前伊予掾藤原純友、党をむすんで伊予国にむかい、その途中河尻(摂津国)を侵掠する〔吏部王記〕。
  5―26   追捕南海道使従五位上紀淑人、伊予守となる〔古今和歌集目録〕。
  6―    南海道の海賊(藤原純友を首魁とし、伊予国日振島に屯集したともいう)、船千余艘をもって海上で略奪行為を行ったので、紀淑人が追捕にあたり、小野氏彦ら2,500余名がこの時までに投降する〔紀略・扶桑略記〕。
  8―10   皇太后藤原穏子、山城国醍醐寺に伊予国の封戸25戸を施入する〔醍醐寺要書〕。
  この年   純友、海賊追捕の宣旨を受ける〔本朝世紀〕。