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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

四 四国防衛軍の編成

 内地防衛の新兵備計画

 サイパン島陥落以降、本土の防衛強化が真剣に考えられ始めたが、フィリッピン作戦に国軍の全力を傾注したことや、本土の持つ特殊性、例えば国民の権利義務、食糧生産と大兵力の動員集結など幾多の困難な問題を抱え、その進行ははかばかしくなかった。更にその作戦において海軍空軍の精鋭を失い、上陸軍を迎撃するこれら戦力は数量・訓練度ともに低下して、本土防衛は寒心すべき状態にあった。
 このため大本営陸海軍両当局は昭和二〇年頭初から新作戦方針の協議を重ね、同年初秋までに本土における陸海軍各種部隊の大動員と、大陸方面からの兵力・軍需品の転用とを決意した。陸海軍折衝の末「帝国陸海軍作戦計画大綱」が策定せられ、一月一九日上奏、翌二〇日決定の運びとなった。陸海軍が一貫共通の作戦計画を策定したのは実にこれが最初であった。
 大本営陸軍部は前述の新作戦計画の研究に併行して、二月上・中旬の間に先ず応急兵備を実施した。この時、本州・四国・九州においては、東部・中部・西部軍司令部を廃し、新たに作戦に専任するための五個の方面軍司令部と、別に五個の軍管区司令部とを併設した。軍管区は各方面軍の作戦区域と一致して設定され、その司令官は軍事行政に関しては陸軍大臣の区処を、また作戦に関しては方面軍司令官の指揮を受ける建て前であったが、実際には方面軍司令官は軍管区司令官を兼任し、実質上二位一体となっていた。
 各軍管区司令部の下には師管区司令部、更に地区司令部(府県単位)があり、軍官民一致して作戦軍に協力し、管内の治安警備に任じる組織造りが開始された。この時四国は、

  第15方面軍〈大阪〉(中国・四国の防衛担当)…大将・河辺正三
  中部軍管区〈大阪〉軍管区司令官…大将・河辺正三 

の隷下に入ることになった。

 〈第一次兵備と兵力転用〉

 二月二八日、大本営は第一次動員として一八個の沿岸配備師団(内朝鮮二個)と一個の独立混成旅団の大動員を発令した。この時の新動員師団には100番代の師団番号が与えられたが、その完結には二か月以上を要する見通しであった。
 一方この動員に併行して大陸からの兵力転用も開始された。東満国境の警備に任じていた第11師団(兵団符号「錦」)は、四月一日に郷土四国への移駐が発令された。七年間警備になじんだ駐屯地を後にした師団は、同月一三日から逐次釜山を出港し、梯団毎にそれぞれ西舞鶴・博多・敦賀に上陸し、四月末には高知平野に集結した。

 〈第二次兵備と新統帥組織〉

 三月に入って硫黄島守備隊が玉砕するなどの相次ぐ戦局の急迫に、大本営は本土の統帥組織を臨戦化するとともに、本土決戦態勢の強化を焦眉の急と判断した。ここにおいて第1・第2総軍司令部及び航空総軍司令部を新設するとともに、第二次兵備計画の七個の軍司令部と八個の決戦師団・六個の独立戦車旅団の動員を発令した。これら師団には200番代の師団番号が与えられた。このとき四国は、

  第2総軍〈広島〉(司令官・元帥畑俊六)―第15方面軍〈大阪〉(司令官・中将内山英太郎)―第55軍〈高知〉(司令官・中将原田熊吉―防衛師(独立混成旅)団

という指揮系列の下に郷土防衛師団が配備されることになった。


 〈第三次兵備の繰り上げ実施〉

 同年五月初頭、沖縄における第32軍の攻勢(歩兵第22連隊中突進隊の項参照)が失敗に帰し、同島保持の可能性は危ぶまれる事態となっていた。連合軍の九州来攻の懸念は現実の問題となり、そのため九州・四国方面の作戦準備は更に優先する措置が取られた。五月下旬、第三次兵備計画が繰り上げ実施され、二個の軍司令部と一九個の沿岸配備師団及び一五個の独立混成旅団の大動員が三度発令された。この時の動員師団には300番代の師団番号が与えられた。
 第55軍の隷下には四個師団と一個独立混成旅団が配置され、高知市を中心に四国の防衛に就いた。しかし相次ぐ動員で本土の在郷軍人はその大部が召集され、その不足を補うために多くの未教育兵や老兵が召集された。更に装備についても歩兵全員に小銃や鉄帽が行き渡らず、竹製の銃剣や水筒などが支給されるという部隊もあった。
 四国軍管区の隷下には第55師団各連隊の補充隊、四県の連隊区司令部、善通寺・徳島・高知の陸軍病院などがあり、各県の行政組織と連繋して作戦軍の戦力を維持培養に努めた。(松山陸軍病院は昭和一八年、西部軍直轄となっていた。)
 四国軍管区司令部の要請により、愛媛・高知両県は四国中央部を南北に貫く予土連絡道路(現国道一九四号)に大量の民間人・学徒を動員し工事を急いだが、終戦により完成を見ずこの工事は停止した。
 第55軍隷下各師団・独立混成旅団の戦闘部隊の内容は表4―32の通りであった。
 第55軍は南四国の水際を含む沿岸地域で決戦を行うこととし、内陸における持久作戦は一切考えなかった。連合軍の上陸の公算の最も多い高知平野物部川から須崎にかけて第11師団を、中村を含む高知県西部に第344師団、安芸を含む高知県東部に第155師団を、また徳島県東南部には初め歩兵第450連隊(155師団隷下)、後に独立混成第121旅団を加え、いずれも水際に配備した。また高知東方の後免北方高地には上陸点に攻勢を敢行する打撃師団として第205師団を配置した。この中、第344師団の歩兵第352連隊(長・大佐中島美光)は連隊本部を本県八幡浜市(当時の松蔭国民学校)に置き、第1大隊を八幡浜・三瓶地区に、第2大隊及び野砲一個中隊を宇和島・吉田・法花津・岩松地区に配備した。また第3大隊は師団予備隊となり、高知県境に近い松野町吉野に駐留した。この連隊は編成時に拝受した軍旗を、終戦とともに八幡浜市愛宕山(現あたご保育園)に於て奉焼し解散した。
 松山には戦車第45連隊(第55軍直轄)が配備される予定で、陸軍補充隊及び所在海軍部隊と共に対空挺作戦を準備する計画があった。
 海岸は呉鎮守府司令長官が四国及び豊後水道の防衛を担当したが、海軍重砲の一部は陸軍水際師団に配属された。また太平洋岸には連合艦隊直轄の第10特攻戦隊が展開した。その隷下の第102突撃隊(司令・大佐殿塚謹三)は、県下城辺町深浦に特殊潜航艇「蛟竜」(六隻編制の中、四隻が就役)を配置し、特攻出撃の訓練を繰り返した。
 海軍航空隊は四国各地の基地(県下では松山・西条)に四〇〇機余(機種不詳)の特攻機を分散配備し、主として夜間訓練を行って特攻々撃を準備した。
 第一線陣地の強度は、爆撃及び艦砲射撃に耐えるよう洞窟陣地とすることを目標として進められた。その第一期の五月末には、主要陣地の重火器は中掩蔽部、軽火器及び歩兵は野戦陣地の完成が指示されていたが、作業に習熟しない兵士が多く、予定通り進捗しない箇所も多かった。

 本土決戦国内態勢の整備

 明治以降、外征の経験しかない我が国は、本土を決戦場とするこの作戦計画について幾多の困難に出会った。その問題点は、統帥行為と行政の分界、第一線と銃後の区分、戦闘行為と国民生活の関係、戦力培養と生産増強の関連などである。従って本土決戦を準備するためには、軍も政府も国民も共にこの決戦の意義を理解し、それにふさわしい態勢と環境とを整備する必要に迫られた。この要請に対処するため、「軍事特別措置法」「義勇兵役法」「戦時緊急措置法」が次々と生まれ、更に「地方総監府」の設置を見るに至った。
 これより先、昭和一八年(一九四三)に「地方行政協議会令」が施行され、地方における各般の行政の総合連絡調整機関としての機能を果たしていたが、同二〇年一月には総合連絡調整から一歩前進し、統一及び推進機関に強化改正された。四月には善通寺に四国軍管区司令部が設けられたので、それまで松山市に位置していた四国地方行政協議会は該司令部との連絡を密にするため高松市に移転した。
 「軍事特別措置法」は、軍の決戦準備が具体的に進められるに従い、陣地構築などに関する軍事上の要求と国民の権利との調整を図る目的の法案であった。従来の法律の範囲内では、如何に作戦の要請があっても民有地に工事の手を加えることは一切できないことになるのであるが、当時実際には民間の協力によりこれら作業が進められていた。このため速やかな法的根拠の設定が強く要望されていたものであった。本法はこの目的を達成するため、政府は必要あるときは、土地・建物・物件の管理収用、建物その他の工作物の移転・除却についての指示、帝国臣民に所要の業務を命じ、法人・団体に協力させるなどの措置ができることが規定されていた。本法案は三月一九日、閣議において決定され、五月五日から施行された。当初本法は勅令で定められた区域に限って適用されたが、その後戦局の推移に伴い六月二三日からは全国的に適用されることになった。
 「義勇兵役法」は、初め防衛と生産の一体的飛躍強化を目的とした国民義勇隊が組織されていた。戦局の苛烈化に伴いこの組織は根底からその性格を一新し、全国民が武器を取って決起する趣旨の義勇兵役法国民義勇戦闘隊の編成に発展した。本法案は議会の協賛を経て六月二二日公布された。本法による義勇兵役は、男子は年齢一五年に達する年の一月一日より、年齢六十年に達する年の一二月三一日までの者(勅令をもって定むる者を除く)、女子は年齢一七年に達する年の一月一日より、年齢四〇年に達する年の一二月三一日までの者が服役することになっていた。つづいて国民義勇戦闘隊統率令(軍令)が判定施行され、編成・隷属関係が定められた。
 「戦時緊急措置法」は、国内戦場化という非常事態下の行政を、他の法令の規定にかかわらず迅速に処置するためのもので、これら応機の措置を講じるため、(1)軍需生産の維持及び増強 (2)食糧その他生活必需物資の確保 (3)運輸通信の維持及び増強 (4)防衛の強化及び秩序の維持 (5)税制の適正化 (6)戦災の善後措置 (7)その他戦力の集中発揮に必要なる事項で勅令をもって指定するものの事項に関して必要な命令を発しまたは処分することが出来るというものであった。この法には、政府の損失補償に関する規定及び右の措置中重要なものについては、戦時緊急措置委員会に諮問すべきことを規定するとともに、本法施行の期日は別に勅令によって定められることになっていた。
 このころ、先の地方行政協議会の性格を脱却し、各地方ごとの行政を更に強化するため「地方総監府」が設置された。同府は内務大臣が統理し、総監は地方長官及び各省の地方出先官衙の長を指揮し、陸海軍と緊密な連繋の下に強固な国内態勢を整備確立しようとするものであった。四国地方総監府は高松市に置かれたが、作戦時の軍管区司令官との権限の調整に関しては、研究の段階で終戦を迎えた。

図4-19 四国防衛第55軍配備概要図

図4-19 四国防衛第55軍配備概要図


表4-32 第55軍戦闘兵団編成表

表4-32 第55軍戦闘兵団編成表