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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

四 防空と空襲

 防空体制と訓練の実施

 第一次世界大戦に登場した航空機は、その後驚異的な進歩発展を遂げて戦闘の花形に躍り出た。これにより、戦線は著しく拡大して有事の際に備えての防空体制が必要となり、我が国でも昭和六年(一九三一)の満州事変前後から防空演習が開始された。
 愛媛県では、昭和六年八月一六日に西宇和郡八幡浜町で実施されたのが防空演習の最初であり、軍の指導の下に統監部・演習司令部を置き、活動部として防空監視・警備・救護・灯火管制・通信・消防・情報・食糧・仮設の各隊を設けた本格的な演習であった。次いで、同年九月三日には松山市の在郷軍人会・青年訓練所生・青年団・少年団・女子青年団などで松山防空自警団を組織し防空演習を実施した。同九年七月二〇・二一日第11師団と呉鎮守府連合で愛媛・高知の両県全域にわたる防空演習が行われ、同一一年九月一四日からの二日間四国四県の大演習が実施されるなど、防空演習は軍民あげて大規模化していった。当時の「海南新聞」は、「防げ敵機の魔弾・断じて守れ我らの国土、防空演習愈よ火蓋切る」、「吼えるサイレンに一糸乱れぬ燈火管制」、「毒ガスだ、焼夷弾だ、敢然応ずる皇民戦線」、「各地全能力を発揮し総動員の防護陣・壮烈防空演習終る」の見出しで、演習の模様を報じている。
 このように各地で実施されていた防空演習は、軍と官民の申し合わせによって随時行われていたもので、法的根拠はなく演習内容も区々に分かれて統制力を欠いていた。そこで政府は、昭和一二年四月二日に「防空法」を制定して、防空に関する一定の計画を立て、これに基づいて平素から統制のある訓練を実施し、必要な設備資材の整備とこれに要する費用の負担を明確にするとともに、国民に対して防空活動の義務を課した。「防空法」は、日中戦争の勃発によって同年一〇月一日から繰り上げ施行され、「防空法施行令」「官庁防空令」「防空委員会令」など一連の防空関係法令も定められた。防空演習の用語は防空訓練と改称されて、防空体制の基礎が確立した。
 「防空法」の施行に伴い、本県は一一月九日知事を長とする防空委員会を結成し、一二日にこの年の防空計画実施案を作成した。同実施案は、本県の防空を宇和と松山の二地区に分け、防空監視の指揮は知事・警察署長、防空警報伝達の指揮は前記二者と市町村長がそれぞれ担任し、灯火管制・消防・避難救護の指揮監督は警察署長が行うなどの指揮系統を定め、防空監視・防空通信・警報・防護などについて詳細に規定して、市町村長・警察署長に地域防空計画の設定を指令した。一二月七日には県庁に防空部が特設され、指令・監視系統の本部ができた(資近代4二七五~二八三)。
 明治以来長い歴史と伝統を有する消防組は、昭和一四年一月の「警防団令」で、防空・水火消防その他の警防に従事する警防団に衣替えした。本県は、三月に「警防団令施行規則」を定め、四月一日に松山警防団ほか二六四警防団の設置を告示した(資近代4四九三~五〇七)。また「防護団規則」を制定して、工場・事務所・会社・病院・興行場・学校などに空襲または水火その他の災害に対する自衛のための防護団設置を命じた。同一五年一〇月三〇日には防空協会愛媛支部が結成され、支部長に知事・副支部長に警察部長、地方幹事に各警察署長が就任して防空体制の一層の徹底を図った。「防空法」により県下には二二か所の監視哨が置かれたが、同一五年八月一日の軍管区設定(四国四県は西部防空管区に所属)で、監視隊本部が県庁県会議事堂内と宇和島警察署に置かれ、監視哨を二五か所に増設して、青年学校生が防空監視に当たった。同一六年一一月には「防空法」が改正されて、住民による応急防火義務や建物疎開などを規定して実戦的色彩の濃いものになり、このころから県下各地で家庭婦人を動員しての防空訓練が度々実施された。
 昭和一七年(一九四二)四月一八日、東京が米軍機によって爆撃された。この本土初空襲は、防空関係者だけでなく県民にも空襲が現実になったことを悟らせた。県警察部では、「防空訓練指導要綱」を作成して全警察官及び防空従事者に配布し、八月には「県民防空必携」を県下全域に配って実戦的防空訓練の反復実行を促した。同一八年三月には愛媛県防空学校設立が決定して、警察官・市町村吏員・警防団員・防空監視隊員・防護団員・学校教職員・町内会・隣組幹部などに防空の基礎的知識技能を修得させる教育を施すことにした。防空学校は同一九年八月に松山市築山町に竣工し、開校式を兼ねた第一回入学式が行われた。このころ防空体制は緊迫した決戦的防空対策に移行、警防団の強化が図られ女子も団員に採用されて訓練の反復実施に懸命の努力が払われた。また人命保護の立場から防空退避施設の指定や防空壕掘りが行われ、県庁構内にも三か所に防空壕を設けた。
 昭和二〇年一月末の西宇和郡山中に爆弾投下以来、愛媛県も空襲必至の情勢になった。県防空本部では、県内主要市の建物疎開について検討を重ねていたが、同年四月に松山・新居浜の両市を第一疎開地域に指定した。疎開の重点は、防災を要する周密地帯、工場など重要施設周辺、大型貯水池・退避所・防空道路造成のための空地疎開におかれた。四月六日から新居浜市の住友関係工場及び国鉄周辺の建物疎開が、警防団・防護団・学徒の勤労奉仕で実施された。五月一一日からは松山市の花園町を南堀端までの避難・防空道路とするため建物疎開を開始して、警防団・学徒などの勤労報国隊のほか県下の大工・左官が動員された。同年五月末には第二次疎開地域に宇和島市が指定された。愛媛県には大都市からの戦災罹災者が疎開し始めていたが、同年四月末から主要市が次々と被爆するようになると、市街地住民の物資及び非戦闘員の疎開が必要となった。県は、市街地周辺の町村長に指示して疎開の受け入れ態勢確保を求め、七月松山・今治・宇和島・新居浜の各市に居住する老幼婦女に対し縁故疎開するよう勧めた。

 愛媛県下の空襲

 昭和一九年(一九四四)七月のサイパン島陥落を機に、グラマン戦闘機やボーイングB29など米軍機による日本本土爆撃が激化し、それは東京・大阪などの大都市のみならず、松山・今治・宇和島など愛媛県下の地方都市にも及んだ。米軍の飛行機が松山上空に現れたという記録は昭和一八年三月が最初であるが(昭和五七年八月八日付「愛媛新聞」「昭和二〇年の愛媛Ⅵ」)、同二〇年一月三一日には、西宇和郡宮内村(現保内町)の山中に、県内では初めての爆弾がB29爆撃機より投下された。その後も、阪神・中国・北九州に向かう米軍機が豊後水道を北上することが多く、本県には、その度ごとに警戒警報や空襲警報が発令された。
 昭和二〇年三月九日の東京大空襲、同月一四日の大阪空襲の後、一八日には九州南方海上から飛来した米軍機が、松山市にも本格的な爆撃を加えた。しかし空襲被害の正確な情報は、県民には知らされず、翌々日の「愛媛新聞」は「敵機大挙来襲・本県で激戦」の見出しで、大本営発表情報や撃墜されて伊予郡佐礼谷村(現中山町)に落ちたグラマンの残骸写真に「醜翼この通り地獄行」の説明をつけてその一部を報道した。同月二六日、沖縄戦が始まると、米艦載機は日本本土の航空基地をねらって爆撃を行い、二八日から二九日にかけて延べ五〇〇機が四国・九州を波状攻撃した。この時も約二〇機が高知や松山付近に銃撃を加えたが、新聞は銃撃事実のみを報道した。
 一般に、空襲は、軍隊・軍事施設・艦船・航空機及び戦闘的物資集積地などに加えられる戦術的空襲と、軍事力の根底をなす生産活動や国民生活を破壊するための戦略的空襲とに分けられる。サイパン島を制した米軍は、以後マリアナ群島を基地にして、北九州の製鉄所・名古屋付近の航空機工場地帯・東京近郊の軍需産業地帯に空襲をかけ、目ぼしい施設の攻撃が終わると、戦略的空襲に移り地方都市までが無差別爆撃にさらされるようになった。この爆撃には、主として焼夷弾(油脂や黄燐など燃焼力の強い薬剤を入れた爆弾)が用いられ、多くは夜間に攻撃された。国民は八千メートル上空に飛来するB29に対してほとんどなす術がなく、防空頭巾をかぶって防空壕に退避したり安全な場所へ逃げ、また一部の人々は警防団とともに消火活動を行った。
 表4―40に県下の空襲概況をまとめたが、このように頻繁に空襲に見舞われた理由としては、松山に航空隊基地があったことのほか、他の都市でも重工業もしくは軍需品生産が行われていたこと、また本県が米軍の本土爆撃の主要航路である豊後水道に面していたことがあげられる。空襲被害の実数は情報源によって異なるが、戦後、経済安定本部が出した「太平洋戦争によるわが国の被害総合報告書」では、県下の空襲による死者一、三四六名・重軽傷者一、五〇九名・罹災者約一二万三千名・家屋被害二万八、三七二戸(全焼二万七、一四一戸・全壊三三二戸・半焼二五六戸・半壊六四三戸)となっている。
 空襲に際しては爆弾や焼夷弾投下・銃撃(機銃掃射)のほかに二〇〇~三〇〇メートルの低空から「伝単」(宣伝ビラ)が散布された。宣伝ビラには、前もって空襲の日時や場所を予告し一般市民に安全な場所へ退避することを促したものや、日本軍部指導者の非難・沖縄陥落やポツダム宣言などのニュースを通して日本国民の間に厭戦や反戦気分を高めようとするものがあった。大本営発表の戦勝ニュースしか知ることのできなかった県民は、これらの宣伝ビラの内容に動揺したが、政府は昭和二〇年三月に「敵ノ文書図画等ノ届出等ニ関スル件」を通牒し、宣伝ビラを発見・拾得・収受した者は警察官吏に届出ることを義務づけ、散布されたビラは警防団員によって回収、焼却されるようになった。また宣伝ビラに基づいた言動は、流言飛語として厳重な取り締まりが行われた(『愛媛県警察史 第二巻)。しかし、無差別爆撃にさらされた都市民は米国の宣伝ビラに即応して避難することが多く、「昭和20年の愛媛―いま語る埋もれた事実」(「愛媛新聞」昭和五六・八・一〇付)には、「松山空襲の十日ほど前に予告ビラが空からまかれて、空襲があると思って逃げた人が多かった」と記載されている。

 松山空襲

 現在松山市北吉田の帝人松山工場や大阪曹達松山工場がある一帯には、昭和一八年に松山海軍航空隊が置かれ、甲種飛行予科練習生(予科練)の養成が行われていた。昭和二〇年五月四日午前八時一〇分、B29八機が高度約四千メートルからこの航空隊基地に爆弾三〇余発を投下し、同二五分にも別のB29九機が爆弾四〇余発を投下した。直撃弾は隊内の烹炊所・松根油製造所・兵舎の一部に命中、ここにいた人は即死し、慌てて防空壕へ飛び込んだ人も多かったが、海岸に面する砂地に掘られた壕は爆震で崩れ、その多くは窒息死した。
 この空襲で予科練生や軍関係者六九名が死亡し、一六九名が負傷、また航空隊周辺の民家も爆撃されて民間人七名が死亡した。死亡した予科練生のうち六名は本県出身者であったが、他は山形・福井・岐阜・愛知・大阪・広島・佐賀など、ほとんど全国から集まった一五~一九歳の若者であった。この松山航空隊の惨事については当時は詳報されず、B29が松山市を二度にわたり盲爆し、軍事施設をねらって投弾、「被害は僅少で附近の一部民家や田畑が盲爆されたが、軍官民一丸の防空活動はめざましく、三度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は弥が上にも昻まり、『この仇はきっと討つぞ』と微塵の動揺も見せなかった」(「愛媛新聞」昭和二〇・七・五付)と報じられ、その事実が解明されたのは、昭和五一年二月であった(「もう一つの空襲」上・下「愛媛新聞」昭和五一・二・二四~二五付)。
 昭和二〇年七月二六日午後一一時五分ごろから約二時間半、松山市はB29約六〇機によって無差別爆撃を受けた。これが松山空襲と称されるもので「紅蓮の炎に包まれ、松山の町が燃える。火の海の中に白亜の天守閣が赤く映え、逃げまどう人びとの頭上に容赦なく火を噴く焼い弾と小型爆弾が雨あられと降って来る」(「松山空襲の夜」「夕刊えひめ」昭和六〇・七・三〇付)と当時を回顧する人も多い。
 松山警察署では、午後一〇時二三分の警戒警報発令と同時に、市内の九防空小区(番町・東雲・道後・清水・素鵞・味酒・新玉・雄郡・八坂の各校区ごとに設置)に警察官や警防団員合わせて約三○名を配置した。しかし、松山上空に現れたB29の編隊は、城北地区に第一波攻撃を加え、以後城南・城東・城西地区と松山城を取り巻くように五○キログラム及び六ポンド油脂焼夷弾を無数に投下、市街は瞬く間に炎に包まれた。日本軍の邀撃機も対空砲火もない中で、婦女子まで動員して続けられてきた防空演習は、すさまじい焼夷弾投下に対してひとたまりもなかった。人々は家を捨て焼け落ちてくる建物を避けながら郊外へ避難したが、訓練時に走った避難道路でも油脂が燃えており、市街地は逃げ惑う人々で大混乱した。この空襲によって松山市の中心部はほとんど灰燼に帰し、その被害は、罹災戸数一万四、三〇〇戸(松山市全戸数の五五%)、罹災者数六万二、二〇〇人(全人口の五三%)、死者二五一人、行方不明八人に及び、負傷者は数えきれなかった(『松山市戦災復興誌』)。「昭和二〇年中松山市事務報告書」(『松山市史料集第一二巻」所収)によると、昭和二〇年中の罹災戸数一万三、六八八戸、罹災者数六万七、一一八人(内死亡者三八五人)となっている。市当局は、こうした人々に対して戦災給与金・死亡弔慰金・戦災時応急救護費などを給与するとともに、爆弾による田畑被害に対しても、地主に復旧奨励金を支給した。
 なお、木造の建築物がほとんど焼失したが、鉄筋コンクリート造りの県庁・松山地方裁判所・県立図書館・日本銀行松山支店などは幸いにも焼け残り、その後の復興事業の進ちょくに役立った。

 今治空襲

 今治市は綿織物業を中心とする地方都市であったが、戦局の悪化に伴い、市内の綿布やタオル製造用の織機も軍用資材として徴用され、生産は後退していた。市内の三大紡績工場といわれた東洋紡第一工場・同第二工場・倉敷紡績今治工場は軍需工場化し、東洋紡第一・同第二工場は統合され今治航空工場と改称して、軍用機の翼を製造していた。また市内の鉄工所も単独経営ではあったが、陸海軍や新居浜市の住友機械工業㈱の下請けをしたり、船の小型内燃機関や発動機の製作を行っていた。今治高等女学校には陸軍被服廠今治出張所が置かれ、同校の三・四年生がそこで働き、今治精華高等女学校生も同様に学校内の工場で被服の縫製に従事していた(「今治の空襲」『日本の空襲七』所収)。市の内外に対空施設をもたない今治市は、三度にわたって空襲を受け、市域の七五%を焦土化するとともに多くの犠牲者を出し、その数は死者五五一人、重傷者一八八人、全焼した家屋八、一九九戸、罹災者三万四、二〇○人にのぼった(「新今治市誌」)。
 初回の空襲は昭和二〇年四月二六日午前九時ころに始まった。これが県下への本格的な爆撃の最初であった。今治上空に現れたB29の編隊はゆっくり北上して、一度同市上空を通過した後、急旋回して、日吉地区や市の中心部を波状的に爆撃した。校舎の西半分が爆弾で吹き飛ばされた今治明徳高等女学校では、学校創設者の校長玉井高助はじめ、職員、生徒九名が死亡した。二階の教室がそのまま階下へ崩れ落ち、一瞬のうちに学校は修羅場と化し、崩れた校舎の下から這い出た者も近くの麦畑に身を伏せ、「少しでも動いて見つかったら爆弾に直撃されると思い、爆音の遠ざかるのを息を殺してじっと待っていた」(「続女が語り継ぐ戦争」「朝日新聞」昭和六〇・八・三付愛媛版)。この時、今治郵便局では電話交換の職場を守ろうとした職員一〇名が殉職、防空活動中の警防団五名・軍属一名も殉職した。『慟哭の伊予灘』には「私は学校の授業中で、突然、空襲警報が鳴り出しました。私たちは教室の外へ逃げることも、防空壕に入ることもできず、机の下で小さくなって震えていました。(中略)私は机の下で震えながら、『また落ちてくる。ひょっとして、今度は自分のところへ……』という恐怖心と、『ああ、自分のところではなかった』という一時の安心感を、交互に味わうという、緊張の連続でありました」(「教室から見た骨の山」)と、一市民が国民学校五年生当時を回顧した体験記がある。
 同年五月八日早朝、二回目の空襲があり、今治駅周辺が前後八回にわたって波状攻撃を受け、死者二九人、重傷者四人、家屋損壊一四〇戸の被害をみた。爆死者の中には、近くの姫坂山に避難途中に直撃弾を受けて死亡した今治高等女学校生一一人も含まれていた。牛飼い当番のために早朝登校していた女学生や汽車通学生・寮生などであった。投下された爆弾の中には四月末の空襲と同様時限爆弾もあり、救助活動を遅らせると同時に、いつ爆発するか判らない爆弾を前にして市民は不安におののいていた。しかし、五月一四日に今治市長・同警察署長・同憲兵分駐所長連名で通達を出し、これくらいのことで悲鳴をあげたり、びくびくして浮き腰になるようなことでは、「皇国三千年の国体を護持することが出来ないのみならず、尊き殉職の英霊に対し洵に申訳無いことではないでせうか」と、「無暗に疎開」する人や人心を惑わす言動を抑止するとともに、「神州は不滅であり皇軍は神兵である」との気持ちで、郷土を守り抜くよう訴えた。
 八月五日午後一一時五〇分から翌六日にかけての空襲では、直径一〇センチ、長さ七〇~八〇センチの油脂焼夷弾が無数に投下され、県立今治工業学校内だけでも約六〇〇発、県立今治高等女学校にも約五〇〇発が落とされた。市内は火の海となり市役所・市公会堂・越智地方事務所・区裁判所・税務署などの官公庁はじめ、工場・銀行・学校・寺院のほか多くの民間家屋が焼失した。熱風が渦を巻く中、人々は蒼社川の橋の下や波止浜方面へ避難したが、勤労動員で同市大新田の倉敷紡績今治工場に来ていた松山市の城北高等女学校生や松山高等女学校生のうち、二四人が避難の途中に焼夷弾などの直撃を受けて死亡した。この夜、四五四人が空襲の犠牲となった。
 なお、今治市から東方約四〇キロメートルに位置する工都新居浜市には住友系の電力・金属・化学・鉱山などの各企業があったが、空襲被害は松山、今治、宇和島に比べると軽微であった。その理由の一つには、大戦末期、同市に新居浜俘虜収容所(広島俘虜収容所第二分所)が開設され、連合軍俘虜(終戦時オランダ人四〇一人・オーストラリア人二四二人・アルメニア人一人、計六四四人がいた―「新居浜俘虜収容所」『昭和戦史の四国』所収)が住友鉱山関係の市内事業所や鉄道関係の荷役及び保線作業に従事していたからであるともいわれている。

 宇和島空襲

 宇和島市には主たる軍事施設がなかったが、戦局が悪化した昭和一九年(一九四四)三月には、松山海軍航空隊宇和島分遣隊が同市の敷島紡績跡に置かれ、最盛期には予科練生・通信兵など約四千人が訓練を受けて戦地に送られていた。また市内富沢町(現御徒町)の日本蚕糸㈱鶴島工場では勤労奉仕の女子挺身隊が働き、鶴島高等女学校もなかば軍需工場化して、女生徒が軍属の縫製品生産に当たっていた。
 昭和二〇年五月一〇日午前九時、同市朝日町・須賀通り・寿町一帯が、B29一機による空襲を受けた。豊後水道に面する宇和島市では、本土空襲に向かう米軍機の編隊が上空を通過するたびに空襲警報のサイレンが鳴らされ、市民は灯火管制下の真っ暗な中で息をこらし、警報の間隙をぬって食事の準備などをしていたが、それが日常茶飯事になると、防空や避難に対し安易な考え方をもつ人々もいた。このため、五月一〇日の空襲(一〇〇キログラム~二五〇キログラム爆弾一八個投下)では、逃げ遅れた人々のうち一〇七人が死亡、重軽傷者七五人、行方不明者二人を出すという惨事を招いた。九死に一生を得た人々の中には、押し潰された家の壁や家財道具の間で数時間の恐怖に耐えた人もおり、多くの負傷者が市立病院に運ばれた。家屋被害も甚大で、全壊九九戸・半壊七七戸・小破三七六戸・火災一戸であった。
 「宇和島市内五月十日戦災ニ関スル状況及ビ対策概況」(「宇和島市誌」所収)によると、この空襲に際し、市当局は同日午前九時半、「朝日町二丁目付近ニ爆弾投下 被害僅少ナリ 目下救護中 市民ハ安心シテ次ノ防空ニ敢闘セヨ」との市長布告が出され、更に「敵機去ル 被害現場モ落付ク 市民ハ各々ソノ職場ニ敢闘セヨ」との布告を出して混乱の収拾を図るとともに、被害地の視察や罹災者の慰問に努めた。また翌一一日には、同市助役が市長代理として県立宇和島工業学校に仮設された死体収容所へ弔問に赴き、その後、和霊神社参籠堂に収容された罹災避難者を見舞った。なお、五月一〇日午前一〇時に災害対策本部が市役所内に設けられたが、その対策実施分担は次のようになっていた。

  一、被害状況調査(厚生課) 一、重傷者処置(厚生課) 一、死体処理(兵事課・戸籍課・学務課) 
  一、炊出し処理(経済課・大日本婦人会支部)
  一、罹災者調査及び収容(財務課)
  一、復旧工作(土木課・水道課)
  一、現地慰問並びに本部付(庶務課)
  一、会計(財務課)
  一、義援物件配給(厚生課)
  一、被害状況詳細調査(振興課)
  一、応援(市会警防部)

 宇和島市は表4―41のように九回の空襲を受けたが、なかでも昭和二〇年七月一三日と同二九日の焼夷弾爆撃により、市街の約七割を焼失し、城下町宇和島は焦土と化した。一三日夜、いつものように防空頭巾や貯金通帳などの貴重品を入れた非常袋を枕元に揃えて寝床に入った人々は、空襲警報のサイレンや警防団員の退避を知らせる声で目を覚まし、大急ぎで防空壕に逃げ込んだ。爆音が接近するのにつれ、壕が吹き飛ばされるのではないかとの不安から、もっと安全な所を求めて攻撃の隙をみて郊外へ逃げる人もいた。シャツ一枚で素足のままで逃げる人、誰かの名前を呼びながら半泣きで走って行く人、宇和島はまるで生き地獄と化し、命の瀬戸際に立たされた市民は運を天に任せて自分の運命と対決した(「雨の中の母子の迷走」『慟哭の中の伊予灘』所収)。
 以上、宇和島・今治・松山の空襲を中心にしてその概略を記したが、本県の都市のみならず我が国の多くの都市が焦土と化した。八月六日には広島へ、同九日には長崎にそれぞれ原子爆弾が投下され、国民生活が破局に瀕する中、昭和二〇年八月一五日、我が国はポツダム宣言を受諾し、終戦を迎えた。
 なお、空襲罹災者に対しては、昭和一七年四月施行の「戦時災害保護法」に基づき給与金交付・生活扶助・応急救助などが行われたが、猛襲が続いた戦争末期にはその事務が停滞することが多かった。同法は、戦後、生活困窮者を保護するための「生活保護法」施行と同時に廃止された。また、戦災を受けた都市の復興については、昭和二一年九月施行の「特別都市計画法」や同二四年六月に閣議決定した「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」に基づいて、その事業が開始された。

表4-40 県下の空襲一覧(昭和20年1月~同8月)

表4-40 県下の空襲一覧(昭和20年1月~同8月)


表4-41 宇和島市の戦災状況(昭和20年)

表4-41 宇和島市の戦災状況(昭和20年)