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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

5 紀行・随筆・評論

 御札行脚

 大正期に入り、第一次大戦を境に、紀行圏は国内から欧州へ広がった。河東碧梧桐は、全国の名山を踏破、石槌(ママ)山も取材し、大正四年(一九一五)『日本の山水』を出版した。同八年『支那に遊びて』を刊行、同九年から一年余欧州で美術眼も養った。矢内原忠雄(今治)は同九年から二年半欧州に留学、各地に旅した。県外人としては、田山花袋の『山水小記』(大正六年)、谷口梨花の『山水巡礼』(同九年)があり、吉田絃二郎の『木に凭りて』(同一二年)は新居浜の夏祭を、徳富蘇峰の『山水随縁記』(同三年)には松山城址・道後温泉の平福百穂の画も収めた。
 異色の紀行は、シカゴ大学人類学教授エフ・スタール『御札行脚』(大正八年)で、四国・九州・朝鮮など巡遊、「須多有」のお札を社寺に納めた。道後温泉を「神様の試されたる湯」と表現するなどユーモアに富んでいる。
 昭和期には、欧州から中近東が注目されてきたが、碧梧桐の北海道旅行『山を水を人を』(昭和八年)の例もある。高浜虚子は、昭和一一年(一九三六)欧州・中近東を吟行し、仏英などに俳句精神を鼓吹、仏の前衛派詩人と交歓し、『渡仏日記』を刊行した。安倍能成はハルビン・台湾など、新領土周辺に着眼、矢内原忠雄は南洋群島に伝導旅行、高橋新吉は「樺太紀行」を試みるなど、文芸人の紀行がある。
 なお、明治末期、陸軍少佐日野強(周桑郡小松町)は、中国西域の実地踏査を行い、北京・西安・安西・新彊省から英領インドに入り、カルカッタを経由して帰国し、『伊犂紀行』(上巻日誌之部・下巻地誌之部)(明治四二年刊)を著した。これは、シルクロードの地理風俗・産業・人文を詳説し、地図・写真を菊版六八二頁に収録したもので、中国経営に資する貴重な資料となった。
 県外人としては、江見水陰は、昭和九年、県内で講演し、『瀬戸内と四国』を刊行、一一月再度来松し、「坊っちゃんゆかりの宿」で没した。四国遍路については、下村海南・飯島曼史の『遍路』(昭和九年)があるが、高群逸枝は再び『お遍路』(昭和一三年)を著し、東福寺管長尾関行応の『四国霊場巡拝記』など、四国八十八ヶ所遍路記が相次いで刊行された。

 ところてん

 勝田宰洲(明庵 主計)は、子規門の俳人、『ところてん』(昭和二年)には、随筆・紀行・俳句をまとめている。安倍能成は、随筆家として『山中雑記』(大正一三年)をはじめ、大正一五年欧州から帰朝後、京城大学教授に就任、『青丘雑記』(昭和七年)、『静夜集』『朝暮抄』『時代と文化』など、朝鮮の風物に親しみ、昭和一五年第一高等学校長に転じ、『巷塵抄』など、滋味豊かに描いている。昭和一〇年代には高浜虚子の「霜蟹」、河東碧梧桐の『煮くたれて』、石田波郷の『俳句愛憎』なども刊行された。

 天弦と能成

 明治末期、片上天弦(伸)と安倍能成とは自然主義論争を展開したが、大正期に入って、天弦は評論集『生の要求と文学』(大正二年)『無限の道』(同四年)を出版、唯美的芸術至上主義者に転じた。大正四年早稲田大学に露文科設置のため、ロシアに派遣され、同六年ロシア革命、二年半留学後、トルストイ研究から理想主義的人道主義となり、『思想の勝利』『草の芽』(同八年)などを出版した。大正一三年早稲田大学を退職、再度渡露し、唯物史観的文学理論を確立し、『文学評論』(昭和元年)を刊行した。プロレタリア文学運動興隆期に、昭和三年四五歳で急逝し、「過渡期の道標」(宮本顕治)として高く評価されている。『片上伸全集』(三巻、昭和一三・四年刊)がある。
 安倍能成は、反自然主義者として、天弦・島村抱月らに反駁したが、大正期には西洋哲学の翻訳・著作・特にオイケンの思想を紹介し、『思想と文化』(大正一三年)を刊行し、大正デモクラシー期の青年に影響を与えた。
 竹内仁は天弦の実弟、阿部次郎の人格主義に対し、コミュニストとして批判し、土田杏村の理想主義観念化を攻撃し、反論、再批判をし、大正末期の評論界に生気を与えたが、大正一一年自殺、非業の最期を遂げた。
 矢内原忠雄は、昭和一一年東大教授、植民政策を講じ『民族と平和』を出版、その理念から、翌年「国家の理想」(中央公論九月)を発表、次いで講演記録「神の国」などを刊行したが、時局批判により発売禁止となり、東大経済学部教授の職を退いた。その真価は戦後評価されるにいたった。
 古谷綱武(宇和町)は、昭和一一年当時第一の人気作家を研究し、『横光利一』『川端康成』を出版し、批評文学で活躍した。同一七年以後は女性論・児童文学論に筆を染めて、フェミニストぶりを発揮した。
 宮本顕治(山口県)は松山高等学校卒、昭和四年雑誌「改造」の懸賞文芸評論に、小林秀雄の「様々の意匠」を抑えて、顕治の「敗北の文学」が当選、プロレタリア文学理論から芥川龍之介を敗北者と論断した。以後、文芸批評家として蔵原惟人と積極的理論指導者として活躍した。