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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 農業の戦時統制と食糧増産運動

 第二次産業組合拡充三か年計画

 深刻な農業恐慌からの脱出を目指して展開された産業組合拡充五か年計画(昭和八~一二年)に続き、昭和一三年(一九三八)より第二次産業組合拡充三か年計画が実施に移された。その計画立案最中の昭和一二年七月、日中戦争が勃発し、政府及び軍部の意図に反して、戦争は長期戦の様相を呈していった。非常時下における国家統制が強化されていく中で、農業の面では、産業組合が、統制のための組織として利用されることになった。一方、産業組合運動自体からも、「重大事局の進行に従ひては其の全国的組織網により金融、生産、消費、配給等各般に亘る国家統制の任務を担当し、戦時体制の運行を円滑にし広義国防の完璧を期し、以て奉公報国の至誠を効する確固たる覚悟を堅持する事を要す」(第二次産業組合拡充三か年計画大旨)として、積極的・意識的に国家統制に協力してゆく姿勢が打ち出された。第一次拡充五か年計画が、農業恐慌下における農村の行詰りを打破しようとする側面が強かったのに対して、第二次拡充三か年計画においては、そのような側面に加え、産業組合の国家統制機関化が進められたことが特徴であった(「産業組合発達史」)。
 昭和一二年四月、名古屋市で開催された第三二回全国産業組合大会において、「第二次産業組合拡充の件」が決議された。これを受けて、第一次拡充計画の成果の上に立った第二次産業組合拡充三か年計画が具体化され、翌一三年一月以降、全国的に実施に移されていった。
 このような中央の動きにそって、県内では、昭和一二年一一月二二日、県公会堂において開かれた第七回県下産業組合長会議において、「日支事変対策に関する件」とともに、「第二次産業組合拡充三か年計画に関する件」が決議され、昭和一三年一月より計画が実践に移されることとなった。これら決議文中には、「国家社会ノ我産業組合ニ対スル信頼ニ応ヘンコト」、「国家的任務ノ遂行ヲ担当シ戦時体制運行ノ円滑」を期すことがうたわれ、同日開かれた第二四回支会通常総会では、国威宣揚武運長久祈願祭が挙行された。また、翌一三年五月一七日、今治市公会堂で開催された第一六回愛媛県産業組合大会では、尽忠報国、人格陶冶、斉家治産、共存同策、八紘一宇の組合員精神綱領が採択され、産業組合の全組織をあげて戦争協力体制が進められていくこととなった。
 第二次産業組合拡充三か年計画における県内拡充目標は、中央会で決定された項目に沿って、表4―11のように具体化された。それは戦時下における国家統制の強化と相まって、順調な成果を示し(表4―12参照)、貯金は目標を軽く上回って二・三倍に達し、国債購入を通して農村資金は軍需産業に流れていった。また、国家統制の進展により、販売事業は二・七倍、購買事業は三倍に急伸し、利用事業も二・二倍に伸張した。こうして、昭和期の産業組合は、産業組合拡充五か年計画、第二次産業組合拡充三か年計画を通して大きな飛躍を遂げた。
 一方、戦時体制が強化される中で、第二次拡充三か年計画以後の産業組合は、農会とともに農業への国家統制推進の中心機関としての役割を強め、その性格を大きく変容させることとなった。このような動きは、やがて昭和一八年の農業会設立による一元的農業統制に結び付いていくものである。

 農業会の成立

 農業諸団体の統合、農業会成立への動きは、戦時体制下における農業統制の一元化、効率化を求めて推し進められた。しかし、そのような動きは、既に昭和農業恐慌下に始まるものであった。すなわち、昭和七年(一九三二)より開始された農山漁村経済更生計画が推進される中で、昭和一〇年一月、諸団体間の連絡協調を目的として、帝国農会、産業組合中央会など七団体により経済更生中央協議会が結成され、同協議会は翌一一年一二月、農林漁業に関する主な中央団体をほとんど網羅した中央農林協議会に発展した。
 その後、日中戦争の勃発及びその長期化の中で、農業団体統合の必要性はますます増大し、農林省、内務省、中央農林協議会など、政府、農業団体双方によって具体的な統合案が模索された。この結果、昭和一六年四月、帝国農会、産業組合中央会など七団体によって中央農業協力会の発足をみた。同協力会は、従来より一歩進めて、農業の総合的発達のための指導統制及び政府の農業政策への協力を目的とするものであった。県内では、昭和一四年一〇月三一目、県農会、愛媛県信用組合連合会(県信連)、愛媛県購買販売組合連合会(県購販連)など一一団体によって愛媛県農山漁村団体同盟が結成された。また、昭和一六年一〇月八日には、中央農業協力会の成立に対応して、県農会、県信連、県購販連など七団体によって愛媛県農業協力会が結成され、農業団体統合を目指す動きが続けられた(「愛媛県信連三十年史」)。
 中央における農業団体統合への動きは、太平洋戦争勃発により一時中断されたが、中央農業協力会による政府への統合推進の働きかけはその後も続けられた。その結果、昭和一七年一一月、農業団体統合法案要綱が閣議決定され、「農業団体法」が、昭和一八年三月、帝国議会を通過成立した。更にこの法律によって、昭和一八年九月二七日、中央農業会が設立され、懸案であった農業団体統合問題に終止符がうたれることとなった。新統合団体である農業会の役割は、国の農業政策に即応して食糧その他重要農産物の生産を維持すること及び農業全般に対する指導統制であった。
 愛媛県農業会の設立に関しては、既に昭和一八年四月以来、県農業協力会を中心に事務的な準備が進められていた(「海南新聞」昭和一八・四・一付ほか)。その後、中央農業会の発足に伴い、昭和一八年一二月一六日、農商務大臣は愛媛県農業会設立委員二二名を任命し、同時に県内受命法人四一団体に解散を命令した。設立委員会は、一二月一八日、県参事会室で開かれ、愛媛県農業会の設立が決定された。次いで一二月二七日、設立総会が県会議事堂において開催された。役員候補者の推薦を一任された相川知事は会長・副会長・理事二四名・監事五名・評議員二一名・顧問二名を指名、総会の推薦を受けた会長候補岡本馬太郎は、同日農商務大臣より会長に任命された。岡本会長より副会長堀本宜實、理事二四名が選任され、顧問には村上半太郎・岡田温が就任した。
 県農業会の発足に続いて市町村農業会の設立が進められた。昭和一九年二月一四日の伊予郡岡田村農業会、二八日の西宇和郡宮内村農業会を初めとして、同年九月ころまでに市町村農業会の設立は終了したと考えられており、昭和二〇年五月末の県農業会数は、市町村農業会二五八、その他一八、合計二七六団体であった。

 食糧増産運動の開始

 戦時下の農政にとって、最大の眼目は戦争遂行のための食糧確保である。日中戦争長期化の様相の中で、政府は、昭和一四年(一九三九)、第一次食糧増産対策に着手し、「重要農林水産物助成規則」(昭和一四年)、「主要食糧等自給強化十年計画」(昭和一六年)などによる食糧増産を進めていった。しかし、戦争による資材や労力不足から、これらの対策は有効なものとなり得ず、昭和一八年からは第二次食糧増産対策、翌一九年から第三次食糧増産対策が策定され、暗渠排水・客土・小用水改良など、農民自身の手によって比較的手軽に実施できるものがその対象とされた。しかし労働力・資材欠乏の下では、これら小規模な土地改良事業には自ら限界があり、十分な効果を収めることはできなかった。
 このような国の政策に呼応して、愛媛県においても種々の食糧増産策が展開された。昭和一四年九月五日、「重要農産物生産計画遂行部落団体活動促進施設奨励規程」(資近代4四一四~四一五)が定められ、この問題に対する県の取り組みが具体的なものとなってきた。この規程は、米・麦・酒精原料甘藷などの重要農産物増産の施設費として県農会より部落実行団体に交付される補助金を、一団体一五円を限度として県が肩代わりするものである。
 以下、主要農産物の増産について、その概略を示すこととする。

 米穀の増産

 主食である米の増産に関して、県は先述の「重要農産物生産計画遂行部落団体活動促進施設奨励規程」と同日の昭和一四年九月五日、「米穀増産奨励規程」(資社経上五二~五四)を制定した。同規程は、稲熱病や螟虫の防除、増収競技会、増収指導、そのための施設などに対して市町村農会が負担する費用について、県が奨励金を交付することを内容とした。
 県は翌一五年一月「米穀増産要項」を作成し、耕種改善、苗代改善、多収穫品種の作付け、水田改良など、米穀増産への具体的な計画と、それに伴う奨励金及び経費の出費について決定した。「昭和一五年県政事務引継書」によると、同米穀年度の県内米穀生産高が八五万八、〇〇〇石余(一四年は大旱魃により減収)であるのに対し、消費は一〇四万五、〇〇〇石余必要であり、不足分を補う政府米払い下げが円滑に進まないため、県内需給が逼迫していることが述べられている(資近代4四一五~四一七)。米穀増産が県当局にとって急務であったことをうかがわせる。
 県では各年度ごとに米・麦・藷類・豆・雑穀などについて具体的な生産目標を立てて増産を目指したが、米穀は、平年作九二万石に対し、一六年度一〇六万一、五五〇石、一七、一八年度一〇七万三、〇〇〇石の目標が掲げられた。多収穫品種の植え付けによって増産を図るため、昭和一七年度より、県及び農会が一体となって種籾管理計画が実行に移されることになり、同年二月一三日、「農事試験場米麦雑穀原種配付規程」(資近代4七七一~七七二)、「種籾管理奨励規程」(資近代4七七三)が出された。前者は米麦の改良増殖を図るため農事試験場より市町村農会に対して原種を無償で配付すること、後者は、市町村農会の手で、配付された原種から種籾を栽培するための採種圃、採種圃で生産された種籾の管理、消毒の費用を市町村農会に対して補助することを内容とするものである。この種籾管理計画は、稲作付け面積四万四、〇〇〇町歩の内三万五、二三四町歩に多収優良品種を普及させ、それに必要な種籾を採種するため、県下に三町八反歩の原種圃を設置、原種一一二石三斗九升を採種し、これを県下三六四町歩の市町村農会採種場に配付して一万六五二石の種籾を得ようとするものであり、県費二万八、八〇〇円余が予算に計上された(資近代4七四二~七四四)。また、一八年には戦時食糧増産指導部が設置され、県・市町村・関係団体と一体となった増産指導が目指されることとなった。

 麦類の増産

 麦は、米と並ぶ重要食糧であり、混食によって米の消費を節約する観点からも、その増産が奨励された。愛媛県は麦の生産県であり、通常、県内生産五五万石、県内消費四〇万石、県外移出一五万石程度が見込まれていた。これに対し、政府よりの生産割当て量を基準として増産が図られることとなり、昭和一六年度七八万四、九五〇石、一七年度八一万四、○○○石以上、一八年度八〇万石の生産が目標とされた(資近代4七八一)。増産のための具体策として特に力が入れられたのは、休閑地の開墾、桑園・果樹園の転作、暗渠・客土などの土地改良による湿田の二毛作田化であった。昭和一六年度、愛媛県は国より桑園整理一、四〇九町歩、隔畦抜株、三九八町歩、隔畦交互伐截一、四三三町歩を割り当てられた。整理面積は県内桑園の一六・七%に相当する。一六年度には、これらの桑園の転作による麦の増収二万九、六七七石、ほかに茶園整理による増収一一五石、計二万九、七九二石が計画されていた(資近代4七四四~七四五)。
 また、土地改良事業も、農民、学徒勤労動員などの労働力により積極的に展開された。昭和一八年一一月、県民皆働週間を利用して、県の主導のもとで一斉に行われた土地改良事業は、暗渠排水二、六一〇町歩、客土一、六五四町歩、小用排水九、八九九町歩、開田七九町歩、計一万四、二四二町歩、農道九、七〇〇間という大規模なものであった。この改良による増産額は米二万九、五七三石、麦四万一、六〇三石が予定され、事業費五七七万三、三八五円、労力は延べ人員一七七万人であった(「愛媛合同新聞」昭和一八・一一・一二付)。
 更に、昭和一九年二月一日から収穫までの間、県下一斉に麦肥培管理強調運動が実施され、一層の増産が目指された。同年一月二二日付で出された「麦肥培管理強調運動実施要綱」によると、具体的な実行事項が、(1)支庁、地方事務所及び農業会支部 (2)市町村、市町村農会 (3)部落農業団体別に指示された。また、上浮穴郡久万郷及び高冷地帯・南予海岸温暖地帯・その他県下一円の地域別に、麦踏み、追肥、土入れの時期が指示され、増産のための具体的で細かい配慮がなされている(資近代4六六〇~六六三)。

 甘藷の増産

 甘藷は、当初酒精原料としての役割が重要視されていたが、戦争の長期化に伴う食糧事情悪化の中で、米麦の不足を補う重要食糧として期待されるようになり、その増産に力が入れられた。昭和一三年(一九三八)一月、県が策定した最初の増産計画の中に、甘藷は、玉蜀黍・茶・苧麻と共に対象作物として取り上げられ、県農会も同年より増産指導を始めた。昭和一四年九月、先に述べた「重要農産物生産計画遂行部落団体活動促進施設奨励規程」、「米穀増産奨励規程」が出されたのと同日、甘藷増産に関しては、「酒精原料甘藷増産奨励規程」(資社経上五四~五六)が定められた。この規程により、農事実行組合などの管理経営する共同採種圃や共同苗圃、増収競技会や実地指導などに対して県より奨励金が交付されることとなり、増産活動の一層の展開が図られた。ただ、この奨励金の対象となるのは、酒精原料としての甘藷に限られ、この段階では、米麦を補助する主要食糧としての甘藷の増産には、まだあまり目が向けられていなかった。
 その後、米麦需給の逼迫とともに、戦時下食糧としての甘藷の重要性が認識されるようになり、果樹園・桑園の転換、空閑地の開墾などによって栽培面積は急増した。昭和一六年三月六日、県は農林省技師出席のもとに甘藷増産に関する協議会を開き、一七年度に四割五分の増産を実現することを決定した(「海南新聞」昭和一六・三・七付)。また、国の奨励にそって休閑地などの利用による甘藷増産が進められた結果、昭和一六年五月段階で、県内一四〇町歩の利用が見込まれるようになった。このような甘藷増産の方針は、「戦争完遂に大きい役割、増産へ全力をそそぐ県下農村」(「愛媛合同新聞」昭和一八・二・三付)として、以後も継続されていった。昭和一九年度には、県の主導のもとに戦力増強甘藷倍加運動が展開されることとなり、開墾地・休閑地・既栽培地利用により一、六八七町三反、果樹園の転換・間作・周囲作により一、八三九町の作付け面積増加が計画された。その進展を図るため、同年二月四日、「甘藷倍加大増産実施に関する件」が、中等学校・青年学校・国民学校長宛に出され、増産のための具体的方策として、(1)校地・校下の空地などを利用し、各学校一反歩以上の甘藷を栽培する、(2)学童生徒を通じ、学校育苗園にて育成した甘藷苗を各家庭に配布し、一戸当たり六株以上を宅地、垣根を利用して植え付ける、(3)学童生徒を通じ、甘藷皆作空地撲滅の県民運動を推進する、(4)勤労奉仕などを通じ、甘藷増産意欲の高揚、栽培技術改善に努めることが指示された(資近代4六六三~六六四)。利用可能な土地は、寸土も余さず食糧増産のために活用した当時の状況がよく示されているが、食糧事情の窮迫を如実に表している現象でもあった。昭和一八年(一九四三)七月には、着任直後の相川知事の発案により、県庁の庭もすべて開墾して大豆・そばを栽培し、県自らが県民に対して範を示す措置もとられた(「愛媛合同新聞」昭和一八・七・一一付)。

 農産物の生産統制

 戦時下における食糧確保を至上命題として、食糧増産策と並行した種々の生産統制が加えられた。すなわち、昭和一三年に制定された「国家総動員法」に基づき、農業に関しては、昭和一六年二月、「臨時農地等管理令」が公布された。これは、農地の潰廃を抑えて農地を確保することを目的としたもので、農地の不急不用な用途への転作禁止、未利用地の耕作勧告、政府による作付けの制限及び禁止の権限などを内容としていた。更に、同管理令に基づき、同年五月、「農地作付統制規則」が公布された。これは、桑・茶・はっか・たばこ・果樹・花など不急不用作物の作付けを制限し、米・麦・大豆・甘藷など食糧農産物への転作を強制するとともに、食糧農産物の他作物への転作を禁止するもので、以後、桑園・果樹園の整理、それらの麦・甘藷などへの転作が推し進められてゆくこととなった。
 このような政府の方針にそって、県内でも食糧生産の確保を目指した農業統制が進められ、昭和一六年六月、「愛媛県農作物作付制限規則」(資社経上六六~六七)が制定された。同規則によると、農地に果樹・桑・竹・庭木を新たに植え付けることが禁止され、一五年中の実績以上には、田に稲以外を、畑に西瓜・甜瓜(まくわ瓜)・花卉・苺を作付けすることが禁止された。また、知事の許可なく、田に西瓜を作付けすることも禁止された。
 食糧農産物の作付け確保を更に一層確実なものとするため、昭和一六年一一月、先に述べた「農地作付統制規則」にそって、県は新たに「農地作付統制細則」(資社経上七一~七三)を制定した。同細則によると「農地作付統制規則」によって農林大臣が指定した農作物(米・麦・大豆・甘藷・馬鈴薯)を昭和一五年九月以降に作付けした農地は、それ以外への転作を禁止されることになった。また、農林大臣が指定する制限作物(桑・はっか・たばこ・果樹・花)を食糧作物へ転作することを命じられる場合は、各市町村作成の転換計画によって、市町村農会が具体的な指示を出すこととされ、その場合、桑・果樹・茶園の整理費用として反当二〇~三〇円、転作する新食糧作物の種苗代としてその三分の一が助成された。更に、裏作その他の方法による適切な利用がなされていない土地、耕作が放棄されている土地について、市町村農地委員会は耕作を勧告し、その勧告が入れられない時には、適当と認められる第三者に知事が耕作を命ずることができることになった。
 農業統制の上に農会の果たした役割も大きかった。既に、昭和一五年(一九四〇)の「農会法」改正によって、統制機関としての役割を与えられていた農会は、昭和一六年一二月、国家総動員法に基づいて公布された「農業生産統制令」によって、農業統制上の権限と役割を一層大きくさせた。同統制令は、市町村農会に、農業生産計画を作成して知事に届け出ることを義務付けるとともに、農作物の種類や作付け面積、共同作業、農機具や役畜の利用、農民の離農などに関して必要な指示を出すことを認めた。これは、市町村農会に対して、農業生産を国家目的にそって統制する法的権限を認めたものといえる。同統制令を受けて、県は、翌一七年四月七日、「愛媛県農業生産統制令施行細則」(資近代4七〇八~七一〇)を定め市町村農会より知事あての農業生産計画届出の方法などについて具体的に指示した。一方、県農会でも同統制令に基づいて、同年七月、「愛媛県農会農業生産統制規程」を作成し、生産計画の作成、耕種改善規準の制定、一斉作業、共同作業の統制、役畜・農機具の利用など、統制への歩みを進めていった。

 食糧生産の減退

 戦時下における食糧確保を目指して進められた増産政策、農業統制にもかかわらず、労働力不足及び肥料を中心とする生産資材欠乏によりこれらの政策は所期の目的を十分達成することはできなかった。全国的にみて、米は昭和一五年、麦は一六年、茶・木炭は一七年から生産が漸減し始めた。
 県内における耕地面積は、昭和一〇年ころから増加に転じ、一五年に頂点をむかえたが、以後は漸減していった。一方、作付け面積は一五年以後も増加し、一七年に至って耕地利用度は一八五%を示した。これは、国、県などによる増産政策の成果と考えられるが、これを頂点として、以後は耕地面積と同じく漸減をみせることとなった。作物別に作付け面積、収穫高を併せ考えてみると、藷類を除く主要食糧作物は、一七、一八年以降減退の傾向がみられた。全作物を通して特に一九年以降の減退が激しく、物不足・人不足の中で進められた国・県の細部にわたる増産策、農民の増産努力の限界を示すものであろう。

 米穀に対する統制

 我が国の食糧統制の歴史は、大正一〇年(一九二一)の「米穀法」の制定に始まるとされ、以後も、昭和恐慌下の米価低落に対する価格維持政策として続けられてきた。その後昭和一四年(一九三九)ころから、不足する主要食糧を国民に公平に分配するための施策として、食糧統制が進められるようになった。
 日中戦争勃発とともに、昭和一二年九月、政府は、「米穀の応急措置に関する法律」を出し、次いで一四年四月、「米穀配給統制法」を公布し、米穀統制の第一歩を踏み出した。同統制法によって米穀取り扱い業者は許可制となるとともに、米穀取引所正米市場は廃止され、新たに設けられた日本米穀㈱(半額政府出資)が、「米穀統制法」(昭和八年制定、一一年改正)による最高最低価格の範囲内で、正米取り引きの独占権を持つことになった。これらの措置を通して、政府は、米穀配給統制に関する必要な命令を出すことができるようになった。
 政府による食糧統制が本格化する中で、愛媛県は、戦時下における食糧全般の需給の調整及び配給の円滑を期するため、昭和一四年一〇月、食糧対策委員会を発足させた、一〇月二七日に出された「食糧対策委員会規程」によると、会長は知事、副会長は経済部長及び警察部長の兼任で、委員は県官吏・吏員及び学識経験者より知事が任命した。県主導のもとに、食糧の消費調整及び配給に関する事項、その他食糧需給調整上の必要事項を調査審議し、その実行を指導督励するための組織であった(資近代4三八一~三八二)。
 その後、政府は米穀需給の基礎資料を得るため、昭和一四年一一月、全府県に対して米穀現在状況調査を命じた。本県では、翌一五年四月二六日開催の食糧対策委員会で、同年五月五日現在の状況を一斉調査することを決定した。また四月末~五月初めにかけて、県内一二か所で米穀需給調査に関する協議会が開かれることになり、節米奨励、需給円滑化の徹底を図る措置がとられた(「海南新聞」昭和一五・四・二七付)。
 更に、食糧事情の悪化してゆく中で、昭和一五年(一九四〇)八月、「臨時米穀配給統制規則」が公布され、米穀統制は一段と強化をみることになった。同規則では、生産者が出荷するすべての米穀は市町村農会の統制下におかれることになり、集荷は産業組合及び米穀商統制団体、配給は米穀商団体が担当するとされた。こうして米穀は自由商品としての性格を失い、国策というルート上を政府の方針にそって流れてゆく統制物資となったのである。また、同規則下における出荷前の農民保有米に統制を加えたのが、同年一〇月に引き続いて出された「米穀管理規則」である。これにより、生産者及び地主の自家用保有米を除く全米穀は、政府の管理下に買い上げられ、予想収穫高の決定及び出荷数量の割り当てが、市町村農会を通して行われることになった。
 愛媛県では、既に昭和一五年五月一〇日「愛媛県米穀集荷配給統制要綱」(資社経上五七~五八)を制定し、国に先立って、集荷は産業組合、配給は県の指示により商業組合及び産業組合を通じて行う方針を打ち出した。また、市町村長は管内の米穀状況を考慮して需給計画を作成し、その報告を受けて、県は各市町村別の供出数量を割り当てた。この割り当て量の出荷は、駐在警察官の援助を得て行われる強制的なものであった。
 更に、「臨時米穀配給統制規則」が公布されたのを受けて、同年一〇月三〇日、「臨時米穀配給統制規則施行細則」(資社経上六一)が出された。これは、(1)市町村農会は管内の米穀量を調査する、(2)自家用米として販売される米穀は、その地域を管轄する市町村農会の承認を要する、(3)販売を委託された販売組合及び倉庫業者は、取り扱い米穀に関して市町村農会及び県購連へ通知する、(4)米穀の県外搬出には知事の許可を要することなどを内容としていた。農会を中心として出荷を統制していく政府の方針を具体化したものであった。なお、同施行細則は、その後の米穀事情の変化に伴い翌一六年四月一日に改正され、(2)の市町村農会の承認には知事の許可を要するなど、米穀統制への知事の権限を強化する方向が打ち出された。

 麦類に対する統制

 麦類に関する統制は、米穀にやや遅れ、昭和一四年一一月の「小麦等輸出許可規則」、翌一五年四月の「臨時穀物等の移出統制に関する件」で開始された。この両者は、大麦・裸麦・小麦・米穀の輸出及び移出について、農林大臣による許可制を決めたものである。次いで、同年五月、麦類生産地三〇余県に麦の供出割り当ての通牒が出され、続いて、同年六月の「麦類配給統制規則」、七月の「小麦配給統制規則」によって、麦類出荷の計画及び割り当ては市町村農会、集荷は産業組合及び農業倉庫業者が担当することが決められた。その後、政府は、「国家総動員法」に基づいて一層統制を強めることを意図し、昭和一六年六月、前記の「麦類配給統制規則」及び「小麦配給統制規則」を統一した(新)「麦類配給統制規則」を制定した。この新規則は、旧両規則中の出荷の計画、割り当てを農会に、集荷を産業組合及びその系統団体に一元化した点を受け継ぎ、更に、集荷された麦類を最終的に政府以外に売り渡すことを禁じる内容を付け加えたもので、全国に販売される麦類は、すべて一度は政府の手に掌握されることになった。
 愛媛県は既に昭和一四年一一月から、麦類の県外移出を許可制としていた。その後、昭和一五年六月五日、「麦類集荷配給統制要綱」(資社経上五八)を制定し、麦類統制を一歩推し進めることとなった。同要綱は、(1)自家消費量を除く余剰麦はすべて産業組合に出荷する、(2)産業組合集荷の麦類は、県購販連を通して県内に配給し、余剰分は政府への供出及び県外移出とする、(3)県内配給分は、市町村長の指示により、商業組合又は産業組合により消費者へ配給することを内容とした。次いで、先述の(新)「麦類配給統制規則」の公布に伴い、翌一六年六月二四日、「麦類配給統制規則施行細則」(資社経上六九~七〇)が制定された。同施行細則は、基本的には、「臨時米穀配給統制規則施行細則」と方針を一にするものであった。こうして、県内の麦類についても、農会・産業組合の手により一元的に集荷され、全量政府によって買い上げられる体制が確立した。

 甘藷に対する統制

 昭和一四年(一九三九)八月公布の「原料甘藷配給統制規則」に基づき、愛媛県は、同年一〇月一八日、「愛媛県原料甘藷配給統制規程」(資社経上五六)を制定し、本格的な甘藷の配給統制に乗り出すこととなった。同規程は、県内において原料甘藷を買い入れることのできるものを、全国酒精原料㈱、愛媛県澱粉工業組合、澱紛工業組合連合会、愛媛県甘藷製粉工業組合、知事の許可を受けた者に限定した。その買い入れは、県農産物配給販売斡旋部による斡旋に基づき、県経済更生委員会甘藷配給統制部決定の割り当て数量に従って、割当証票(配給切符)によって行われる仕組みであった。また需給調整上必要ある時は、知事は、売買の時期、価格、売買の方法、原料甘藷の種類や数量について命令を出すことができ、原料甘藷の売買及び使用状況について報告を要求することができた。一方、県内での原料甘藷統制に続き、同年一二月一日、「愛媛県甘藷移出統制規則」が出され、甘藷の県外移出への知事許可制を採り入れることにより、統制の範囲が広められた。
 その後、食糧事情の悪化に伴い、甘藷には、米麦不足を補う主要食糧としての観点から、配給統制の手が加えられるようになり、昭和一五年一〇月一一日、「愛媛県甘藷配給統制規則」(資社経上六〇~六一)が出された。同規則は、(1)無水アルコール原料甘藷、(2)前述の「愛媛県原料甘藷配給統制規程」による原料甘藷、(3)特別の理由により知事の許可したものを除く、食糧としての生及び切干甘藷の配給統制について規程したもので、統制は農会を主体として進められた。すなわち、市町村農会長は、管内における甘藷需給計画を作成し、県農会は、この計画及び県甘藷配給統制部会の決定をもとに、市町村ごとの用途別配給数量の割り当てを行うという手順であった。また、生産者が甘藷を販売する時(生甘藷一〇貫目未満は除く)は、市町村農会長の承認を要するとされ、知事は、需給調整上必要ある時は、農会及び生産者に配給の禁止、制限などの必要な命令を出すことができた。そして、これらへの違反行為に対しては拘留または科料が科せられた。以後も戦争の長期化によって食糧事情が逼迫する中で、食糧としての甘藷の重要性はますます増大し、政府は、昭和一六年八月、「藷類配給統制規則」を公布した。この規則に基づき、同年一〇月三日、「愛媛県藷類配給統制規則施行細則」(資社経上七〇~七一)が出され、同時に、「愛媛県甘藷移出統制規則」及び「愛媛県甘藷配給統制規則」は廃止された。これにより、藷類の買い付け及び販売はすべて知事の許可を要し、小売業者の仕入れ先は知事の指定する者(指定配給者)に限定された。
 後述の如く、昭和一七年の「食糧管理法」は、米穀・麦類・雑穀・穀粉・藷類並びにその加工品である麺類・パン類をも統制の対象とした。従って米穀・麦類関係の既存統制法令や規則などは廃止されたが、この「藷類配給統制規則」は以後も存続され、同規則による配給統制が続けられた。昭和一八年八月、(新)「藷類配給統制規則」が、「物資統制令」に基づいて出され、国より県へ、更に市町村農会を単位として割り当てられた数量に従って出荷統制が継続されていった。

 その他食糧に対する統制

 農林省では、養鶏飼料輸入の減少を図るため、昭和一二年より玉蜀黍栽培に対する助成を開始した。その後、食糧事情が悪化するとともに、食糧としての玉蜀黍増産が奨励され、北海道に次ぐ全国第二位の産地であった愛媛県では、昭和一五年一一月五日、「愛媛県玉蜀黍配給統制規則」(資社経上六二)を制定し、一層の増産とともに、その統制に乗り出した。同規則は、甘藷など他の作物の配給統制規則に共通する内容であった。
 青果物については、昭和一五年(一九四〇)七月、政府によって「青果物配給統制規則」が公布され、本格的な統制が始まった。県農会では、これを受けて青果物統制に乗り出す準備を進め、同年八月一日、その基本方針として、(1)青果物統制は県農会が行う、(2)出荷団体及び取り扱い業者は県農会の統制指図に従う、(3)全体的な配給統制計画のもとに実施することを決定した。更に、統制実施の具体策が決められ、統制品目として、甘藷・馬鈴藷・大根・人参・豆類・蜜柑・桃など三四品目があげられた(「海南新聞」昭和一五・八・二付)。県では、県農会のこのような方針を法制化するものとして、翌一六年六月三日、「青果物配給統制規則施行細則」(資社経上一六〇~一六二)を制定し、県農会を中心に青果物の配給統制を行うこと、指定出荷者以外の出荷については、品目・数量・生産地・出荷地・出荷時期などを内容とする申請書を県農会経由で知事に提出し、その許可を受けることなどとした。
 このほか豆類や雑穀に関しても、同年六月一七日「愛媛県雑穀配給統制規則」(資社経上六七~六九)が出され、農会を中核とする統制機構の中に組み込まれることになった。

 食糧管理法の制定

 昭和一七年二月二一日公布された「食糧管理法」は、これまで各品目ごとに個別に出されていた食糧に関する統制法令を整理統合し、食糧全体として、その需給・価格調整、配給統制を一元化したものであった。戦時下における食糧統制法規の完成した形であったと考えられる。同法は、(1)米穀・麦類・雑穀・澱粉・藷類・麺類・パンを統制の対象とするが、当面は米麦のみを国家管理のもとにおき、必要に応じて他の主要食糧も管理する、(2)生産者及び地主は、一定量の米麦を政府に売り渡す義務がある、(3)管理米麦の集荷は、原則として産業組合(販売組合及びその経営する農業倉庫)に一元化する、(4)日本米穀㈱などの中央食糧統制機関を廃止し、中央及び地方に設置する食糧営団によって食糧の配給・貯蔵の事業を行うなどを内容とした。この結果、農民は国以外に食糧を売ることを一切禁止され、消費者は配給以外の食糧を入手することを禁止された。消費者が農民から直接食糧を購入することはもちろん、個人的に贈与されることも犯罪となり、これらは「国賊」・「利敵」の行為とされた。
 新たに、主要食糧の配給並びに管理の統制機関として設けられた食糧営団は、有限責任の法人で、従来の日本米穀㈱などの中央食糧統制機関に比べ、国家の指導監督権が一層強化された国策機関であった。取り扱い物資のうち、米穀は原則として政府から地方食糧営団に売却し、地方食糧営団によって消費者に配給された。外米は、政府の委託を受けて中央食糧営団が輸入し、政府に引き渡した。麦類は、原則として政府から中央食糧営団へ、更に地方食糧営団に売却された。甘藷・馬鈴薯・雑穀は、原則として中央食糧営団では取り扱わず、場合に応じて地方食糧営団で取り扱われた。
 中央食糧営団は、昭和一七年九月、資本金一億円(半額政府出資)で設立され、その後、各道府県に地方食糧営団が設立されていった。
 愛媛県でも、既に一七年二月ころから、食糧営団設立についての議論が始まり、中央の動きにそって、愛媛県食糧営団設立の準備が進められてきた。その結果、昭和一八年(一九四三)一月二二日、福本知事を委員長とする第一回設立準備委員会が開催された。そして、出資割り当て、事業内容などの具体的決定を経て、二月六日、県参事会室において出資者総会(設立総会)が開かれ、愛媛県食糧営団の発足をみた。理事長には岡田温が就任した。
 愛媛県食糧営団の出資金は一口五〇円と決められ、資本金一三〇万円で発足した。その内、半分の六五万円は中央食糧営団の出資により、残額は、統合団体である県米穀商業組合、乾麵会社、小麦粉会社、県購販連の負担であった。事業内容は、(1)主要食糧の買い入れ、(2)主要食糧の売り渡し、(3)知事の指定する主要食糧の加工及び製造などと決められた。その中での具体的な取り扱い物資は、米穀・麦類・乾麵・小麦粉で、米・麦は小売段階、乾麵・小麦粉は卸売段階での取り扱いであった。米麦の配給には、食糧営団による直配と、産業組合への委託(代配)があり、市町村を単位として一元配給された(「愛媛合同新聞」昭和一八・二・七付)。
 食糧管理法の施行、それに伴う食糧営団の発足は、国民生活の上に多大の影響を及ぼす大改革であった。そのため、県当局においても吉川経済部長の名で、食糧営団の「性格を理解せよ」と県民に呼びかけ、その円滑な運営に努めた。また、統制団体の側からも、「挺身奉公誓ふ」(県米商連理事長梶野賢太郎)、「商権潔く返上」(県乾麵会社副社長高橋鬼久松)と、国策への協力が誓われた(「愛媛合同新聞」昭和一八・一・二七付)。しかし、労働力・資材欠乏により農業生産力が減退してゆく中で、このような厳しい統制も、食糧危機解消をもたらすことはできなかった。

表4-11 第2次3か年計画の産業組合事業拡充目標

表4-11 第2次3か年計画の産業組合事業拡充目標


表4-12 本県第2次産業組合拡充3か年計画の実績

表4-12 本県第2次産業組合拡充3か年計画の実績


図4-6 甘藷の作付け面積及び生産高 資料:「愛媛県経済連史」

図4-6 甘藷の作付け面積及び生産高 資料:「愛媛県経済連史」


図4-7 農作物作付け面積の変化 資料:「愛媛経済連史」

図4-7 農作物作付け面積の変化 資料:「愛媛経済連史」


表4-13 愛媛県における耕地面積、作付け面積の変化

表4-13 愛媛県における耕地面積、作付け面積の変化


表4-14 愛媛県における作物別作付け面積

表4-14 愛媛県における作物別作付け面積


表4-15 愛媛県における作物別収穫高

表4-15 愛媛県における作物別収穫高