データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)
一 小学校教育の発展と教員の待遇
市町村教育費の圧迫
明治四〇年(一九〇七)に六年制の義務教育が実施されてから、各市町村では教育費負担による財政圧迫が甚しくなった。表3―79に見られるように、明治四〇年代は教員の増加や小学校校舎の増改築などで県内町村の教育費は町村費総額の四〇%以上を占めており、大正期に入っても三三~三五%を下らなかった。
県内唯一の都市松山市では、児童数の増加に伴う教員の増加と施設の充実に要する経費は、大正元年(一九一二)度と二年度で七万余円に達し、市費の五四%に相当するに至った。この教育費の重圧を緩和するため、市当局は義務教育基金蓄積会を発足させ、各小学校父兄から毎年四、〇〇〇円の寄付金を集めようとした。この積立金制度は児童一人あて一か月一〇銭、一か年前納ならば一円と定め、大正二年四月から開始された。この寄付金は強制ではなかったが、児童を通じて集められたので、父兄としては拠出に応じざるを得ない状況に置かれ、中流以下の家庭にとって負担となった。このため、義務教育の原則からみて不合理であるとの非難が次第に激しくなり、県当局もこの禁止を考慮する態度を示したが、松山市の教育資金蓄積は大正一二年まで継続された。その額は一一年間に一万四、〇〇〇円に達し、株券配当利子を加算すると二万三、〇〇〇円になった。今治町でも大正三年に教育基金蓄積計画を立て、児童一人について五銭を拠出させることにした。県はこれを中止するよう説諭したが、同町はこれを実行に移した。
小学校の授業料徴収は、明治三三年八月の「小学校令」で廃止されていたが、第五七条第二項に「特別ノ事情アルトキハ府県知事ノ認可ヲ受ケ市町村立尋常小学校ニ於テ授業料ヲ徴収スルコトヲ得」という条項が存在していた。県内市町村のなかには、教育財政膨張の打開策として授業料徴収を要望しようとする動きが見られた。松山市は、大正四年と五年の二度にわたり市会の決議を経て授業料徴収の知事認可を求めたが、いずれも却下された。この結果、他の町村も授業料徴収計画をあきらめなければならなかった。
市町村義務教育費国庫負担法の成立
市町村財政を圧迫する義務教育費の七〇%は教員給与の負担であった。大正期の著しい物価騰貴で小学校教員の俸給引き上げが避けられない状態となったが、市町村の固有財源で給与の改善を図ることは不可能であった。そこで、小学校教員の俸給は国庫で支弁すべきという要望が各方面から出されるようになった。政府は、大正六年(一九一七)臨時教育会議の答申を得て、同七年三月二七日「市町村義務教育費国庫負担法」を公布した。
この国庫負担法で、市町村立尋常小学校の正教員・准教員の俸給の一部は国庫が負担することになり、その支出金額は毎年一、〇〇〇万円を下らないものとされた。同年五月一四日、本県知事若林賚蔵は「義務教育費国庫負担法実施ニ関スル件」を郡市町村・小学校に発した。この中で県知事は、近時我が国義務教育の進歩に伴い市町村の経費が著しく増加してこの軽減緩和の途を講ずる必要があり、「国費益々多きを加えるの時にあたり国庫が本法により小学校教員俸給の一部を負担するに至った訳は、小学校教員の待遇を改善して優良な人物を招聘し、義務教育の改善を図りその振興を促そうとするためである。戦後に処すべき我が小学校教育施設の綱領は、教育勅語の聖旨を奉体して国家的精神を養い、また時勢の進歩に順応して、内は国運の発展に貢献し外は国際競争場裡に立って帝国の使命をまっとうするに足るべき国民を作るにある。小学校教員はその職責の重要なことを自覚して徳操の向上と学力の進歩とに努め、拮据励精その天職を尽くさんことを期せ、教育監督の任に当たる者は本法制定の趣旨を体して適切有効に施行して国民教育の改善の効果をあげるように努めよ」と、教員と郡市町村関係者に訓令した(『愛媛県教育史』資料編(第四巻)四四〇~四四一)。
こうして市町村義務教育費国庫負担法が成立して、小学校教員俸給の一部を国庫が負担することになった。しかしその補助額は市町村の支出する教員給の二〇%を満たすに過ぎなかったから、小学校教員の俸給が増額するにつれて、町村の教育費は表3―80に見られるように依然町村財政を圧迫した。このため、国庫補助の増額を要求する請願が相次ぎ、国会でも小学校教員給の全額国庫負担が論議された。政府は、大正一二年(一九二三)三月国庫負担金の支出額を四、〇〇〇万円に、同一五年三月には七、〇〇〇万円にそれぞれ引き上げて、これに対処した。
教員の生活難と臨時手当
第一次世界大戦により我が国経済界は未曽有の好景気を現出したが、これに伴って米価をはじめ諸物価が騰貴した。従来から低額であった教員の給与は、この間ほとんど昇給されることがなかったので、その生活は極めて困難な状態に陥った。特に米騒動が起こった大正七年ごろの教員生活はますます困窮し、油代・電灯代を節約するため早寝をする家庭が多くなり、″洋服細民″という新語が生まれた。
大正八年時の県内小学校教員の平均月俸は男二七円八八銭・女一五円七六銭であった。当時の新聞は、上浮穴郡における小学校教員夫婦共稼ぎで子供四人を養う者の月収入は、夫の俸給二三円・妻の俸給九円・臨時手当二円五〇銭・特別加俸二円の合計三六円五〇銭に対し、支出は米五斗二四円・副食物七円・石油一円・諸税一円・被服費二円・衛生費一円・書籍費五〇銭の合計三六円五〇銭で、手当・加俸を俸給に加えてやっと赤字が出ない程度、宇摩郡で家族五人を養う小学校教員の一か月支出は四三円八五銭で月俸三〇円・手当三円の収入に比べ一○円八五銭の不足と報じている(「愛媛新報」大正八・六・二〇付)。
教員の家庭では養蚕・養鶏・麦稈製造・文具煙草販売などによって生計を立てた。家庭塾の内職を行う教員も多く、松山市では半数近くの教員が自宅補習をしていたという。生活難で転職する者も続出した。大正八年四月の新学期はじめに温泉郡教員の休退職者は三〇人にのぼり、九月の二学期開始早々退職届を提出する者が一五人もあった。この結果、欠員補充の准教員と代用教員が大正九年(一九二〇)三月時には全教員の二四%に達した。
生活困窮の中で、教員たちは新聞に投稿して社会に訴え、為政者に善処を求めはじめた。大正八年六月一六日温泉郡堀江小学校長三浦謙次郎は「愛媛新報」に「夜昼峠に立ちて」と題する一文を寄書して、「凡そ俸給によって衣食する者に対し手当の必要を認むるに於ては少くとも吾人の生活を保証するに足るものでなくてはならぬ。然るに今や図書一頁の価実に半銭、以て一円の図書を求むるに難し。一円の手当は以て一斤の肉をすら買うことが出来ぬ。一円の手当は以て子女の為に一枚の下着すら購ふに足りぬ。」「今や教育者の頭脳は日に空しく、胃袋は月に餓え、子女の肌は年と共に薄し。教育を以て国家百年の大計なりとなすの人よ。乞ふ思を帝国の前途に致せ」と訴えた。松山高等小学校長久保儀平は「愛媛新報」一〇月一五日付で、物価騰貴以前は師範卒業の新入教員が月給一八円、この標準からすれば物価の釣り合いから四〇円であるべきだが、本県では二三円にとどまっている、現状のままの俸給では教職に就く者は資産を有し、道楽半分でなくては勤まらない、教員の質が低下するのは当然である、県当局は速やかに小学校教員給の引き上げを市町村に指示すべきであると述べた。温泉郡の一教員は「愛媛新報」一一月一三日付に「如何に精神的に生きよと云ったところで、空虚な腹を抱へて、生存が出来るであらうか」「精神的に生ける教育家をして、物質的にも生かしめよと、社会に叫ぶのである。弱き者よ汝の名は小学校教師なり」と、悲痛な「教育者としての叫び」を投稿した。
これより先、愛媛県は大正七年(一九一八)七月一二日に「臨時手当支給規程」を定めて、月俸額五〇円以上の県教職員には月額の二割、五〇円未満の者には二割五分の臨時手当を毎月支給したが、市町村立小学校長・教員に対しては県の臨時手当に準ずることを市町村に指示した。次いで同年一〇月二九日には文部省の小学校教員月俸額の改正に基づいて「市町村立小学校長教員俸給旅費及諸給与規則」を改め、教員の月俸等級額をそれぞれ増額した。この結果、小学校教員の給与は大正八年には、尋常小学校の本科正教員男女平均月額三二円・准教員二一円と、同七年時の正教員二六円・准教員一六円に比べて六~七円程度引き上げられた。しかしこれらの処置をもってしても物価の暴騰には対応しきれず、教員の悲痛な叫びを呼ぶことになった。
大正八年七月、政府は応急処置として市町村に対し小学校教員給の増額を命じることができる臨時的な権限を地方長官に与えた。これを受けて、愛媛県では七月二九日に小学校教員の臨時手当を本俸の三割以上とするよう市町村に指示した。県内市町村では八月から臨時手当三割支給を始めたが、多くの府県で五割ないし五割以上の臨時手当支給が行われているのに、本県が三割の低率にとどまっているのは納得できないといった批判が、相次いで新聞紙上に掲載された。県当局は、臨時手当を五割以上に引き上げるために、松山市と各郡町村長会の代表と協議を重ね、各市町村は大正八年末までに臨時手当を本俸の五~七割に引き上げた。
大正九年になると、多くの府県で臨時手当一〇割給付を始めたので、本県でも同年五月二八日に月俸二五円以上の者は二〇円と月俸額の二分の一を合わせた金額、月俸二五円以下の者は一〇割の臨時手当を支給することを市町村に指示した。ところが、このころから物価は下降線をたどりはじめ、米価は暴落、事業の倒産が相次ぎ、失業者が増大した。教員の救済策として乏しい財源を捻出してきた市町村は、米価が四割方下落して生活困窮に追い込まれた農民や職を失った労働者が増加する情勢から考えて、教員給をこれ以上引き上げることはできないとして、県の臨時手当一〇割支給に反対する態度を示した。同九年六月三日に温泉郡町村長会が臨時手当増額の実施延期陳情を決定したのを最初に翌月四日に松山市参事会が反対の決議を行い、同月中に各郡の町村長会が臨時手当増額反対、実施延期を決議した。
各郡町村長会の決議を受けて、七月五日に今治市で開催された県町村長会議では、臨時手当増額反対の陳情を県に行うことを決定するとともに小学校教員俸給の全額国庫負担を文部大臣・貴衆両院議長に請願することにした。同月八日、県町村長会の代表委員が県庁に出向いて小学校教員臨時手当増額を指示した県令の撤廃を申し入れた。県知事馬渡俊雄は近い将来に町村の要求をいれるが、当分の間小学校教員優遇のために県の方針に従い増額して欲しいと要望した。県と郡の町村長会は再度協議を重ね、小学校教員臨時手当増額の撤廃要求を打ち切るが、手当引き上げの可否は各町村の任意とすることになった。七月から九月にかけて松山市・今治市・北宇和郡全町村など大部分の市町村は県の指令どおり臨時手当の増額支給を決定実施した。この結果、教育費の市町村負担はこの年松山市で財政総額の四二%、町村全体で四〇%に達した。
こうして大正八年から翌九年上半期にかけて、全国各府県で小学校教員臨時手当の増額が行われ、それが市町村の財政状況の差異によって区々に実施されたため、文部省と県の定めた俸給体系を乱すことになった。文部省はこれを是正するため大正九年(一九二〇)八月に教員月俸額を改めた。本県はこれを踏襲して八月三〇日に「市町村立小学校長教員俸給旅費及諸給与規則」中の給与等級表を改定して大幅な引き上げを実施した。これに伴い毎月の臨時手当支給は一〇月以降停止された。
大正一〇年度の小学校教員俸給月額平均は、本科正教員が全国平均五八円五〇銭で愛媛県は六〇円八七銭、准教員が全国平均三五円・愛媛県四〇円九五銭、代用教員が全国平均三一円一一銭・愛媛県三四円三六銭で、本県は四国四県で一番の高額であった。教員の待遇問題は、大正一〇年に至り全国平均を上回るまでに改善された。
貧困児童と就学補助
義務教育における就学率は明治四一年以来九八%に達した。しかし、家庭貧困のために就学不能であったり、就学しても満足に教育を受けられない児童は少なくなかった。大正三年には県下小学校学齢児童一六万人のうち不就学児童が二、五七三人に及んでいたので、県当局は市町村に就学規則の励行を促し、貧困家庭の学齢児童に対する就学補助を積極的に行うよう指示した。市町村では不就学者については町村吏員・学校職員・学務委員らが各家庭を訪問するか児童の保護者を召喚して就学義務の遵守を訓諭し、就学させない父兄に対して行政執行による過料処分を断行したり、雇用主に学習上の便宜を与える方法を命じたりしたところもあった。就学補助に関しては、貧困児童に対し食費・被服・学用品などを補給した。大正六年度には一市八三か町村が県費補助金を合わせて一万二一八円を二、一七八人の児童に支給した。その後物価騰貴に伴って教科書・文房具などの購入費が漸次多額を要することになったので、就学奨励費の市町村負担は増加し、大正九年度には県費四、〇〇〇円に対し市町村支出は一万五、三九二円に昇った。関係者の強い就学勧誘と就学奨励金支給によって不就学児童は徐々に減少し、大正九年の就学率は男女平均九九・二二%に達した。
県下小学校連絡会と自由教育の実践
大正時代の小学校では、教授・訓育・管理面での充実を期していろいろな試みがなされた。これらの研究成果は、県下小学校連絡会や県教育会の機関誌『愛媛教育』などで発表された。
愛媛県下小学校連絡会は、大正二年以来毎年一回男女両師範学校で交互に開催された。この研究会は附属小学校の主導で進められたが、回を重ねるごとに前近代的な画一主義の注入教授、取り締まり的訓練を排して、子どもを学習の主体として受けとめた教育実践の報告が次第に多くなった。大正七年六月に女子師範学校附属小学校研究部は『愛媛教育』誌上で「自発的学習態度の養成に関する研究」を総括発表した。これらの研究を踏まえて、大正九年一一月の第八回県下小学校連絡会では、「教育改造」を重点課題とした。
県下小学校連絡会は大正一〇年に愛媛教育研究大会と改称、一一月の第一回大会では「教育の見地より自由の考察」の標題で、「自由教育思潮に対する吾人の態度如何」、「図画教育上自由画教育思潮を如何に考ふべきか」、「綴方教授の態度如何」、「理科教授に於ける自由教育を如何に考ふべきか」の研究問題、討議題「学校訓育上自由思潮を如何に交渉せしむべきか」など、自由教育思潮に基づく実践研究や論議が展開された。
こうした動きの中にあって、元愛媛県師範学校教諭で明星学園の創設者赤井米吉は、大正一二年三月の『愛媛教育』誌上に「ダルトン案に就いて」を紹介した。ダルトン・プランはアメリカのヘレン=パーカストの創案であり、生徒自らが学校を社会的実験室として、従来の固定した学校組織から生徒を解放することを方針とするものであった。
愛媛県師範学校附属小学校はダルトン・プランを、模索中の教育実践課題に明確に「答ふべき使命を以て生れ出たる大胆なる方案」であると積極的に評価して、これを採用することにした。ダルトン・プランの教育実践報告は、大正一二年(一九二三)一一月刊行の『愛媛教育』第四三八号に発表され、その成果は一一月一六日から三日間附属小学校で開催された第三回愛媛教育研究大会で発表された。
ダルトン・プランの広がりは、来日したヘレン=パーカストの大正一三年四月から五月にわたる全国各地での講演旅行によって、その頂点に達した。パーカストは四月二六日に松山高等学校の講堂で「ダルトン・プランに就いて」の講演を行い、「ダルトン・プランは児童の立場を考へて教育を発展せしめる事に就いて理論を説くものでなくて、其の方法を研究するものであります。」「ダルトン・プランは学課に生命と自由を与へるものではなく、子供に社会的の試みを与へやうと云ふものであります。」「ダルトン・プランは社会的の共同精神を学校の内に吹き込もうとしている点に於て新しいものであります」と熱っぽく説いた。講演聴講の申し込みは一、〇〇〇名を超過したといわれ、師範学校では生徒全員に聴講させている(「海南新聞」大正一三・四・二六付)。
こうしてパーカストの来松の前後にダルトン・プランヘの関心と研究熱は最も高まったが、この年の秋に開かれた第四回愛媛教育研究大会では女子師範学校附属小学校を中心に、これの教育実践面からの批判が提起された。また教員の手がそろわず設備の不十分な地方の学校でこの教育方法を実践してみても効果があがらなかったという理由で、県下の小学校長の中から反対の声が強くなった。師範学校長浅賀辰次郎もこれに同調するところとなって、附属小学校におけるダルトン・プランの実践的研究は大正一五年八月をもって停止された。
大正期の自由教育思潮の中で、師範学校や女子師範学校の附属小学校を中心にそれの実践が積み重ねられたが、地方の小学校でも一般的な一斉教授を克服するため自由教育に即した教授法の方策を試みる学校が少なくなかった。中でも、新居郡泉川小学校では校長川崎利市の英断で個別教育の研究実践に取り組んだ。「児童ノ個性ニ重キヲ置キ之ガ指導開発ニ最善ノ手段卜注意ヲ払フ」教育方法は川崎以下同校教師の真剣な努力と相まって「泉川校の個別指導」の看板が掲げられた。一方、この教育法は無鉄砲であるとの批判や砂上の楼閣視して成功を疑うなどの酷評・嘲笑を受けるようにもなった(川崎利市『個別教育の原理と実践』)。個別教育の実践三年目の大正一三年三月、泉川村長真鍋以明は県知事宮崎通之助にあてて泉川校の個別教育批判の陳情書を提出して、県の指示による中止を求めた。この陳情書では、泉川校の教育方法は優良児のみの教育で劣等児を無視している、自学自習を強いるため教師に質問する勇気のない児童は向上しない、極端な個別教育は法規違反なりといった個別教育の批判が述べられ、「天下ニ類例ナキ教育方法ニヨリ我泉川校ノ児童ヲ草紙トシテ試験的ナル教育ヲ施サルルハ村民ノ悦バサル所」として泉川村として絶対反対の態度を打ち出していた(大正三年「教育雑書」)。
県学務部は、泉川小学校の教育の実地調査を行って、村長の陳情書のような暴評は認め難く、むしろ川崎校長並びに教員の熱心な努力は賞するに値するとの結論を出した。これが泉川村民の一層の反発を招き、児童の同盟休校という最悪の事態を喚起して、泉川校での個別教育の実践は中止しなければならなかった。
個性教育と郷土教育の展開
文部省は、昭和二年(一九二七)一一月各府県に「児童生徒ノ個性尊重及職業指導ニ関スル件」を発し、本県は翌三年一月一三日にこれを中等学校・小学校に訓令した。愛媛県教育会発行の『愛媛教育』は個性教育・職業指導に関する講演・研究を紹介した。各学校はこれの教育実践に取り組み、昭和四年一一月の第九回愛媛教育研究大会で「個性調査の実際案」・「綴方における個性指導の実際案」・「個人差に適応した算術指導法」の研究問題で、個性教育の実践報告と研究発表が行われた。
泉川小学校での個別教育が挫折した後、西条町大町小学校長に転任していた川崎利市は、個性教育の流行に力を得て再び個別教育を実践した。川崎らは生徒の個性調査を分析して、教師による予定・実行・反省からなる順序に従い、個別的学習指導を展開した。この内容は川崎の著書『個別教育の原理と実践』(昭和一四年文化書房刊)に詳しいが、大町校での個別教育は、昭和三年一一月に同校を会場として全国個別教育研究大会が開催されるに及んで有名になり、翌四年八月にジュネーブで開かれた第五回世界新教育会議で紹介されるほどの評価を受けた。しかしこの年大町小学校児童の西条中学校不合格をめぐる問題に端を発して父兄による個別教育排斥が高まり、川崎の越智郡波止浜小学校への転任で、事態の収拾が図られた。川崎の個別教育は前任の泉川校に次いで大町校でも再び中断した。転任先の波止浜校においてもこれの実践を続けたが、二年ばかりで挫折した。このごろから文部省・県主導の個性教育の実践はその限界が強調されて衰退した。
個性教育に代わって盛んになったのは郷土教育の研究と実践であった。文部省では昭和二年八月に既に全国に照会して郷土教育に関する調査を行い、本県の教育界でもこれを受けて昭和二年度の第七回愛媛教育研究大会で、郷土教育を主題として取り上げた。しかしこの段階では、実践的な裏付けが乏しいために概念的で、未消化の郷土教育観に終始している状態であった。
この中にあって、全校を挙げて郷土教育の研究と実践に取り組んだのが師範学校余土代用附属小学校であった。同校は郷土教育の方針として児童の凝視、郷土に即する教育、勤労を通しての教育を打ち出し、その成果を昭和四年三月の『愛媛教育』第五〇二号に「我が校に於ける郷土教育」と題して発表した。余土小学校での意欲的な郷土教育の研究と実践は県下教育界の注目するところとなり、同五年一一月の『愛媛教育』第五二二号はそれまでの余土小学校での実践の経過を集約した郷土教育特集号として編集された。また同月余土校編集になる『郷土教育の理論と実際』が刊行された。
郷土教育分野で先進的な役割を果たした余土小学校に続いて、師範学校附属小学校でも昭和三年四月に郷土科を教科目に設定して綿密な教授細目により、尋常一年から尋常四年までの児童に一週間に一時間あての郷土教育の具体的な指導を試みた。その内容は昭和四年七月の『愛媛教育』第五〇六号誌上に発表された。
こうして愛媛県では、年を追うごとに郷土教育の研究が盛んになり、各学校で熱心な研究実践が続けられ、それらの成果は昭和六年一一月の第一一回愛媛教育研究大会で発表された。郷土教育は時流に乗ってその後ほぼ一〇年間にわたり展開された。その間、愛媛県教育会・同各部会主催の郷土教育研究会がしばしば開催され、郡市単位や小学校単独で多様な『郷土読本』が編集刊行された。