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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

四 非常時下の県行財政

 古川県政と国民精神総動員運動

 昭和一二年(一九三七)七月七日大場鑑次郎勇退の後、古川静夫が本県知事に就任した。古川は、明治二一年八月鹿児島県の士族の家に生まれ、大正三年東京帝大法科大学在学中に文官高等試験に合格、同四年静岡県警部になり、同県の郡長、理事官を経て、熊本県・兵庫県理事官、京都府学務部長、栃木県警察部長、福岡県学務部長を歴任、進んで警視庁保安部長・官房主事・警務部長などを経て、昭和六年神奈川県内務部長、同九年一一月佐賀県知事に就任して二年八か月在任した(資近代4二四七)。七月一六日着任した古川知事は、「県政の進歩発展するには県庁が根源であり、庁員が推進力である。庁員は一心同体一家族主義で協調すべきである」と庁員に訓示した。
 古川が本県知事に任命された昭和一二年七月七日は日中戦争(日華事変)のきっかけとなった蘆溝橋事件勃発の日であり、一一日の政府声明で派兵が決定されて以後、国内は戦時体制に入った。近衛文麿内閣は、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」を三目標とする国民精神総動員運動を開始することを決定し、一〇月内閣の外部団体として国民精神総動員中央連盟を編成した。本県では、九月二五日に国民精神総動員運動愛媛県実行委員会が発足して会長には古川知事が就任、各界の代表者五〇名を委員に委嘱して、実践事項を協議答申することになった(資近代4二五四)。一〇月一日、古川知事は、「国民精神総動員運動ノ告諭」を発し、四日には県実行委員会の初会合を開き、精動運動の具体的方策を諮問して、その実施方針と実践事項・要綱の答申を得、これを発展させて市町村など関係方面に運動の徹底方を要求した(資近代4二五四~二六五)。
 一〇月一三日の戊申詔書渙発記念日から一九日までの一週間、全国一斉に第一回国民精神総動員強調週間が展開された。古川知事は一一日庁員を集めて、精動県民運動の根源をなすものは庁員であることを十分認識し、推進力の強化と市町村の実施に遺憾なきを期さればならないと督励した。県当局は市町村総合委員会の設置と国民精神総動員運動実施計画の樹立を市町村に働きかけた。
 県庁では、翌一三年二月一一日の紀元節を期して実施される第二回精動強調週間には、県吏員が率先垂範を示さればならないとして、第一日時局認識日、第二日神社参拝・心身鍛錬日、第三日慰問日、第四日時間励行・勤労日、第五日廃品蒐集日、第六日事務整理日として、それぞれの事項を強調実践することにした。二月五日には市町村長会を開き、第二回強調週間に当たっての「国民精神総動員実施要項」を定めて、各市町村総合委員会で適切な実施計画を樹立して徹底を期すること、町内会・部落会を毎月開催して時局認識を深め実施計画の実践に努めること、銃後後援の強化持続、勤労報国・消費節約と貯蓄の奨励を進めることを指示した(資近代4二五五~二六五)。
 同年六月三日、事変勃発以来三回目の市町村長会が招集され、古川知事が国策に即応して銃後強化を図れと重大覚悟を強調した後、長期戦への移行に対処する国民貯蓄の奨励、「国家総動員法」制定の趣旨徹底、傷痍軍人の優遇、軍事援護相談所の機能拡充、物価調整、国民健康保険法の施行、満州移民の大量送り出し、重要物資の廃品回収、勤労奉仕など当面の諸問題に関する指示を行った。また七月に時局懇談会を設け、歩兵第22連隊長・松山地方裁判所長・国会議員・県会議長・町村長会長・松山市長・日銀支店長・伊予鉄社長・松山商工会議所会頭・住友専務・井上要・烏谷章など各分野の代表者の出席を求めて県知事以下県首脳との初会合を二七日に開いた。知事は県民の時局認識を一層徹底させる方策、国民精神総動員運動・貯蓄運動・戦時財政運用・戦時経済統制・銃後軍事援護施設などの諸問題について各委員の意見開陳を求めた。県は、これらの意見を参考にして「新生活運動実施事項」を作成、八月七日公表した。これを機に県庁は官吏の服装を国防色バンド付、ノーネクタイの非常時型に統一することにした。また八月一五日には県庁勤労報国隊を結成して、「我等は報国の至誠を実践に具現し帝国臣民たるの資質を錬成す」「我等は団体的勤労に依り私を去り公に奉ずるの精神を涵養す」「我等は団体的勤労を通じ強靭なる心身を鍛錬し規律統制の生活訓練を為す」と宣誓した。
 以後、本県では政府の指示と精動中央連盟の企画に応じて、銃後後援強化週間(昭和一三年一〇月五~一一日)、国民精神作興週間(同年一一月七~一三日)、日本精神発揚週間(同一四年二月五~一一日)、百億貯蓄強調週間(同年六月一五~二一日)を設定、その実施要領や「愛媛県非常時生活運動要綱」を示して、国民精神総動員運動の運用と実行に努めた(資近代4二九五~三〇六)(第五節一「国民精神総動員運動の展開」参照)。
 古川県政の時代、県財政は極力整理緊縮が計られた。政府より府県に委任される国政事務は年々増加し、地方団体間の財政力の不均衡はいよいよ激化して、農村地方団体の極端な財政窮乏をもたらした。財政調整の必要に迫られた政府は、昭和一一年に臨時町村財政補給金制度、翌一二年に臨時地方財政補給金制度を設けて、財源欠乏の地方団体に補給金を重点配分した。本県には、昭和一二年度分として六四万三千余円が配分され、古川知事はこれに伴う予算の追加更正と減税措置をとるため、就任後最初の臨時県会を八月に召集した。減税内容は本省の指示に県独自の考えを加えた案であったが、県会で薬師神岩太郎(政友会)が「地主乃至不在地主ノ負担ヲ軽減スルモノデアツテ、小作人ハ何等ノ恩恵ニ浴シナイ」と指摘しているように、農村における有産階級が負担する地租付加税の減額が主なものであった。
 昭和一二年(一九三七)一一月に開会された通常県会に、県は八六八万余円の一三年度予算案を提出した。これより先、政府は九月に内務・大蔵両次官の名で次年度予算編成に際しては極力整理緊縮に努めるべきことを全国地方長官に指示した。この通牒によって、庁舎学校諸建築物・土木工事・上下水道工事・補助奨励事業・各種継続事業については打ち切り・繰り延べ・減額の方針が示され、税金は新設・増徴を行わないことになったが、銃後後援・国防などの見地から必要な経費については新規経費の計上が認められていた。本県でも勧業関係にこの面からの新規事業を多数盛り込んだ結果、予算総額は前年度当初予算に比べて二九万五千余円の増加となった。県会は三〇日間の論議を続け、県予算案を可決するとともに、臨時地方財政補給金制度の拡充、遊漁税復活、地方金融疎通対策、西条港・三津浜港の改修、四国の鉄道につき善処方要望などの意見書を提出した。
 翌一三年通常県会に提出された本県予算は総額八二五万五千円であり、前年度当初予算に比べ八〇万四千余円を減じた。この緊縮は、地方財政抑制の方針によるものであった。政府は、同一三年八月に一三年度予算の実行予算作成を命じ、国防・時局関連の緊急及び生産力拡充上必要なもの以外の各種事業に関する起債は、原則として認めないことを通達した。更に一四年度予算編成に関しては、前年度当初予算比一割以上の減額を図ることを指示した。これに応じて、本県は一三年度予算中事業費の中止・打ち切り・繰り延べ、補助奨励費の減額、吏員の欠員不補充、事務費削減などで、当初予算に比し一割弱の八三万円を節減した実行予算を組み、一四年度予算案は前年比一割減を計った。県会では、岡本馬太郎(政友会)・山中鬼子男(民政党)から平凡で迫力がなく事務的予算といった批判が加えられた。また、県会は、弓削商船学校の国営移管、国営高等工業学校設置、官立高等農林学校設置、上浮穴郡に県立農林学校の設置などの教育関係、四国循環国有鉄道開通促進、内子小田町間・坂石宇和町間省営自動車開通、肱川の国営改修など土木運輸関係、勤皇神社建立などの意見書を可決した。
 これら意見書のうち、国営高等工業学校設置要望の件は昭和一四年三月新居浜にその設置が決定実現した。県は、五月に臨時県会を召集して、新居浜高等工業学校建設のための予算案審議を求めた。古川知事は、この国立高等工業学校と中山川尻の飛行場建設を置き土産に、七月一五日結核予防会の理事長に転じた。

 持永県政

 後任の愛媛県知事には、傷兵保護院業務局長持永義夫が任命された。持永は明治二六年六月宮崎県に生まれ、大正一○年京都帝大法学部を卒業、内務属として衛生局に勤務した後、和歌山県下の郡長を経て広島県理事官から本省に帰り、社会局事務官・書記官、福利・保護・庶務の各課長を歴任、昭和一三年厚生省書記官になり、同年四月傷兵保護院の業務局長を務めた。
 七月二四日に着任した持永知事は、まず干害対策に取り組んだ。この年七月初めから夏型の気圧配置が続き、西日本では高温寡雨の状態となった。この干ばつのため、本県の九月時の収穫予想は平年作に比して二四%の減収を算するに至り、農作物全般の被害額は一、九八〇万円の巨額に達する状態であった。県は、八月半ばに急施参事会の承認を得て二二万四千円を起債、国庫補助金などを合わせた総額二九万八千円で原動機揚水機・湧水池掘井戸などの応急措置に要する費用を助成したが、十分な対策とはならなかった。知事は近県知事と共に救済対策の実施方を要望、政府も機宜の措置として五五万円の土木事業助成金を本県に支給、土木事業を起こして被害農民を就労させ、その労銀によって窮迫の緩和を図ることにした。県は国庫補助金を農業土木事業助成三五万円・市町村土木事業助成一五万円に分け、一〇月の臨時県会に諮った。九月の定期改選で選出されたばかりの新議員たちは、救農土木事業は机上の官僚独善の弊を排し、即実有効に施設分配を期されたいなどと要望、干害恒久対策として、銅山川疏水事業の早期着工と大谷川治水工事の完工を期待した。
 持永県政下の昭和一五年度県予算案は九二八万二千余円であり、前年度当初予算に比べて一一%増加していた。議案説明に立った持永知事は、長期戦に最終の勝利を獲得するには銃後国民の生活安定を確保することが大切であるとして、出来る限り抑制に努めたが、生産力拡充・銃後の対策など進んで施設しなければならない緊急な事業については十分顧慮したと予算編成方針を述べた。この年の予算案から、歳出の項に時局対策施設費(国民精神総動員費・経済統制諸費・転業対策施設費など)が新設され、戦時予算の色彩を濃くした。県会では、米など食糧及び農業生産、統制経済、国民精神総動員運動、軍人援護事業などが主に論議され、戦時議会の傾向が強まった。
 国民精神総動員運動は、この時期一層推進された。政府に国民精神総動員本部が設けられたのに伴い昭和一五年(一九四〇)六月一日県庁内にその県本部が置かれ、国民精神総動員運動に関する重要事項の企画と精動本部及び地方各種団体の連絡に当たることになった。県本部の会長は県知事が就任、役員は理事一六名・参与五二名・幹事一六名からなり、地方課が所管事務に当たり、社会教育課が宣伝方面で協力する体制を整えた。今後の運動方針については、実施項目に重点主義を採り、戦時食糧報国運動と国民貯蓄奨励運動に力を注ぐことにした(資近代4三二七~三二八)。
 昭和一五年は皇紀二六〇〇年に当たった。二月一一日の紀元節に紀元二六〇〇年の詔書が出されたので、同月一五日持永知事は「此ノ時局ニ際シ、我等臣民深ク、聖諭ヲ心底ニ刻ミ肇国創業ノ理想ヲ新ニシ、億兆一心各々其ノ業務ニ精励シテ時艱ノ克服ニ邁進シ、以テ臣民輔翼ノ大義ヲ具現セザルベカラズ」と訓令した(資近代4三二四~三二五)。二六〇〇年の記念事業として、県は造林事業と勤皇神社の創建を計画した。六月三日の市町村長会で勤皇神社の寄付協力を求め記念造林を促した。また、敬神思想の振作高揚、国民精神総動員運動の機構強化などが指示された。敬神思想の振作高揚については、昭和一四年一〇月に県護国神社が竣工して英霊を祀り、戦時下敬神の象徴となっていた。
 昭和一五年七月二四日の地方長官異動で持永知事は厚生省労働局長に転じた。「海南新聞」七月二五日付は、「地方官の異動が国家の大局に立って行はれるとすれば止むを得ないが、地方のために良吏であれば四・五年は止まって貰ひたいものである」と論説した。持永知事在任中の事績として、干害対策、松山市と周辺七か町村の合併による大松山市の建設、弓削商船学校の国営移管のほか、懸案の上浮穴農林学校の創設、新居浜高等女学校の県立移管、三農業学校の昇格などを列挙した。

 大政翼賛会愛媛県支部・協力会議の発足

 持永義夫の後任として本県知事に任命された中村敬之進は、赴任早々大政翼賛会の地方組織結成に追われた。
 近衛文麿が提唱した新体制の国民組織大政翼賛会は、昭和一五年(一九四〇)一〇月一二日に発足、近衛首相自らが総裁に就任した。同日、大政翼賛運動規約が発表され、一四日には運動を具体化するための実践要項が示された。また本部組織と並行して、地方支部の設置が進められた。県支部には、支部長・理事・顧問・参与が置かれ、支部長は総裁の指名または委嘱とされた。郡・市町村支部長は県支部長の推薦により総裁が指名することになった。「海南新聞」は、九月二四日付で新体制とその組織概貌を特集したが、一一月二五日から新体制欄を設けて、大政翼賛会の組織と活動を解説した。
 県は、一一月一八日付で「愛媛県部落会町内会等整備運営要領」を令達して、翼賛会の下部組織をなす部落会・町内会・隣保班(十人組)の整備運営を図り、一九日緊急市町村長会を召集して部落会・町内会組織の刷新整備と常会設置を促した。翌二〇日、大政翼賛会県本部役員及び機構が発表され、常務委員には、愛媛県知事中村敬之進、県町村会会長原眞十郎、県農会会長岡本馬太郎、豫州銀行頭取、八幡浜市長佐々木長治、県会議長相田梅太良、予備役陸軍少将関家清、会社重役山中義貞、神職菅義彦、社会事業家村田吉右衛門・中平常太郎が就任し、支部機構は庶務部と組織部からなり、堀本宜實と藤谷隆太郎がそれぞれの部長に任じられた。次いで一一月三〇日には、各界の代表を網羅した顧問一八名・参与二一名と理事三名が決定をみた。
 こうして準備が完了し、一二月六日に大政翼賛会県支部発会式を県教育会館で挙行した。式に先立ち、結成並びに奉告祈願祭を県護国神社で行い、役員を代表して中村知事が「今や我が国は歴史的一大転換期に際会す、この秋に当たり国運興隆の基を致さんとせば宜しく強力不抜の国家体制を確立し国家総力を挙げて不動の国運遂行に邁進せざるべからず、恰も全国民待望の大政翼賛運動正に其の発足を見、大政翼賛会愛媛県支部亦本日をもってその成立を告げんとす、不肖、茲に支部役員の任に就き其の責務の真に重且つ大なるを痛感す、吾ら協力一致挺身報国の誠を捧げ、もって新体制の実現に邁進せんことを期す」と宣誓した。発会式は、役員はじめ県下の市町村長・県会議員・県庁各部課長らが参列した。開会の辞の後、宮城遙拝、君が代斉唱、戦没将兵の冥福、皇運の武運長久の祈願黙禱を捧げた。次いで支部常務委員代表中村知事が挨拶をし、理事の外山総務部長が支部結成までの経過報告を行い、本部総裁近衛首相の告辞代読、相田県会議長、清水松山市長の祝辞、本部総務河上丈太郎の挨拶があって、中村知事の発声で一同高らかに聖寿の万歳を奉唱して閉会した(資近代4三六一~三六二)。同夜、河上丈太郎の講演「日本の動向と大政翼賛会」には一、〇〇〇名の聴衆が集まった。
一二月二四日、温泉郡三好庄太郎(湯山村長)、越智郡原眞十郎(波止浜町長)、新居郡高橋作一郎(西条町長)、喜多郡吉元誠一郎(大洲町長)らが郡支部長、清水勇三郎(松山市長)、大導寺元一 (今治市長)、佐々木長治(八幡浜市長)、高畠亀太郎(宇和島市長)、白石誉二郎(新居浜市長)が市支部長、町村長が各町村支部長にそれぞれ指名され、下部支部長が決定した。
 大政翼賛会の下部組織は、一月一六日の温泉郡支部発会式を最初に二月末日までに郡支部一二・市支部五・町村支部二四八の結成を完了した。更に中央本部では、中央・地方の有機的一体の活動を促進展開する必要から全国を九地方ブロックに分かち地方組織本部を設置することにした。四国地方組織本部は松山に置かれ、二月二日翼賛会四国四県支部部長会議を愛媛県会議事堂で開催した。本部からは四国ブロック組織班の責任者中西郷由らが出席、各県部長が県下の機構整備状況と翼賛運動推進の実情を報告して、地方組織の方針、各級支部協力会議のあり方などについて協議を重ねた。大政翼賛会「地区連絡情報」第一五号(「中原謹司文書」国会図書館蔵)には、「各県の知事以下官僚の今回の計画に対する態度は白紙純真で、而も相当の熱意を示し、当方の申出に対しては心から協力して呉れる為、当面の運動を進める上には何等の支障なく順調な進捗が期待される」「各県支部の熱意は頗る積極的なものがあるが、運動開始早々の事とて事務が軌道に乗って居らぬのと手不足等の為十分活動し得ぬ状態にあるが、本計画終了頃は相当整備するものと見られる」、「世上一般の情勢は翼賛運動に対する期待が稍々裏切られたとの感があり、力強い運動の展開を要望し、就中中央本部の極めて強力なる指導発揮を求めて居る」といった四国班復命書を掲げている。
 大政翼賛運動の一翼を担う県協力会議は、四月二二日議員の顔ぶれが発表され、議長には陸軍中将烏谷章が就任した。議員は四〇名で郡市支部長に加えて県会議員・各界代表と学識経験者が委嘱された。
 五月五・六日に開かれた第一回県協力会議は、開会式・本会議の後、あらかじめ各議員が提出した案件について委員会方式での協議が行われ、二日目に各委員会の報告があった。第一部大政翼賛運動育成強化に関する事項については白石誉二郎、第二部食糧並びに増産確保に関する事項については本多眞喜雄、第三部経済統制に関する事項については佐々木饒、第四部生活改善並びに文化その他に関する事項については行本頼助がそれぞれ報告した。白石は下部組織が積極的に動き出すよう県当局の助成を求め、本多は増産のための労働不足、農業資材の不足、配給の不円滑を指摘、佐々木は物資配給の実情調査を要望、行本は乳幼児保護施設の拡充などのほか婦人団体統合促進を訴えた。つづいて、各委員の質疑や意見発表があり、「生活・建築・経済等各部門に亙り事態の性質これを許す限り、なるべく家庭隣保各団体の工夫努力及び協力に依り自ら解決の途を求め、これに邁進するの風尚を県下に作興し、延ひてこれを他府県に及ぼさんことを期す」の決議を拍手裡に可決した。
 第二回県協力会議は、九月一六、一七日県教育会館で開かれた。一六日の開会式で、県支部長中村知事は、「協力会議は家族会議であるから平素県民の云はんと欲してゐることを腹蔵なく云って戴きたい。臨戦体勢を整へるについて県民としてもいろいろ云いたいことがあると思はれる。県民に直接してゐる各位からこれを承はりたい」と挨拶した。次いで烏谷議長の激励と第一回中央協力会議状況報告、堀本庶務部長の第一回県協力会議議案処理概要報告があり、議員の提出議案三五件について三委員会に分かれてそれぞれ協議した。一七日には、第一部委員長白石誉二郎が国民に時局認識を徹底させるためには時局の真相について最大限度に知らしめることが必要である、新婦人団体下部組織と町内会部落会婦人部との連絡協調を密にする必要があるなどの翼賛運動育成強化策を報告、第二部委員長高橋作一郎は集荷・配給について深甚の考慮を望み、第三部委員長名本政一は生活新体制運動を全県下に押し広めなければならないと強調した。その後、県支部の諮問事項「県下労働力調整増強に関する方策」についての懇談に移り、委員から実情に照らしての意見発表があって、あらかじめ用意された一二項の答申案を可決した。
 こうして大政翼賛会は、中央・府・県と郡市・町村協力会及び町内会・部落会の常会を上意下達下情上通の協議機関として活用しながら、壮年団、青少年団、婦人会、農業報国会、産業報国会、商業報国会、議員同盟などの統合と系列化を促して大政翼賛会の傘下団体に編入していった(第五節一「国民精神総動員運動の展開」参照)。
 大政翼賛会の県支部と下級支部が結成され、部落会・町内会が設置されて新体制運動が展開するようになると、県の事務は一層多忙になった。これに対処すべく、中村知事は昭和一六年一〇月二八日「愛媛県地方事務所規程」を定めて、松山・今治・西条・大洲・八幡浜・卯之町の六か所に地方事務所を設け、時局関係事務の指導及び税務処理のための出先機関とした(資近代4三六九)。地方事務所は、昭和一七年六月の「地方官官制」で全国共通の役所として認知された。七月一日、愛媛県は地方事務所を増設して、宇和支庁が管轄する北宇和・南宇和両郡を除いた宇摩郡など九郡に地方事務所を置いた(資近代4五七七~)。

 中村県政

 県知事中村敬之進は、明治二八年九月九日山口県に生まれ、大正一一年三月東京帝大法学部を卒業した。官界では、福岡県属警視を振り出しに神奈川県・兵庫県警察部長、内務書記官として警保局に勤務した後、昭和一〇年五月内閣調査局調査官、次いで企画庁調査官、企画院次長、警保局保安課長を歴任した(資近代4三三〇)。
 中村県政は、翼賛体制づくりとともに高度国防国家完成のための「人的資源」の増強と「物的資源」の確保を施策方針とした。知事は昭和一五年通常県会で、「人的資源」の増強については、(1)人口対策と国民体位の向上、(2)教職員の充足と資質の向上及び教育内容の改善、(3)中等学校の県立移管、実業学校の昇格、学級増加など、諸般の政策と施設の徹底を期した。「物的資源」の確保については、(1)食糧農産物に関する諸問題とその対策、(2)水産物生産の発達助長策、(3)木炭・木材増産と配給に関する諸施策、(4)蚕糸業対策、(5)工業関係、(6)輸出工業対策、(7)土木交通の諸分野にわたって予算措置をしたと説明している。食糧増産中最も重要な米は、昭和一五年一〇月に「米穀管理規則」が制定されて地主・農民から国家が米穀を強制的に集荷配給することになったので、そのための農業倉庫施設費などが計上されていた。国策遂行ないし銃後諸対策上緊切な諸施策を網羅した結果、昭和一六年度当初予算の総額は一、四〇五万余円で、前年度より四七六万七千余円の増加となった。もっとも、昭和一五年税制大改革による財政措置で小学校教員の給料が市町村から府県の負担に移管したので、新設の市町村立小学校教員費三八一万余円を差し引くと、前年度当初予算との増加率は一割程度にとどまった。
 こうして銃後諸対策と予算措置に追われるかたわら、中村知事らが陳情を繰り返していた加茂川・石手川統水事業のうち加茂川河水統制事業が三津浜港改良事業とともに国庫補助が付けられ実現することになった。水力発電の急速な進展及び食糧増産と開田開畑を中心とした農業の近代化という社会的経済的要請を背景に多目的ダムの建設推進が叫ばれていたが、昭和一五年に至り河水統制事業の国庫補助制度がようやく整い、加茂川河水統制事業は他県の四河川とともに最初の国庫補助統水事業に指定されたのである。この予算を審議するため、昭和一六年一〇月臨時県会が開かれ、四年継続事業の総工費六七七万円(国庫補助一二三万三、〇〇〇円、地元寄付七〇万円、県債四八三万七、〇〇〇円)の特別会計予算案が提出された。中村知事は、この事業は、道前平野六、〇〇〇町歩の干水害の除去を図り食糧の増産を確保するとともに国防国家完成の基本である工業生産力の拡充に資することを目的とした事業で、ダムが建設されると農業用水だけでなく常時多量の工業用水を供給でき、用水の落差を利用して相当量の発電も可能になる、この事業の完成によって広大な沿岸を埋め立てて工場誘致を図り、西条地方を臨海工業地帯に発展させる計画であると加茂川統水事業の将来性を強調した。
 昭和一六年(一九四一)一一月四日、中村知事は厚生省人口局長に転じた。転任に際し、中村自身が「本県に在任して一年三ヶ月、多少勝手がわかり、だんだん見当もつき、これからいろいろの問題も片付けたいと思ふとき此の異動に会し心残りが甚だ多い、全く店をひろげ過ぎて、これと云ふ目鼻のついたものもなく去ることはまことに地方民の方々に御迷惑千万である」「知事たるものは少くとも四、五年は一定の個所に居るべきでなくてはならぬとつくづく思はされる」(「海南新聞」昭和一六・一一・五付)と語っているように、石手川統水事業の着工、銅山川疏水事業の変更、肱川治水、八幡浜の港湾改良、松山市と道後湯之町との合併など多くの問題が未解決のままで残された。この時期、知事は中央官庁の局長に準ずる地位に過ぎなくなり、内務官僚たちが定期異動の形で赴任し、離任していった。こうした翼賛体制下の一地方官としての知事の異動は、太平洋戦争開始以後一層激しくなった。

 昭和一五年の税制改革と県財政

 昭和一五年三月、米内光政内閣によって中央・地方にわたる画期的な税制改革が実施された。軍事費は年々膨張を続け、しかも戦局の長期化の中で従来の税制のままの一時的部分的な増税では国家歳出を賄うことはできなくなっていた。また時局下の銃後活動として政府より地方団体へ委任される国政事務は年々急激に増加し、貧窮な地方団体はその財源上から対応できなくなっていた。一五年の税制改革は、戦時財政の確立が主目的であり、そのためにも地方団体間の著しい不均衡の是正、財源欠乏の解決が必要であった。
 この税制改革で、国税は所得税・法人税などの所得課税中心の体系に変わり、税の弾力性がつき収入の増加も容易になった。「地方税法」によって施行された地方税制の主要な改正点は、(1)収益税である地租・家屋税・営業税を地方の財源としたこと、(2)市町村税戸数割を廃止し、市町村民税を新設したこと、(3)雑種税及び市町村特別税を整理したこと、(4)目的税制度を整備拡充したことなどであった。この新地方税制度では財政の不均衡を是正することはできないので、「地方分与税法」で、地方税の間接課徴形態として地方分与税制度が創設された。地方分与税は、還付税と配付税からなっている。還付税は、地租・家屋税・営業税をいったん国税として徴収し、これをそのまま徴収地の地方団体に還元交付する分与税で、地方負担の公平を期するために設けられた。配付税は、国税として徴収した所得税・法人税の一七%・三八%と入場税・遊興飲食税の五〇%の合計額を一定の標準をもって地方団体に配分交付する分与税で、これにより財源の調整を図ろうとした。こうして成立した新地方税制は財政の中央集権化を制度的に定着させることになった。
 昭和一五年八月二八・二九日の両日、愛媛県では財税制改革に伴う一五年度歳入歳出予算の大幅な更正追加予算を審議する臨時県会を開いた。その予算説明の中で、中村知事は税制改正が本県に及ぼす影響を予測して、第一に県税・市町村税を通じてほとんど五〇〇万円見当の軽減となる、第二に直接国税は三〇〇万円以上の増加見込みである、第三に国税・地方税を通じて相当の負担減となると述べている、表4―6の「国税・地方税の推移」のうち昭和一五年の県民負担を見ると、第一の県税・市町村税合計と第二の直接国税はともに知事の税額の予測とは大きな誤差があるが、減額・増額の予想は当たっている。しかし第三の国税・地方税を合わせた県民負担は予測とは逆に前年比一九・四%の三七三万二千円も重くなっている。また昭和一五年以降の税額の推移を見ると、直接国税の伸び方は急激で税制改正の移行が終了した一八年度には一四年度の四・四倍になっている。逆に県税負担は一七年度四四・八%、一八年度三〇・四%も軽減されている。
 こうして昭和一五年の税制改革で、直接国税は増徴し、地方税は軽減された。県財政は、戦時予算歳出面の増加によって歳入総額も急増した。財源は県税が減少した分だけ地方分与税と国庫補給金で補われ、歳入全体の中で大きな比重を占めるようになった。表4―7の歳入県税・税外収入の構成比を見ると、歳入全体の中で占める国税付加税と県独立税の割合は、同一四年の一五・四%、一二・五%から同一五年には八・九%、四・四%に、税制改正の移行期が終わる昭和一八年度には両税合わせて四・四%に下落して、地方分与税に大きく依存している。これらの県税収入と税外収入の割合は、昭和一五~一七年三割五分対六割五分程度の比率であったのが、同一八年には後者が八割台に達し、そのほとんどを国庫補給金に頼っている。地方分与税と国庫補給金の名目で政府から分与される歳入額は、昭和一五年度五三・八%、同一八年には七八・三%と県財政の中で極めて高い比率を占めるようになったのである。

 畠田・福本県政と県行政機構の改革

 太平洋戦争開戦の一か月前、昭和一六年(一九四一)一一月四日に畠田昌福が内務省地方局から本県知事に就任した。畠田は、明治三〇年六月兵庫県に生まれ、大正一一年東京帝大法学部を卒業、福井県属を振り出しに、群馬県理事官、愛知県・東京市事務官、秋田・福島・神奈川各県警察部長を歴任して、昭和一四年内務省書記官・地方局監査課長になった(資近代4五五四)。
 昭和一六年一二月八日、我が国は米英両国に宣戦を布告して太平洋戦争を開始した。折から閉会を迎えようとしていた愛媛県会は、九日緊急動議で、「吾等百二十万県民愈々鉄石ノ団結ヲ固クシ、各自各々其本分ヲ尽シ益々職域ニ於ケル奉公ニ努メ、銃後ノ完璧ヲ期シ、以テ聖慮ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス」との時局に対処する決意表明を行った。一〇日、畠田知事は、決戦遂行挙県一致の覚悟を強調する告諭を発した(資近代4五六六~五六七)。
 昭和一七年元旦の年頭所感で、畠田知事は、戦争の長期化を覚悟して生産に励み消費節約して防衛に任じ、必勝の信念を堅持して鉄石の団結を固め総力傾倒して聖旨に応えなければならないと県民に要望した。大政翼賛会県支部では、昭和一七年の運動方針を貯蓄増強・生産拡充・戦時生活徹底を三大目標にして、県民運動を盛り上げることにした。この目標達成の推進団体として、一月一〇日全国に先がけて愛媛県翼賛壮年団が結成された。三月一七日の第三回協力会議に続いて七月九日第四回協力会議を開催、貯蓄増強運動の効果的方策を議題にした。会議では、貯蓄奨励の統制と常会の活動促進、各金融機関の提携による統一ある貯蓄増強運動の推進、死蔵物資の活用など生活費の低減による貯蓄の増強、個人収入現金の金融機関預け入れ通帳払い制実施や未婚者貯金の強制などが提案された。
 開戦時の県政を慌ただしく担任して、畠田昌福は昭和一七年七月七日陸軍司政長官に栄転した。本県知事の後任には内閣情勢局第四部長の福本柳一が任命された。福本は、明治二九年八月に岡山県に生まれ、大正一一年東京帝大法学部を卒業した。一〇年間神奈川県事務官として勤務した後、福井・新潟各県の警察部長を経て昭和一二年内務省社会局軍事扶助課長となり、土木局道路課長・警保局図書課長を歴任して、内閣情報局に入った(資近代4五八〇)。七月一五日に着任した福本知事は、七、八月巡視に励んで県内事情の把握に努め、部長、課長から所管事務の説明を求め、大政翼賛会と関係団体の役員と意見交換の機会を頻繁に持った。
 昭和一七年二月一日行政簡素化実施のための一連の勅令が公布され、地方官官制は知事官房と内政部・経済部・警察部の三部制に統合された。本県は一一月一日付で機構改革を行った(資近代4五八九~五九九)。これにより、従来の知事官房と総務部・学務部・経済部・警察部に属した各課の廃合・所管替えが実施された。総務部に属した庶務・人事・会計・統計の各課は知事官房に移った。また振興課は地方課と改称、旧学務部の社寺教学課や警察部から移った衛生課とともに内政部に所属した。これに伴い、経済部では経済統制課が廃され、警察部には旧学務部の職業課が移管した。刷新された県行政機構の部課を示すと表4―8のようであった。この行政機構の簡素化に伴い、県は政府の指示による本庁二割・作業庁一割の定員削減を断行、奏任官二七人、判任官二六八人・県吏六三人・雇一二人計四八六人を減じ、本庁一、六六二人・作業庁一、六一一人に整理した。
 県行政機構の改革に続いて、大政翼賛会県支部事務局の運営強化も図られた。支部長(県知事)の下には新たに事務局長が置かれ堀本宜實を任じた。従来の庶務部・組織部は庶務部・実践部に変わり、必要に応じ錬成部を設けることにした。また傘下の諸団体の統制運営に関する事項を審議するため地方統制委員会が設置された。一一月五、六日に開かれた第五回愛媛県協力会議には、福本知事の指示で県の部長がそろって出席、県と大政翼賛会県支部との表裏一体の関係を際立たせた。会議は、第一部国民思想の善導強化に関する事項、第二部生産拡充に関する事項、第三部国民生活の確立その他に関する事項について、各部委員会に分かれて委員の持ち寄った方策を発表協議して委員長が本会議で報告、県に善処方を求め、聖戦完遂の決議をして閉会した(「第五回愛媛県協力会議録」)
 昭和一七年通常県会で、福本知事は一八年度予算については、未曽有の広大な地域・海域で展開されている決戦を支えるための軍需を充たす生産力増強に傾斜した予算措置をしたと述べた。とりわけ全国有数の地位を占める木材・木炭の増産、供出を促進するため、銅山川筋県営林道を総額九九万円三か年継続市業で開設、町村林道開設補助に一七万余円の増額予算を計上するなど、林業への重点的てこ入れが注目された。また、「人的資源」の強化とその資質の向上が望まれるとして、保健・教育関係の新規計上・増加額合わせて一〇〇余万円を計上した。これにより、保健面では全国で上位にある結核死亡率を逓減するための集団検診と結核撲滅運動の強化、保健所の増設と保健婦の配置などを図り、教育面では市立今治工業学校の県立移管など工業教育の振興拡充をしようとした。銃後の諸施設については、防空通信施設の整備充実、軍事援護国民徴用援護の強化、中小商工業の整備救済、常会指導並びに国民貯蓄奨励などを進めるためにそれぞれ予算を増額した。この結果、歳出予算総額は一、九三〇万円に膨れ、前年度当初予算の二〇%増となった。
 県が推進している二大土木事業のうち銅山川疏水用水改良事業は、昭和一二年の着工以来継続していたが、隧道工事の困難と資材の入手難、物価の高騰による工事費増加などで当初の計画では事業遂行不能の状況にあった。このため、知事は国庫補助の増額や発電計画樹立などの事業変更を関係官庁に要望した。一方、加茂川河水統制事業は、総額六七七万円で昭和一六年以降四か年で黒瀬ダムを築設する計画であったが、用地買収、支障物件移転、補償費などの交渉に手間取り、予定の作業が遅延していた(資近代4八一九~八二一)。この加茂川統水事業と一体の事業であった西条臨海地帯造成事業は、昭和一八年度から埋立造成費三分の一の国庫補助支給が決定したので、福本知事は一八年六月に臨時県会を召集して、昭和一八~二〇年の三か年継続事業計画と総額一、一五九万円(国庫補助二八五万円、県債八七三万九、〇〇〇円、一般歳入一、〇〇〇円)の予算案を提示した。議会は、加茂川河水統制事業を併行して予定の年限内に事業を完成、なるべく速やかに埋立地の処分をして工場を誘致し、将来県の財政に悪影響を及ぼすことがないよう留意されたいと要望して、これを認めた。しかし太平洋戦争の深刻化に伴い、加茂川河水統制事業・西条臨海地造成事業ともにほとんど進展を見なかった。前者は、一六~一九年度に二四万余円、後者は一八、一九年度に一一万三千余円を支出したのみで、いずれも未完成に終わったのである。
 福本知事は、昭和一八年度に一五年税制改革の移行期が終了したことと県債の増嵩にかんがみ、助成整理及び歳出費額の調整を行って将来の県財政の見通しを立てるため、財政計画の作成を命じた。この昭和一八~三二年度「愛媛県財政計画書」を残して、昭和一八年七月一日付に東京都経済局長に転じた。

 相川県政と水害復旧

 東条内閣はかねて東京都の誕生と全国地域ブロック単位の地方行政協議会設置をすすめていたが、昭和一八年(一九四三)七月一日付で、東京都長官大達茂雄と近畿地方協議会長兼大阪府知事河原田稼吉、東北地方協議会長兼宮城県知事内田信也ら九地方協議会長を発令、それに伴う総数一一〇名に及ぶ地方官大異動を行った。愛媛県知事には四国地方協議会長を兼務する相川勝六が就任、別に地方協議会の専従運営に当たる勅任参事官として土肥米之が鳥取県知事から転じ着任した。本県庁の幹部も一斉に更迭され、内政部長に山口乾治、経済部長に渡辺瑞美、警察部長に石原虎好、官房長に山川滋がそれぞれ補任された。
 相川勝六は、明治二四年一二月佐賀県に生まれた。大正八年東京帝大法学部を卒業して千葉県属になり、以来、徳島県理事官、警視庁警視、宮内大臣秘書官、内務書記官、警視庁刑事部長、京都府、神奈川県警察部長、内務省保安課長、朝鮮総督府外事課長などを歴任、昭和一二年宮崎県知事、同一四年広島県知事、同一六年愛知県知事を経て同一七年六月大政翼賛会実践局長になり、今回の異動で四国地方行政協議会長兼本県知事に就任した(資近代4六一八~六一九)。「苦労多かった翼賛会の経験を生かして本当の意味の官民一体の地方行政をやって見たい」との決意で相川は赴任、七月二一日夜から三昼夜連続した大雨による災害の復旧が初仕事となった。
 二一日、四国南方の海上に達した台風は、二三日ごろまで停滞して記録的豪雨を降らせ、二四日に愛媛県を北上して日本海に出た。愛媛県では降雨激しく、肱川・重信川・石手川その他の河川が氾濫して大災害をもたらした。特に肱川の大氾濫で大洲盆地は一大湖と化し、街は水中に浮かび、舟によって救援を行った。被害状況は、死者一一四人、傷者一二七人、行方不明二〇人、家屋全壊一、一三二戸、同半壊一、四五三戸、同流失九一一戸、同床上浸水二万七、〇二〇戸、道路損壊二、〇一二か所、堤防決壊一、〇七四か所、橋梁流失三八七か所、田畑流失五、八九六町歩に達し、死者の数は島根県の三二四人に次いで多かった(気象庁編「日本気象災害年表」)(「昭和一八年水害状況報告」資近代4六三一~六三九)。
 相川知事は、二三日県首脳部会議を召集してあらゆる機関を通じての情報収集を指示、二五日、日曜日にもかかわらず登庁、各部課長を集めて災害の応急対策につき終日協議して、県臨時対策本部を設置して迅速果敢に復旧事業を展開することにした。対策本部は相川知事が本部長としてこれを統括、総務部(部長官房長)、救恤部(同内政部長)、復旧部(同経済部長)、資材部(同経済部長)、勤労動員部(同内政部長)、交通輸送部(同警察部長)、情報通信部(同警察部長)を置いてそれぞれの分掌事務を遂行するほか、災害対策協力部を付設して翼賛会県支部と翼下の各種団体に協力を求めることにした(資近代4六三六~六三七)。
 各中等学校や青年団も直ちにこれに対応した。松山市では二六日緊急中等学校長会議を開き、二七日松山商業三〇〇人垣生村、北予中学二〇〇人岡田村、松山中学五〇〇人北伊予村、新田中学三〇〇人、松山商業二〇〇人、松山農業一〇〇人拝志村、北予中学二〇〇人潮見村、愛媛師範二〇〇人荏原村、松山高等学校三〇〇人伊予鉄道郡中森松線復旧といった学徒動員の配置を決め、三一日まで連日延べ九、七五〇人を出動させることにした。二七日の復旧勤労初日には、相川知事が重信川・石手川・小野川沿線の災害激甚地を視察し、北伊予村中川原では巻脚絆、地下足袋の装備でモッコを担いで石を運び、地つき櫓の綱を引くなど率先垂範を示した。この地には松山中学五〇〇人、青年学校教員養成所一〇〇人、義勇軍九〇余人と北伊予・南伊予両村の村民が作業に励んでいたが、これらの勤労奉仕隊に向かって県知事は「この現状は涙なくしては見られない、まことにお気の毒であります。しかし諸君、これしきのことに気を落としてはいかん、私も大いにやる、諸君も頑張ってくれ」と激励した。最も水害の激しかった大洲では、大洲中学校・青年学校生徒をはじめ勤労奉仕隊総出で肱川堤防の復旧に従事した。
 こうして学徒隊・勤労報国隊による奉仕で応急作業が進められたが、災害復旧・土地改良工事の予算措置も取れないうちに、九月二〇日の台風で本県は再び風水害に見舞われた。死者五名、傷者三名、行方不明三名と人的被害は少なかったが、道路決壊二五六か所、堤防決壊三五九か所、山崩れ二〇か所など応急復旧をした箇所の多くが再び破壊した。
 相川知事は翌二一日再び水害対策本部を設置、「第一次災害当時これぞ天の試練であって官民一致これが復旧に邁進しなければならぬ、戦争だ、増産だ、復興だ、やってやってやり抜こうと起ち上ったのであるが、今回二度目の風水害に見舞はれ、いよいよ試練の鞭が加はった」「百二十万県民は真の非常時を身辺に体験する秋が来たのである、不退転の勇気をもって起ち上れ」と新聞を通じて県民を叱咤した。これを機に、知事は官民一体の戦力増強対策本部を設置して県行政の総合運営を計り、その下で全庁員を総動員して特別勤務体制を敷くことを指示した。一二月一一日県戦力増強対策本部が正式に設けられて勤労・生産・貯蓄など九本部の部長と県会議長・県農会長・県町村会長など顧問団の初会合が県会議事堂で持たれた。相川総本部長は戦力増強本部設置の趣旨を述べ、一二○万県民の総力を結集して一途戦力増強に挺身する決意を表明、県行政のあらゆる部面を有機的に総合しすべてを戦力化するための具体的方策、生産増強、食糧増産完遂のあい路打開策などにつき協議がなされた。
 二度の台風による未曽有の災害復旧につき、知事は上京して関係官庁にその惨状を報告して助成を要求した。その結果、一〇月二三日に「風水害ニ因ル愛媛県災害土木費国庫補助規程」が勅令で公布されて、復旧土木県工事に八割五分、市町村工事に八~九割、耕地復旧に五割~六割五分、公共施設復旧に七割という高率補助が得られることになった(資近代4六五一~六五二)。これにより、昭和一八年追加予算で二、八四五万円、同一九年当初予算で一、四六六万円の国庫補助が支給された。非常時国家財政にもかかわらず多額の国庫補助を引き出した相川知事のらつ腕に県民の信頼は高まった。「愛媛合同新聞」昭和一八年(一九四三)一一月二五日付は「相川知事は全く乱世の英雄を想はすやうな人物であって、この決戦必勝下の愛媛県政を運営するにはまさに人を得たりといふべく、相川知事はこの点充分信頼し、任せて置いて少しもあぶなげのない」など、全面的な傾倒ぶりを示した。
 昭和一八年通常県会で、相川知事は戦争目的の達成と未曽有の災害復旧に県の総力を結集して総額二、三八八万円の予算を計上したと述べた。災害復旧予算の大半は昭和一八年追加予算に計上されて総額四八六万五千余円にのぼった。その内訳は国庫補助金が二、八四五万余円で歳入の約八二%を占め、残りの六四〇万円余が県債で賄われた。この災害復旧費の追加で昭和一八年度予算は倍増して七、二四八万余円となった。知事は、追加予算の概要説明にあたって、学徒・各種報国団体、町内会、部落会及び香川県の特別勤労奉仕隊の協力で迅速に災害復旧応急工事が完了したことに感謝の意を表するとともに、「県ノ総力ヲ挙ゲテ断乎災害復興ヲ図リ、戦力増強上我ガ愛媛県ノ負ヘル使命ヲ見事ニ完遂シタリ」と語った。
 常に食糧増産を叫び、″食糧増産知事″とあだ名された相川知事は、九月六日の第七回翼賛会県支部協力会議でも「戦争は平素やれなかったことをやるのが当たり前である、食糧増産も平素やれなかったことをやり遂げるところに意義がある、肥料がない、油がないといってゐては増産は出来ない、なければどうするか、そこに創意と工夫を必要とする、この創意と工夫を練るのが協力会議ではないか」と挨拶した。また協議の中でも地主・篤農家の大動員、空閑地の利用、蔬菜などの自給態勢、女子の労務活用などについて熱弁を振るった。県会では、食糧増産確保の対策として、(1)農業技術指導の強化を企図し、農事試験場を農事指導場に変えて技術指導の実を挙げるとともに地方事務所へ農業技術員を増置する、(2)自給肥料増産のため緑肥採種園の設置を奨励する、(3)甘藷必需蔬菜の増産については原種圃の拡充、採種圃の設置奨励、青果物出荷促進施設などにつき工夫する、(4)農地の改良は食糧増産の基本であるから広範囲にわたり改良事業を実施するなどと答えた。また木材・薪炭の増産確保のため大東亜戦争記念造林を督励、銅山川県営林道三か年継続事業を二か年に短縮して早期開さくを目指した。
 「愛媛合同新聞」昭和一八年一二月三〇日付は、社説「県紙としての歳末辞」で、昭和一八年の最大記録は我が愛媛県が四国地方行政協議会の会長所在県となったことであり、この機構に付帯して逓信局・財務局・軍需省監理部・大阪放送局松山分室などが設置されたことは本県及び県都松山市を飛躍発展させることになったと論じ、次いで相川県政に触れ、「天佑なるかな、相川長官の来県とその施設ぶりは十目十指、既に半歳の実地施政を親しく目撃して県下に一人の反対を叫ぶものなく、百二十万挙ってその徳と知と行とに敬服讃嘆してゐるのは本県の又となき幸福である。特に古今未曽有と称せらるゝ両度の大水害に対する善処の快腕は今更反覆の要なきも、その復旧に膨大なる国庫予算の獲得の如き歴代知事の足跡と同一視すべからざるは勿論、我らが此の長官兼四国会長に心服する所以はむしろその人格にあり、中央を動かす偉力も亦然るべく、四国三県を引ずる威力も亦然らんと思ふ」と評価、知事の長期在任を期待したが、昭和一九年四月一八日、相川勝六は厚生次官に栄転した。相川は一年に満たない本県知事在任であったが、県民に強い印象を刻んで去り、翌二〇年には小磯内閣の厚生大臣に抜擢された。戦後、追放解除の後昭和二七年宮崎から衆議院議員に当選した。

 四国地方行政協議会

 地方行政協議会は、昭和一八年(一九四三)七月一日に「地方ニ於ケル各般ノ行政ノ綜合連絡調整ヲ図ル」ことにより生産の増強と国民生活の確保を達成することを目的として設置され、全国を九地方に分けた。
 第一回四国地方行政協議会は、八月九・一〇日の両日愛媛県庁で開かれた。協議会には相川会長以下香川県知事小菅芳次・徳島県知事野田清武・高知県知事高橋三郎・地方参事官土肥米之に加えて、広島財務局長・神戸税関長・広島地方専売局長・広島逓信局長・神戸海務局長・広島鉄道局長・高知営林局長ら一九名が委員として出席した。会は、土肥主幹の開会の辞に始まり国民儀礼を挙行、相川会長が挨拶した後、四県民間人の代表八五名を招請した戦力増強懇談会を臨時に開催、生産増強に関する意見交換を行った。本県農会会長岡本馬太郎・県水産組合長村上紋四郎らが食糧増産・水産資源活用の方途などについての意見を述べ、午前午後九時間の熱心な討論を展開した。食糧増産及び需給確保に関する主要な意見開陳を挙げると、(1)農地の改良・用排水の改善、特に湿田の急速改良、(2)主要食糧の増産を期し作付け制限の強化、特に蔬菜・西瓜・煙草などの作付けを米・麦作に転換させる、(3)甘藷の大増産を期するとともに、創意工夫により甘藷飯・甘藷麺を普及し食糧の供給調整を図る、(4)各県は政府の払下げ米に依存することなく、県内において米の自給態勢実現に努める、(5)水産物の増産を図るため沿岸漁業の企業統合を行い、生産資材を円滑に配給し、労力を調整して大衆に適する漁獲の増強を図るなどであった。
 協議会第二日は、委員が第一日の戦力増強懇談会の活発な論議の後を受けて協議した。協議案件は、(1)食糧増産及び需給確保に関する事項、(2)五重点産業の生産増強に関する事項、(3)海陸輸送力の強化に関する事項、(4)戦力増強並びに災害復旧に関する事項などであった。午前中は政府出先局長の要望に終始したが、甘藷飯の昼食を喫しての午後は、甘藷の加工、畑作の転換、湿田の改良、郷土食の徹底などについて各県の実績交換があり、四国四県が各々食糧自給圏を確立するとともに物資を融通し合い、輸送力についても協力態勢を取ることを確認した。「愛媛合同新聞」八月一一日付は、相川会長の独創で四国四県民間有力者を招請しての戦力増強懇談会を開催したことが画竜点晴となり協議会の意義を深め、従来の割拠主義を放てきして四国四県を全体としすべて国家的見地に立って大所高所から論議されて、戦力増強の適策なったと評価した。
 第二回四国地方行政協議会は九月一七日愛媛県庁貴賓室で開催された。相川会長の挨拶の後、土肥参事官が、第一回協議会の決議に基づいて瀬戸内海陸海運総合計画運営に関する会議が先般広島県で開かれたこと、全国協議題であった食糧に関する事項は政府において第二次緊急食糧対策となって具体化していることなどを報告した。協議会では、陸上運送の強化に関する具体的方策、四国四県内の戦力増強上資材労力技術などの相互融通援助に関する件など前回の留意事項が提示され、解決策が図られた。
 地方行政協議会は官制上では毎月開会する建前であったが、各県ともに非常時県政施策に追われて毎月は開けず、第三回が一二月、第四回が一九年一月、第五回が三月、第六回が四月、第七回が五月に召集された。四月一二日に開催された第六回会議では木材薪炭と食糧増産上平地材伐採が必要であると決議して政府に報告したところ、国策に採り上げられてその具体化をみるという成果をあげた。しかし全体的には会合を重ねるにしたがって各県・特別官庁から提出される議題は蒸し返し事項が多くなり、次第に問題が小さく領域が狭められていく傾向にあった。「愛媛合同新聞」昭和一九年六月二七日~七月三日付は七回連載で「四国地方行政協議会 戦力増強一年の戦果」を特集したが、その中で「四国四県の相互が自力で起たんとする問題よりも、特別官庁に対し或ひは政府に対する要望事項の方が多い。特別官庁の提出問題の如きは殆ど依頼事項に終始しており、自家の仕事の便利都合からの四県に対する協力方の依頼であり、要員、工員の斡旋方まで求めてゐる場合もある」「会議七回を通じて見るに実行に移し放し、依頼し放しとなってゐる問題がかなり多いと思はれる」と指摘している。

 雪澤・土肥知事と非常時県政・財政

 相川の後任には、京都府知事の雪澤千代治が四国地方行政協議会長・愛媛県知事に就いた。雪澤は、明治二二年四月長崎県に生まれ、大正八年東京帝大法学部を卒業、静岡県属を振り出しに岩手県庶務課長、兵庫県警視、京都府事務官・外務事務官・内務事務官などを歴任、昭和六年新潟県学務部長となり、内務省土木局港湾課長・大臣官房都市計画課長を経て、同一二年六月岩手県知事、同一五年熊本県知事、同一七年愛知県知事、同一八年京都府知事になった(資近代4六七一~六七二)。
 雪澤千代治は本県知事に赴任して間もない五月一二日に第七回四国地方行政協議会を開催、同月三〇日には臨時県会を開いた。この県会召集の目的は松山港修築と肱川改修に関する案件の審議であった。松山港修築は、大可賀海岸西端に防波堤を築造して外港を形成し一〇万平方メートルの埋立地を造成しようとする計画で、三か年継続事業工事費四八〇万円を投ずるものであった。この財源は、国庫補助二二三万九千円、地元などの寄付一一六万八千余円のほか一三九万二千余円の大部分を県債で補う案であった。肱川改修は、昭和一八年水害による破損箇所を抜本的に改修するため内務省直轄事業として総額三三二万円を投じて三か年継続事業として施行するものであった。しかしこの事業は大洲町・新谷村の住宅地帯の防護が主体であったので、議会では喜多郡選出の山田庄太郎らによる肱川流域の全面的改修を内務大臣に要求する意見書が提出され可決された。
 一一月二四日に開会した通常県会には総額三、四七二万円の昭和二〇年度予算が提示された。雪澤知事は、決戦体制の確立強化を目標として、既定経費は整理圧縮、新規経費は緊急かつ確実なものに限定、食糧の増産、生産力の拡充、教学の振作、国民生活の安定確保、国土防衛施設の充実など重点的効率主義で予算編成したと述べた。しかし知事のいう既定経費の整理圧縮は衛生関係費の予防費や社会事業費の厚生費削減などわずかに見られる程度で、経常部教育関係費一、二五七万余円、臨時部土木関係費九七四万余円などの大幅増額により、前年度当初予算額の四五%増という猛烈な膨張予算であった。戦局悪化の中での生産力激減は戦時統制経済の破綻を招き、公定小売価格と生産価格の格差の拡大を補助金や助成金の散布で糊塗しようとする国・県の予算編成方針はインフレを拡大し、国庫・県財政を一層硬直させ窮迫に追い込んだ。本県の昭和二〇年度予算が前年比四五%という歳出の増大にもかかわらず、県税収入は増税しても前年比の約一八%増に過ぎなかった。このためいきおい財源を国庫支出金・地方分与税と県債に依存しなければならなかった。特に県債の発行は前年度の六〇%増という県財政の異常事態となった。
 県会では、議員たちが、増税と貯蓄を強制され、配給物資だけでは生活できず闇物資に頼らねばならない県民の窮状を訴えた。また「賃金統制令」による公定賃金や政府の定めた公定物価が維持できなくなって統制経済が破綻している実情を指摘し、多過ぎて弊害となっている統制組合の整理簡素化と監察、合理的な供出割り当てや意欲的な食糧増産に取り組む基盤整備を求める意見が相次いだ。しかし戦況悪化で破局にひんしている国内経済の下では、知事以下の理事者は「各位ノ御協力ニヨッテ最善ヲ尽シタイ」といった答弁を繰り返すだけで実のある方策を示すことは少なかった。
 雪澤知事は、昭和一九年(一九四四)八月二九日に「神州護持ノ告諭」を発し、「驕敵米英ヲ撃滅シ皇道ヲ世界ニ光被セムガ為ニハ彌々戦意ヲ固クシ、本県伝統ノ剛健不撓ノ精神ヲ昻揚シテ凡ユル苦難ヲ克服シ如何ナル窮乏ニモ耐ユルト共ニ、県ノ総力ヲ軍需並ニ食糧ノ増産卜国土防衛ノ完璧ニ結集シ、物心両面ニ亙リ戦力ヲ急速ニ増強セザルベカラズ、而シテ其ノ方途ハ一ニ官民互ニ相信頼シ真ニ百二十万県民総親和総努力ノ実ヲ挙グルニ在リ」と県民を叱陀した(資近代4六七二~六七三)。この物心両面にわたる戦力の急速な増強のため、知事の創意になる「挙県航空機増産突撃運動」を九月五日~一〇月二〇日の一か月半にわたり実施した。この運動は、一二〇万県民が飯米の一部を日夜航空機の生産に挺身する工員・学徒に贈呈して航空機の増産にまい進してもらおうという趣旨で、農家一人一合・一戸五合、一般一人一合・一戸二〇銭を拠出割り当て、米麦一、七〇〇石を集めて産業戦士に一日一合の増配と副食物を支給しようとした。九月三〇日には、相川知事の在任中に設置された県戦力増強本部を改組、総本部の下に戦時生活指導本部・食糧増産本部・木材薪炭増産本部・軍需生産増強本部・勤労機動配置本部を置いて県庁の非常時態勢を強化した(資近代4六七三)。
 昭和二〇年(一九四五)になると本土各地で米機の空襲があり、三月九日には東京が大空襲を受けた。三月一三日の第一四回四国地方行政協議会は、大規模空襲の熾烈化にかんがみ警防、罹災者援護、防空訓練、官庁の決戦態勢などについて意見交換が行われ、山野草の食糧化や自家製塩の徹底など未利用食源の発見工夫、未稼労務者の機動配置、隠退蔵物資の根こそぎ動員などの対策が話し合われた。
 本土決戦が叫ばれる非常時下、政府は四月二一日付で地方長官の異動を行い、本県知事雪澤千代治は勇退、後任には四国地方行政協議会参事官として本県庁で相川・雪澤両会長を補佐してきた土肥米之が昇格した。この人事とともに愛媛県に置かれた四国地方行政協議会は軍管区の関係で香川県に移り、同県知事になった木村正義が会長に就任した。この地方行政協議会は、六月一〇日戦場行政確立を企図して地方総監府と改称した。
 土肥米之は、明治三一年三月広島県に生まれ、大正一一年東京帝大法学部を卒業、三重県属を経て同一二年九月愛媛県警視・警務課長に着任、一四年八月まで在職した。昭和七年から島根・新潟・北海道の各警察部長と宮城・兵庫・大阪の総務部長をほぼ一年の任期で歴任、同一七年一月鳥取県知事に就任し、同一八年七月四国地方行政協議会参事官になった。「愛媛新聞」四月二二日付は、奔放な相川知事や温厚な雪澤知事に過不及なく調子を合わせ四国の潤滑油の役割を果たしたと土肥を評し、四国行政協議会が香川に移っても土肥知事が在任する以上四国の指導県としての立場は変わらないだろうと期待した。土肥知事は「本県は食糧の点、軍需生産の点、国土防衛の上において重大な地位を持ってゐる、戦局はいよいよ苛烈凄愴を極める現状であるから、必勝態勢をますます固めて最大の努力を重ねて行きたい」と就任の弁を述べた。土肥県政は食糧増産などのほか軍部の要請で本土決戦に備えての予土連絡道路(西条―高知間)の建設、松山飛行場の整備に追われた。
 空襲が激しくなる中で、五月二七日国民義勇隊県本部の結成式が護国神社で挙行され、土肥本部長は「皇国の興廃をこの一戦に賭し、重大危局突破のため戦ひぬかねばならぬ」と檄を飛ばした。県義勇隊は、本部長土肥米之・副本部長山中義貞以下郡連合隊長・顧問・参与の人選を公表し、男女成人と学徒はそれぞれの職場・学校・住居区で義勇戦闘隊を結成した(資近代4六七八~六八一)。これに伴い、大政翼賛会愛媛県支部は六月一二日に解散した。
 こうして国民義勇隊は本土防衛に備えたが、大空襲に何らなすところなく焼土の片付けに追われるのみであった。八月一五日終戦、終戦の詔勅を受けて、土肥知事は「承詔必謹飽く迄国体を護持し、君民親和、一致団結して臥薪嘗胆未曽有の艱難に当らざるべからざるなり、而してこれが難局打開の過程には戦闘以上の苦難と覚悟を要すべく、この際徒らに時局を痛憤し同胞互に相傷け経済的に社会的に道徳的混乱を惹起するが如きは皇国護持のため断じて執らざるところなり、我等百二十万県民は相扶け相励し、子々孫々と共に生きて皇国興隆のため不撓不屈、全身全霊を挙げて只管邁進せんことを期すべきなり」と県民に向けて告諭を発した。更に各部長を県庁会議室に集め、「いかなる事態に立ち至るかも知れない。この際軽はずみな行動は厳につつしまれたい。最後の力をふりしぼって最善の努力を……」と訓令した。
 この日から土肥知事以下県官は戦後処理に当たり、九月一七日本県に襲来して死者一五九名・家屋全壊二、六五五戸・道路損壊一、三四二か所という大災害をもたらした枕崎台風の応急対策にも追われた。一〇月二二日連合国軍が松山に進駐、県民に冷静な態度をもって臨むことを要請して、同月二七日土肥は本県知事を依願退官した。
 土肥の後任には大阪府内政部長であった豊島章太郎が本県知事に就任した。豊島知事は在任一年で岡山県知事に転じ、昭和二一年一〇月四日福岡県内政部長であった青木重臣が愛媛県知事に任命された。青木は五か月間の在職後依願退官、県知事選挙に出馬して当選、本県初の公選知事として占領下の戦後県政を推進した。

表4-6 昭和11~18年国税地方税の推移

表4-6 昭和11~18年国税地方税の推移


表4-7 愛媛県における歳入財源の構成

表4-7 愛媛県における歳入財源の構成


表4-8 昭和17年の改革による愛媛県行政機構

表4-8 昭和17年の改革による愛媛県行政機構