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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

三 民衆娯楽・スポーツの普及

 演劇・映画の盛況

 大正時代の民衆には、演劇・活動写真(映画)などを観覧するのが最も手近な娯楽であった。「大正元年度愛媛県統計書」の警察統計によると、諸興行の種類は演劇・浮連節・浄瑠璃・活動写真・相撲・講談・琵琶歌・観世物・人形芝居・二輪加・舞手踊・奇術・万歳・軽業曲芸・拳闘・闘牛・狂言があり、これらの興行度数は四、一五八回で、うち演劇一、二四五、浮連節九一二、相撲三五五、人形芝居二二八、観世物一二九、活動写真一一八である。
 松山市には新栄座のほか寿座・末広座・朝日座などの常設劇場があったが、明治の末から大正の初めにかけて、今治座(今治)、大江座・寿美栄座(新居浜)、栄座・常盤座(西条)、融通座(宇和島)、寿座(八幡浜)、大正座・柳楽座(北条)、延寿座(菊間)、旭座(重信)、名越座(川内)、萬栄座・寿楽座(伊予)、福井座(久万)、内子座(内子)、新富座(長浜)、朝日座(大洲)、栄座(宇和)、巴座(松野)などが常設演劇場として建築・改築された。宇和島の融通座は町長中原渉の肝入りで町の劇場として建設され、こけら落としに初めてお茶子(女子従業員)が使われた。北条市出身の脚本家早坂暁は『ダウンタウン・ヒーローズ』(昭和六一年刊新潮社)の中で「わが大正座」と題し、「私の父は四国の田舎町ながら一軒の劇場を持っていた。劇場と書くのは少し面映いのだが、木造二階建て、定員は七百名・花道はもちろん・廻り舞台まで備えた本格的芝居小居だから、瀬戸内海に面した人口七千の町にとっては堂々たる劇場である」と書いている。大正五年(一九一六)二月に建てられた喜多郡内子町の内子座は、昭和六〇年に復元され内子町並みの名所になっている。
 大正二年五月改築したばかりの新栄座に井上正夫一座が来演した。一七歳で故郷伊予郡砥部村(現砥部町)を飛び出して演劇の道に入った井上が一六年振りに故郷に錦を飾り、トルストイの「疑」やエルクラン・シャトリマン合作「ベルス」などを熱演して喝采を博した。大正五年二月には島村抱月・松井須磨子らの芸術座が寿座に来演、その「復活」と「サロメ」は地方の好劇家を喜ばせ、街にはカチューシャ可愛やの歌が流行した。大正一〇年沢田正二郎の新国劇が「月形半平太」を新栄座で演じ、同一三年には中村鴈治郎・松本幸四郎らの一座が新栄座に来演して郷土ゆかりの「大森彦七」や「勧進帳」の当たり狂言が人気をあおり、一等八円二〇銭・大衆席八〇銭という破格に高い料金にもかかわらず早朝から観客が詰めかけた。この大歌舞伎一座は宇和島の融通座でも興行した。こうした著名な役者のほか、新旧劇を交互に演ずる両面芝居や浪花節などが常設劇場に来演した。このころが演劇芝居興行の絶頂期であった。
 人形芝居は阿波・淡路の吉田傅次郎・市村源之丞らが県下を巡業、常設の劇場で興業したほか農山漁村では小屋掛けで開演して親しまれた。また東宇和郡の俵津村(現明浜町)の俵津文楽、西宇和郡三瓶村(現三瓶町)の朝日文楽、北宇和郡泉村(現広見町)の泉文楽(現鬼北文楽)、喜多郡肱川村(現肱川町)の大谷文楽など県下各地で土着の人形浄瑠璃が演じられて地域の人々を楽しませた。藩政時代から盛んであった能楽は藤野漸・池内信嘉・天野義一郎らを通じて知識人に愛好され、大正三年六月一〇日から三日間各流連合能楽大会、同一〇年一一月三日池内信嘉の全国追善能などが中央から著名な能楽師を迎えて松山で催された。伊予万歳は松山近在の郷土芸能として演じられ、琵琶歌も大正年間流行したが昭和に入って衰微した。著名な神社の祭礼には旅回りの軽業曲芸小屋が掛かり、猿芝居・のぞきめがねなどの大道芸人が集まった。サーカスも人気があり、大正八年(一九一九)春松山の共進会には有田洋行サーカスが興行して一か月満員を続けた。
 相撲見物も民衆の大きな娯楽であり、宮相撲のほか本職の大相撲一行がしばしば県下を巡業した。初代朝汐・二代朝潮ともに郷土出身の大関で、二代目は大正四年に昇進、その全盛期は県下の相撲熱をあおった。昭和一三年(一九三八)一〇月には横綱双葉山・男女川と共に郷土出身の前田山が新大関としてお国入りした。
 大正元年一一月一七日、高松の興行師が松山大街道に県下最初の常設活動写真館世界館を開館した。桟敷ではなく新式の椅子席で下足のまま手軽に入場できるのが魅力であり、開場以来連夜満員の客を迎えた。この盛況を見て翌二年五月松山市駅前に松山活動写真館が開館した。夕方客寄せの楽隊が「天然の美」などを奏して開場、定刻になるとモーニング姿の主任弁士が登場して美辞麗句を連ねた前説明があって、呼子の笛を合図に電灯が消えて映写が始まるという段取りであった。実写・喜劇・新派・時代劇あるいは西洋劇など盛りだくさんのプログラムで、西洋劇には数週間にわたる連続物が多かった。世界館は田中溪雪、松山館は角紫朗が主任弁士として人気があった。
 その後世界館は有楽座と改称し、松山館は大正七年一月二六日出火し伊予鉄電本社・市駅と共に全焼したが、大街道に演芸館、魚の棚に松栄館、柳井町に大正座などが相次いで開館した。大正九年には寄席南亀亭が洋画専門の敷島館となった。宇和島では、共楽館・鶴島館・キリン館・宇和島館が建設された。今治には、大正五年七月階下が銭湯で階上が映画を上映する新世界が出来、八年には和泉座を改造した三和劇場と第一共楽館、一〇年には帝国館など常設館が続々開館した。また巡業活動写真隊や弁士連が評判の映画をもって各地で巡回興行した。このため、西条・八幡浜などでも昭和に入るまで映画館は開設されず、演劇場で実演と映画が併用された。大正一四年の警察統計によれば、活動写真の興行日数は六六三日、度数八、〇〇〇回を数え、演劇以下の諸興行を完全に引き離した。大正一五年新栄座が帝国キネマと特約して映画館に変わったのをはじめ、昭和になってからは県下の劇場で映画の常設館に転ずるものが続出した。松山の松竹座・千代田館・大衆館・観翠劇場などの新設館も開かれ、やがてトーキーが現れて映画全盛時代が到来した。
 諸興行の取り締まりについて、愛媛県では大正三年一二月八日に「興行取締規則」を制定した。これは、明治四三年の「劇場取締規則」「寄席取締規則」「興行取締規則」を合わせたものであり、興行場の場所、構造設備や興行主・観覧者の遵守事項などを規定した。活動写真映画については「映写前所轄警察官署ニ願出テ其ノ検閲ヲ受クヘシ」とした(資近代3六九九~七〇三)。その後、映画興行が増加して所轄警察署に一任していた従来の検閲規定では万全を期することができなくなったので、同六年五月に興行取締規則の一部を改正して検閲は県が直接行うことになった。更に同九年二月の改正で検閲権者を知事とするよう明文化し、活動写真の興行時間を午後一〇時までと制限するとともに保護者を伴わない一四歳未満の者の入場を禁止した。本県警察本部保安課が大正一四年中に検閲した映画フィルムは、邦画一、二八九種・四、一一三巻、洋画五〇一種・二、三三四巻であった。この年「活動写真フィルム検閲規則」が制定されて、映画フィルムの検閲は原則として内務大臣が行うことになったので、県警察部の検閲件数は極端に減少した。
 昭和一四年(一九三九)四月五日「映画法」が制定され、映画を国民文化の進展に資すとともに映画事業の健全な発展を図るため、映画の製作・配給について規定した。また「映画法施行規則」で映画の製作・検閲・興行の内容について規制した。本県は同年一二月二六日に「映画法施行細則」を定めて、地方長官の行う検閲、映画興行場の構造設備、映画上映に関する規制、映画興行者の許可制などを一〇六か条にわたって具体的に示した。このころから映画は国策遂行の啓発宣伝に利用され、民衆が馴れ親しんだ娯楽性は急速に失われていった。

 新聞の普及

 新聞は、二〇世紀に入ると情報伝達の機関として国民生活に定着、読者層は教育の普及に伴い拡大していった。本県の新聞は、政友会系の「海南新聞」と憲政会系の「愛媛新報」が紙面を競い、加えて明治三五年に創刊された「南豫時事新聞」と柳原正之(極堂)が経営する「伊豫日々新聞」などがあった。
 大正期に積極的企業経営を試みて躍進したのが愛媛新報であった。同社(社長高須峰造)は、大正二年松山市湊町四丁目に洋風三層楼の新社屋を建て、マリノニ式輪転機を設備して朝夕二回発行の六ページ立てを断行した。この夕刊発行が成功して部数はとみに伸び、久しく下風に立っていた海南新聞を抜いて一万部突破を呼号した。海南新聞は、一八年間社長の座にあった藤野政高が大正四年に死去して以後低迷を続け、やがて成田栄信が社長となって社勢挽回に努めたが経営難は厳しくなる一方であった。更に成田と政友会支部幹部の内紛から大正一二年一月二〇日紙上で社長自らが政友会と絶縁する声明書を発表するに至った。多年の機関紙を失った政友会は、同年八月一日「伊豫新報」を発行、社長久松定夫以下重役を支部幹部で固め、西堀端の社屋に輪転機二台を設備し夕刊四ページで紙面に新風を打ち出したが、政党の″純機関新聞″が時代に逆行して読者は伸びなかった。
 この時代、大阪朝日・毎日新聞が相次いで松山通信部(大正六年、のち支局)を開設し地方版を拡充したので、販売合戦が激烈化していた。この間にあって、愛媛新報は、労働運動・小作争議・婦人青年団活動・社会事業など社会問題によく理解を示して報道したので、労働者・農民層にも読者を広げた。大正七年夏全国を襲った物価暴騰と米騒動を庶民の立場で克明に報じた愛媛新報に対し、海南新聞はこれを小さく伝えたに過ぎず、両紙の報道姿勢の違いが際立った代表事例であった。この愛媛新報も、大正八年に高須峰造が社長を退いて御手洗忠孝に代わると、憲政会の機関紙に逆戻りする傾向が生じた。「愛媛新報」「海南新聞」ともに普選問題などに積極的でなく、海南新聞主筆岩泉泰(江東)はこの普選運動の報道で経営幹部と衝突して辞職した。愛媛新報にあって社会問題を論じていた高市盛之助・篠原要らも社を追われた。岩泉は高須らと「四国毎日新聞」を創刊して普選促進を図り、高市は「大衆時代」を発行して労働者・農民の味方に立ち部落解放を訴えるが、両紙とも長くは続かなかった。革新記者を追放した愛媛新報・海南新聞ではあったが、大正一三年の第二次護憲運動で知識人・青年・学生・労働者を中心とした政治への関心が高まると、これを盛んに報道論説して大正デモクラシーの高揚に努め、同一五年の松山高等学校同盟休校事件に際しては学生側に同調する論陣を張った。
 昭和に入り、「海南新聞」「愛媛新報」「伊豫新報」三紙のうち、海南新聞は香川熊太郎が社長を引き受けてから不偏不党の中立を掲げ、総じて公正な言論報道を行い娯楽欄を多くして面白く読ませる努力を払い、ようやく劣勢を挽回した。愛媛新報は、社長安藤音三郎、副社長武知勇記らを中心に経営陣を固め昭和三年六月には一番町の一角に三層建ての広壮な新社屋を完成した。伊豫新報は大正一五年以来大本貞太郎が経営に当たり報道本位の清新な紙面製作に意を用いた。三社とも、社内に局制あるいは部制をしき、専門記者や通信員の増置、通信社との連絡を密にして県内はもとより国内海外のニュースを豊富にし、企業的経営の色彩を濃厚にした。紙面では、スポーツ記事が目立って増加し、学芸・家庭・婦人・芸能などに関する記事が多くなり、写真も掲載されて市場性・大衆性のある報道に重点が置かれた。こうして県内三大紙は紙面の刷新に努力し購読数を争ったが、愛媛新報が次第に傾き、昭和一五年一月一〇日一六九四六号を最後に五〇余年の歴史を閉じた。残る海南新聞・伊豫新報は同年一一月三〇日に南豫時事新聞を加えて統合、一二月一日より「愛媛合同新聞」(同一九年三月一日「愛媛新聞」と改題)を発行した。

 ラジオ放送の開始

 東京放送局が試験電波を発射し放送を開始したのは、大正一四年三月二二日であった。当時は「ラジオ」という語はなく、「無線電話」と呼ばれていた。その公開実験放送がこの年二月六日に松山市の東雲神社を放送所に、道後の伊予鉄グランドを受信場にして行われた。主催は伊予鉄道電気会社、技術担当は東京電気会社で、神社の社務所に送信アンテナを張り、大きなメガホン付きのマイクロホン四個を据え蓄音機の軍艦マーチに始まり、無線電話の説明の後、尺八・詩吟・三味線演奏などを放送した。「海南新聞」二月七日付は、「我等の驚異・無線電話聴取の記」を載せて、「吾等は近代科学の驚くべき発達に随喜の涙を流さずにはゐられない」「蓄音機の軍艦マーチが朗々たる音声で始まったグランドの隅にまで聞こえてくる。全く驚異だ」と空を飛んできた不思議な音に対する素朴な驚きを伝えた。公開放送本番の二月七・八日のプログラムは、(1)オーケストラ(伊豫鉄電社友会音楽部)、(2)社長のあいさつ、(3)ソプラノ(私立松山女学校)、(4)無線電話の説明(東京電気技師)、(5)蓄音機(小早川楽器店)、(6)三曲合奏、(7)オーケストラであった。
 東京放送局に続いて、六月に大阪放送局、七月に名古屋放送局が相次いで電波を出し、翌一五年その統合組織体として日本放送協会が誕生した。東京放送局が開局した大正一四年三月の聴取契約は三、五〇〇件であったが、一年五か月後には三三万八、二〇四件にふくれ上がった。東京の聴取料月一円で別に聴取施設特許料を年に二円支払わねばならなかった。大衆受信機の鉱石式はともかく遠隔受信のための電池式やスピーカーを用いる場合の真空管式は相当に高額であり、放送を聞ける範囲が三局の周辺に限られているのが何よりも不便であった。
 県民がラジオ文明の恵みにひたれるようになるのは広島放送局が本放送を始めた昭和三年七月六日からであり、開局式当日には松山芸妓の若富らの″伊予節″も電波に乗った。新聞の片隅に番組表が載り、広島放送局公認の聴取申し込み取り扱い店ができた。聴取料は一円であったが、ラジオの普及とともに安くなり、同七年には七五銭、一〇年には五〇銭と引き下げられた。受信機を設置するに当たっては、広島逓信局長名の「聴取無線電話私設許可書」が必要であった。受信機の多くは安い鉱石ラジオを使ったが、真空管の受信機で良いものは一八円、月給一か月分に相当した。昭和八年六月伊予郷土民謡大会、同九年一〇月″松山の夕″などが広島放送局から放送されたが、出演者はいずれも海路広島に渡った。昭和一一年(一九三六)四月松山国伎座で放送実験があり、同一二年二月初めて今治市の演芸大会が中継放送された。
 スポーツの分野での実況中継放送の最初は、大阪放送局が昭和二年八月一三日に甲子園球場から行った全国中等学校野球大会第一日の放送であったが、その後一〇日間近く各試合の中継を続け、大評判となった。昭和七年春の選抜大会優勝を機に松山商業が黄金時代を迎えると県民はラジオの中継放送に一喜一憂し、昭和一〇年夏の全国優勝にはラジオの前で歓喜した。松山市駅の大スピーカーの前に集まった群衆の熱狂ぶりは語り草となっている。当時、ラジオを持つ家は限られていたから、電器店などでは店頭にスピーカーをつけたラジオを置いて放送を流し、黒山の人だかりが出来た。
 昭和七年、松山放送開設期成同盟会(会長井上要)が結成され、海の向こうの電波でなく松山にもと誘致運動を開始した。この年、四国最初の放送局として高知局、翌八年徳島局が開局、松山も開局予定と一時は発表されたが延期となり、ようやく開局が決定したのは昭和一三年であった。同一六年三月九日松山市小栗町に完成した新局舎から放送が開始された。田園の中のアンテナ一本の小さな放送局であったが、大街道・湊町商店街は万国旗で飾られ、開局記念放送実演大会が国伎座で催された。午後一時松山放送局開局に関して中村知事の挨拶があり、一時三〇分から長唄松山踊・今治ヨイヤナ節・俚謡八鹿踊・伊予万歳・伊予節・浪曲などの中継放送が行われた。三時四〇分から清水松山市長の「松山市の今昔を語る」、西澤松山高等学校長の「郷土文化七題」の講演、放送局誘致運動の代表松山商工会議所会頭山本義晴の喜びの言葉と続き、松山市内小学校児童唱歌と西園寺源透の講演「郷土伊豫を語る」で六時五七分放送を終えた。「″ゼーオーヴィジー(JOVG)、こちらは松山放送局で……″県民はこの声を実に四〇年間待った」とこの日の海南新聞は県民の気持ちを伝えた。松山放送局は当初は洋楽やコーラス、ローカル番組も少しは放送していたが、開局後九か月で太平洋戦争となり、以後戦時中はローカル番組も天気予報も敵機に情勢を与えるとの理由で姿を消し、四国軍管区情報と大本営発表の戦時報道機関に変わっていった。

 スポーツの勃興と中等学校野球

 大正時代には、各種のスポーツが勃興し、若人の身体鍛錬と団結・友情を養う校友活動として奨励され、学校対抗で競技することで愛校心を育てた。柔剣術など日本古来の武道の復活に加えて、野球・端艇(漕艇)・庭球などの外来のスポーツが移入され流行するのは明治中期以後であった。
 愛媛の野球は、明治二二年松山に帰省した正岡子規が伝えたのが最初といわれ、同二五年に松山中学・愛媛師範学校に野球同好会が誕生したのが草創期である。その後中等学校の増設とともに野球部が各校で生まれた。松山商業学校は、同三五年の開校と同時に野球部を設けたが、この時代は弱小チームであった。ボートは、明治二二年松山中学に端艇部が結成されたのを皮切りに宇和島・西条両中学校にもつくられた。同三四年、この三校が高浜沖折り返しのコースで県下初のレースを競った。庭球は簡単なスポーツであったので学校教員や女学生にも普及し、明治四〇年二月には松山市内中等学校連合庭球大会が松山高等女学校々庭で開かれた。このほかマラソンが明治末期から盛んになり、同四二年五月二日に道後公園の外馬場を二〇周するマラソン大会が開かれ、青年・学生・軍人ら三八人が参加、愛媛師範学校生武市(のち景浦)通計が優勝した。これを契機に大正二年六月愛媛師範に駆走部が誕生した。
 文部省は、大正二年(一九一三)一月二八日に「学校体操教授要目」を公示して、体操・教練・遊戯のほか、課外の運動として撃剣・柔道・相撲・弓術・薙刀・遠足・登山・水泳・船漕・ベースボール・ローンテニス(硬式庭球)などを奨励した。本県でも、相原正一郎ら有志教員が体操遊戯や陸上競技の研究と実践を続けた。
 大正八年に開校した松山高等学校は、翌九年持田町に新校舎とともに四〇〇メートルトラックがとれる県下唯一のグランドを造った。一一月二八日それの完成を記念する陸上競技大会が開かれ、翌一〇年一二月四日には第一回温泉郡小学校教員・児童陸上競技大会が開催された。これが県下初の総合体育大会であり、翌一一年の第二回には閑院宮殿下が臨場観覧された。松山高校のグランド・講堂・プールなどは陸上・水泳・柔道・剣道・庭球の近県大会に活用され、県内外の中等学校生徒の水準向上に寄与した。同校の体育教師に迎えられた相原正一郎が大正一〇年にバスケットボールを紹介するなど、バレーボール・サッカーなど新しいスポーツが次々と移入された。松山高校の運動部は全国高校大会で水泳・庭球・サッカー・柔道などが優勝するなど、同一二年に創設された松山高等商業学校運動部とともに全国水準を維持し、県内スポーツの振興に貢献した。
 大正一三年(一九二四)一〇月一七日、伊予鉄電が、かねて着工の祝谷一万三千坪に全国有数の総合大運動場を開設した。一般競技場(二五〇メートルトラック)、球技場(テニス・バスケットボール・バレーボール)、水泳プール(五〇メートル、飛び込み台付き)、公認野球場、児童遊戯場など総経費一二万円の施設であった。それまで城北練兵場や道後公園広場・松高グランドなどで催されていたスポーツ行事は、以後この道後グランドで行われるようになり、昭和一六、七年までのおよそ二〇年間、愛媛の総合スポーツセンターとしての役目を果たした。この競技場の管理・運営を委託された形で愛媛体育協会(会長由比質・事務局長相原正一郎)が結成され、道後グランド竣工式と合わせて発会式を挙行した。また昭和二年(一九二七)に相原と金井滋雄らは師範学校出身の体育教師と「アールクラブ」を結成して野球を除く一般競技の研修指導に努め、県下体育運動振興に大きな推進力となった。
 こうした指導者と施設に恵まれて、新しいスポーツは高等女学校や小学校にも急速に普及した。女学校の指導者としては、松山高等女学校の金井滋雄と済美高等女学校の竹田直一が有名であった。済美高女は、大正一三年六月の第一回日本女子オリンピック大会軟式庭球で渡辺晴子・田中サツヨ組が全国優勝を遂げ、翌一四年四月の第二回大会陸上の部走り高跳びで伊多美子が、同砲丸投げで清水文子が優勝した。小学校は、大正一四年七月第一回県下女児競技大会、昭和三年五月第一回県下男児競技大会がそれぞれ開催された。卓球・登山・相撲などが普及したのも大正年間であった。
 大正時代末期のスポーツの勃興はそのまま昭和時代に持ち越され、各種競技大会で各学校の選手が母校の声援を受けて覇を競い合い、大正一五年から始まった明治神宮体育大会などの県外大会に優秀選手・強力チームが出場して活躍した。なかでも済美高女の活躍は目覚ましく、昭和八年七月の日本女子オリンピック大会でバスケットチームが、同八年九月の同大会で庭球の高橋・栗坂組が、同四年一〇月の第一〇回神宮大会で相原・池田組が、同一五年卓球全国中等学校大会で田中・高市組がそれぞれ全国優勝を遂げ、陸上競技もまたいくつかの種目で日本一を獲得するなど″四国の済美″の名を高めた。大正一四年には全国中等漕艇大会で宇和島中学が初優勝、昭和九年今治中学、同一〇年松山中学がこれに続き、三たびの全国制覇はボート愛媛の伝統を築いた。水泳は北予中学、体操は松山商業が活躍した。昭和五年、松山中学・三高・京都大学の名ラガー二宮晋一が帰省、同好の士と「松山クラブ」を結成してラグビーの普及指導に力を注いだ。
 野球は、明治四〇年代には県内すべての中等学校に野球部が創設されるまでに普及した。大正八年八月朝日新聞社主催の第一回全国中等学校野球大会が大阪府豊中で開かれた。大正七年の四国大会で今治中学が第四回全国大会への出場権を得たが、米騒動のため試合は中止になった。この年の秋、第一回愛媛県中等野球大会が開かれた。松山商業は野球部創設以来初優勝を飾り、翌八年の四国大会に優勝して鳴尾球場での第五回大会に初出場したが、二回戦で敗退した。これ以後、松山商業は愛媛県の雄となり、同九年にも全国大会に出場して準優勝した。同一三年の第一〇回大会まで六年連続四国の王座を守り、北川二郎―藤本定義―森茂雄の黄金投手で高松勢を抑えた。しかし全国大会では優勝候補といわれながら全国制覇を果たせず、藤本投手は悲運の大投手といわれた。同一三年春から毎日新聞社主催の選抜野球大会が開始され、翌一四年春甲子園球場での第二回選抜大会で松山商業は念願の全国優勝を達成した。
 その後、大正一五~昭和三年選抜大会に連続して推挙されたものの夏の大会は高松商業・高松中学に阻まれて甲子園に出場することが出来なかった。ようやく昭和五年春の選抜に準優勝した実力をもって、翌六年夏の大会に返り咲き、同七年春の第九回選抜大会で、景浦将らを擁し七年ぶり二度目の優勝を遂げた。ここに再び黄金時代を迎えた松山商業は、この年夏の大会で前年準決勝で惜敗した中京商業と優勝を争ったが、延長一一回ついに力尽きて惜しくも春夏連覇を逃した。雪辱を期し巧投手中山正嘉、伊賀上潤悟・筒井修・千葉茂などの布陣で、昭和一〇年春に続き夏の第二一回大会に出場した松商は、決勝戦で育英商業に大勝して夏の大会初征覇の栄冠に輝き、真紅の優勝旗を手にした。
 野球王国愛媛の熱狂は最高潮に達した。中等学校野球は、庶民に最大の娯楽を提供し多くのファンを集めたが、教育の場を逸脱する弊害が指摘されて久しかった。県は昭和七年(一九三二)三月二八日に「野球ヲ行フ者又ハ野球ヲ観ル者ノ熱狂ノ余常規ヲ逸シ正道ヲ離ルル」として「野球ノ統制並施行ニ関スル件」を訓令、中等学校の野球は府県の体育団体において適当に統制すること、試合は学業に支障のないように行い、対外試合は土曜日の午後または休業日に限ること、応援団は学校の職員学生生徒のみをもって組織すること、応援は学生生徒の本分を体し運動競技の精神に従って行うこと、応援者の服装は学校の制服制帽に限ることなどを指示した。本県の野球統制に関する公認団体には愛媛体育協会が指名された。これを機に、同協会は名称を愛媛県体育協会と改め事務所を県学務部内に移転して県知事が会長に就任した。国民的行事になった中等学校野球大会は、昭和一六年に中止され、同二一年まで開かれなかった。