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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

七 学校教育の戦時体制

 教育に関する戦時非常措置〈修業年限の短縮〉

 昭和一三年(一九三八)三月に「国家総動員法」が、次いで翌一四年七月に「国民徴用令」が制定されて、国民総動員の実施政策が樹立された。学校に対しては、集団勤労作業という形で、学徒を産業界に動員して、その要員の不足を補う方策がとられた。しかし、それでも所期の目的が達成できないので、諸学校における修業年限を短縮して、その卒業期を早める措置が実施された。
 政府は同一六年八月に「労務緊急対策要綱」を決定し、一一月に大学学部・高等学校・専門学校などの在学年限又は修業年限を六か月短縮することとした。愛媛県では、新居浜工業専門学校・松山高等商業学校・松山高等学校がその適用を受けた。同一八年一月に「大学令」・「高等学校令」が改正され修業年限をそれぞれ一年短縮して二年とした。同日に「中等学校令」の判定によって、中学校・高等女学校・実業学校の修業年限をそれぞれ一年短縮して四年とした。これは、全く戦時要員の補給を急ぐ非常事態に対処するためのものであった。

 〈戦時非常措置方策〉

 太平洋戦争における戦局は、同一九年に至って決定的な段階となった。政府は断固たる決意のもとに、二月に「決戦非常措置要項」を発表し、国民すなわち戦士の覚悟に徹し、総力を直接戦力増強の一点に集中するため、学徒動員態勢の強化を図った。これによると、中等学校以上の学徒は今後一か年勤労その他の非常任務に出動させ得る態勢に置き、学校の校舎も必要に応じて軍需工場とし、あるいは軍用非常倉庫・非常病院・避難住宅などの用途に転用することになった。
 この要項の趣旨にそって、同年三月に「決戦非常措置要項ニ基ク学徒動員実施要項」を決定し、工業学校の生徒を軍関係その他重要工場に、農業学校の生徒を食糧増産・国防建設事業に、中学校・商業学校・高等女学校の生徒を食糧増産・工業事業場に、大学及び高等専門学校の学徒を、それぞれ専攻する学科の特性に関係ある事業場に動員することにした。その実施に当たっては、教職員を中心として編成された学校を基本とする学校報国隊の強化を図るよう指示した。
 なお学徒動員の実施に関連して、「学徒動員実施要項ニ依ル学校種別学徒動員基準ニ関スル件」などの通牒が相次いで発せられた。

 〈戦時教育令の制定〉

 同二〇年一月に、大本営は我が国土の戦場化の危機に対処するため、本土決戦に関する作戦大綱を決定した。それは学徒を国土防衛の一翼とするとともに、真摯生産の中枢とし、食糧生産・軍事生産・防空防衛その他直接決戦に緊急な業務に動員するためであった。国民学校初等科を除き、その他の学校での授業を四月から同二一年三月まで原則として停止することになった。
 次いで五月に決戦時における学校の管理運営上に必要な事項を規定した「戦時教育令」及び「戦時教育令施行規則」が制定された。これによって、学徒に緊要な業務に挺進させるため学徒隊を組織し、地域ごとにその連合体を結成するよう規定された。文部大臣は一定期間に限り、正規の授業の停止を命ずることができた。ここに我が国の学校制度は、文部大臣の命令によって、戦時に即応する態勢に切り換えができるよう法制上の措置が講ぜられた。この時には、既に我が国の学校教育は、全面停止の一歩寸前まで追い込まれていたのであって、「戦時教育令」制定の三か月後に戦争は終結した。

 集団勤労作業と学徒動員
  〈県学徒動員要項と学徒勤労令〉

 昭和一三年(一九三八)以降、学校に在学する学生生徒を、集団的に勤労作業に従事させた。同一八年は前年と同様に、中等学校に均一的な食糧増産奉仕作業を課した。更にこの年には、七月末に県内を襲った集中豪雨による堤防の決壊、田畑の埋没などの甚大な水害の復旧工事に、学徒報国隊は警防団らとともに、大きい労働源となった。
 県は学徒報国隊による勤労作業の重要性にかんがみ、同一九年(一九四四)三月に県内政部内に県勤労報国隊指導本部を置き、運動の強化と統制を図った。ここで「昭和十九年度学徒勤労動員要項」が立案され、文部省の「学校種別学徒勤労動員基準ニ関スル件」を参照して、四月に公表した。この要項によると、工場・事業場方面へ農業校を除く中等学校三年生以上、及び高等学校・専門学校・師範学校学徒を交替制で一年を通じて動員し、二年生以下は農業・青年の両学校生徒とともに、稲刈り・薪炭供出などに動員することとなっていた(資近代4八九一~八九七)。
 このように工場動員が始まると、県は学徒の勤労動員に関する諸規程を学校長あてに伝達し、主食・作業衣の確保に努め、工場動員に万全を期するよう指令した。文部省は学徒の勤労動員に関する基本的な事項を規定するために、同年八月に「学徒勤労令」・「学徒勤労令施行規則」を定めた。これによると、学徒の勤労は教職員と学徒で組織された学徒報国隊によって行われ、勤労即教育たらしめるよう努め、大臣または地方長官より学徒動員を命ぜられた学校長は、学校報国隊による勤労に出動しなければならなかった。
 県の勤労報国隊指導本部では、県下の各学校に対し配置工場を指定して、通年工場動員を命じた。その対象は、県内では住友化学新居浜・同アルミ・住友機械新居浜の各工場、住友鉱山別子鉱業所、住友共電、倉敷紡績今治・同北条・東洋紡績今治・富士紡績壬生川・敷島紡績三瓶・倉敷レーヨン西条・東洋レーヨン松前・酒六八幡浜・同三瓶・東京製鋼川之石の各工場、松山兵器製作所、波止浜と宇和島の各造船所などであった。また県外では大阪陸軍造兵廠枚方・同伏見の二工場、大阪造幣所・呉海軍工廠・住友鋼管尼崎・住友金属尼崎・日本製鋼尼崎の三工場、神戸製鋼、久保田鉄工、尼崎精工、昭和電極広畑・日本内燃機尼崎の二工場、中島飛行機製作所・三菱長崎造船所などであった。なお住友化学と住友機械には、特に大規模学校から大量の動員が行われた(資近代4八八四~八九一)。これに伴い、「愛媛県動員学徒錬成要項」「工場における学徒隊組織運営並に学徒勤労指導確立要綱」などが相次いで通達された(資近代4九〇八~九一五)。

 〈学校工場と勤労動員の終末〉

 県内中等学校学徒は、下級生を残して軍需工場に動員されたが、高等女学校の一部と農業学校は、学校工場と農業作業に従事するため学校にとどまった。学校工場は四月の文部次官通牒「決戦非常措置要項ニ基ク学校工場化実施ニ関スル件」により、校舎・校地・諸設備を特定工場・軍作業の分工場に転用し、生産修理の委託を受けて、当該学校学徒をその作業に動員するものであった。県下では今治・西条・鶴島・八幡浜・川之江・松山技芸・今治精華の各高等女学校が軍需工場化した。その作業は陸軍被服・気球爆弾の製造などであった。
 農業学校では、食糧増産のため労力提供、休閑地荒蕪地開墾・松根油原料採取・土地改良・果樹伐採のほか災害復旧工事、河川架橋工事などに動員された。また工場に動員された学校の残留生も、国防土木工事、吉田浜海軍基地の掩体壕、見奈良・久米の飛行場の整地作業に出動した。
 同二〇年三月になると、工場労働者の不足と、動員学徒五・四年生の卒業に伴い、学園に残っていた中等学校二年生が一斉に県内軍需工場に出動しなければならなかった。この間、アメリカ軍の主要都市の空襲は激しさを増し、工場並びに学徒の宿泊した寄宿寮の焼失が相次ぎ、しかも日夜を問わず空襲を避けて、移勤しなければならなかった。作業も停滞がちで、そのうえ兵器部品の不足から、能率の極めて悪い状況となった。
 勤労動員に出動した学徒のなかには、終戦の直前に犠牲者を出す悲運に遭うものもいた。それは今治市大新田の倉敷紡績の今治工場(兵器の製造をした)に出動した城北・松山の二高女の生徒たちであった。同二〇年八月五日のアメリカのB29の編隊による今治市空襲の節、城北高女生徒二二名、松山高女生徒二名が焼夷弾攻撃で、殉職したことは余にも大きい悲惨な出来事であったといわなければならない。
 終戦を迎えても、県外に動員された学徒のなかには、受け入れ先の工場の不誠意から、戦後の混乱のなかにあって容易に帰省できないものもあった。八月の下旬になり、苦心のすえ満員の列車に乗り込み、焼野原となっていた松山に帰った生徒もあり、戦争の悲惨さを身をもって体験した。