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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 農業の基盤整備と発展①

 大正期の農政

 大正期に、農業生産は発展はしたが工業との格差は拡大し、生産額や県の税収入に占める地位は低下した。農産物の価格は工業製品ほど上がらず、近代化からは大きく取り残された。地主制が強化されて零細な小作農経営となり農家は困窮した。依然として米麦が農業生産の中心であったが、養蚕や果樹も伸び、農家数は減少するが農業人口はそれ以上に減少するなどの特色がみられた。
 県会で県農政へ提言された問題は、大正初期では種畜場設置、産米改良、耕地整理、中期では産業組合や米(農)券倉庫の普及、農業教育振興、後期では蚕繭改良と特に疲弊した農村・農家の救済、小作問題など農業政策よりは社会政策に議論が集中した。県が農政への基本方向を示したものとしては、大正三年五月策定の改正「農業督励部規程」及び同実施要項(資社経上三三~三九)が注目される。これは第一に土地生産力の増進(開墾や灌漑排水など五項目)、第二に土地生産額の増進(米麦作・果樹・畜牛の改良など六項二九小項目)、第三に農村の改善(産業組合・地主会・主婦会の設置など七項目)に要約される。その目標は農業の生産性を高め農村を近代化して商工業との格差を是正し、農民を保護する点にあった。『新居郡誌』により大正期の新居郡の農政をみても、郡農会と共に技術員を設置して米麦作、桑園の改良、農事実行組合や共同養蚕組合の設置、品評会や講話会の開催など品質向上による生産額の増加など県同様の方策を主眼としていることがうかがえる。
 国・県の政策中重要なものに農業倉庫の設置があるが、これは農作物の貯蔵保管とともに金融の便を図るもので、明治四三年ごろ温泉郡には既に米券倉庫があった。大正六年の「農業倉庫法」により形態を改め(資近代3六四四~)、国・県の補助事業としたもので、大正末年までに二五万二千円余を支出した。産業組合が経営するもので、昭和六年現在では県下に一五九棟七、二〇〇坪(収容能力米五〇万俵・繭一六万二千貫)があった。

 農家と耕地

 県下の農家は明治末から減少を続け、大正一二年(一九二三)を下限として約一万戸が減少し、昭和恐慌時に漸増がみられた。総戸数に占める農家の割合は大正五年六六・六%、同一〇年六三・一%、昭和五年は五四・五%であった。大正八、九年の好況時には専業農家が少なく、昭和の恐慌期に増加するのは、農村の労働力が工場労働者として重要な役割を果たしているためである。自小作別では大きな変化はないが、大正期にはやや自作農が減少し、昭和に入っては小作が減少した。
 一方、耕地面積は大正期にはあまり変化はないが、昭和に入ると急減した。水田も減少するが、特に著しいのは小作地の畑の減少である。階層別では五反未満の零細農と三町以上の地主層が減少し、逆に一町前後の中農層は増加した。これは公租増と米価下落、小作争議の激増で土地経営に魅力を失った地主が、小作地を売却したためである。こうして不況下で地主制はやや後退したものの、温泉郡では大正六年末約二万戸の農家の中、五反未満の農家六八・二%が所有する耕地は全体のわずか一六・四%で、一〇町歩以上の農家一・三%が所有する耕地は三二・五%と極端な格差があり(『温泉郡勢』)、農村構造が強固な地主制を地盤とすることに変わりはなかった。県下の一〇町歩以上所有者は、大正五年で六〇二人、一〇年六八三人、昭和元年(一九二六)五五〇人で、温泉郡・新居郡・上浮穴郡に多く分布している。
 県下の農家率は市部と東予で低く南予では高い。逆に自作農は南予に多く、東予地方は小作率が高い。特に新居郡では住友の土地集積その他によって田畑ともに小作率が著しく高い。水田に恵まれた東中予では田の小作率が高く増加傾向であるが、畑の小作率は下降している。

 米作の進展

 大正から昭和初期にかけての農業生産の伸びは緩慢で、作付け面積はほとんどの作物が減少した。しかし耕地整理の拡大、畜力耕作、化学肥料の使用、作付け率の向上などで生産性は向上した。農産物の商品化が高まったため品種が整理され、果樹・畜産物・青刈り大豆やれんげなど飼肥料作物の作付けは増加した。大正期は米麦作の円熟期といわれるが、米の反収をみても明治末に二石を超え、大正中期に二・三石前後(全国平均は一・九石)となり、それ以降戦前までは変化がなかった。
 県、国ともに米作は農政の中心であり、常に保護と改良が進められた。大正初年の米価下落に対しては同四年に「米価調節令」が公布された。既に明治末期には温泉・越智郡には米券倉庫があって米価調節を行っていた。越智郡の場合郡長片野淑人の唱導で今治町に本庫、菊間町・大井村など四か所に支庫を設け、大正元年の入庫米は一万三、〇〇〇俵にも達している。西条町周辺では、大正六年五月に米産の中心禎瑞村にまず建設され、一一月に氷見町と神戸村、大正末年までに大町村・西条町・玉津村・神拝村に信用組合の農業倉庫が建設された。
 県産米は約三割が移出され、阪神市場では伊予米として声価が高かったが、大正に入って品質が落ち、米穀検査の必要が論議された。大分県・岡山県では明治三〇年代に実施をしていたが、本県ではその労力と経費増に対して農民の反対が強く、ようやく大正四年一月に「米穀検査規則」(資近代3六二〇)を公布して、米の主産地である東予全域と松山市・伊予郡・温泉郡で実施し、一一年からは全県で等級検査を行った。これは特に県外移出米について俵製・乾燥・数量統一などを検査し、米価を高めて農家の利益向上を図るもので、県庁・郡役所・主要港湾・米の集散地などに生産及び輸出の検査員を配した。生産の三分の一を県外へ売る麦についても、大正一〇年三月「麦検査規則」(資近代3八三六)を公布した。大正九年以降の米価下落に対しては、政府は「米穀法」を制定して売買や保管に介入した。
 稲の品種は明治初年までは雑多であったが、篤農家の研究によって栄吾米、続いて相徳米が中心種となった。しかし大正期には内田音四郎ら農事試験場の技師によって改良が進められ伊予神力一~四号、愛媛早稲が普及した。県もまた奨励品種を定めて優良種への統一を図った。昭和に入ると京都旭が増え、一〇年代では農林一八号と愛知旭が普及した。大正八年の裸麦の奨励種は景清・播磨・伊賀筑後の三種であったが、試験場の交配により大正一二年に愛媛裸一号、一三年に同二〇号、昭和三年に改良坊主、愛国裸など多収穫で病害虫にも強い品種が生まれ、これらが戦前の中心であった。なお昭和初年には小麦・菜種などの好品種も研究された。
 種籾は明治三九年に県農会が各郡に原種田を設け、町村農会単位で配布した。県も東予煙害地救済のための農林業改良奨励基金により、明治四四年に越智郡清水村と周桑郡壬生川村に米麦採種園を設けた。壬生川村分は大正五年に同郡庄内村に移して新居郡・宇摩郡にも増設した。大正九年同園は米麦採種場と改称し計一二町六反と職員七名を配した。同一二年には喜多・北宇和・東宇和郡にも計三町三反を設け、上浮穴郡に雑穀採種園七反を設置し、また私設の採種園にも補助を与えた。
 米作技術は農業技術の基本となるが、耕起では大正期に深耕と反転の容易な短床犂が普及し、各地で牛耕講習会が開かれた。籾は塩水選によって揚床式の改良苗代にまかれた。除草は太一車に代わり大正三、四年ころから女子供でも使える転土式船形除草器が使用され、中期には全県に普及した。しかし病虫害対策は進展せず、大正期も枯穂の抜き取りや螟虫の捕蛾・採卵などが主に行われた。稲穂乾燥の台掛け・凱掛けなどは大正一〇年ころから全県でみられた。周桑郡での稲架の普及率は同一三年では三・五%であるが一五年では二五%、昭和四年五九%と急速に伸びている(『周布村誌』)。脱穀では大正初年から改良千歯扱が次々と現れたが、軽便な足踏脱穀機が大正末期には九〇%の普及をみた。農用の発電機・石油発動機・噴霧器の使用も大正中期から開始された。

 農業基盤整備事業

 畜耕や農器具使用による耕作の能率化、生産性の向上と安定のためには、耕地整理も不可欠の条件であった。明治末期に開始された同事業は大正に入ると大規模となり、末年には認可件数・面積ともに明治期の三倍となった。「耕地整理法」も明治三八年、四一年と改正されて灌漑・排水事業が奨励されたが、大正三年(一九一四)更に改正されて地目変更や干拓も認められ、耕地整理組合が法人化し小作人も組合員となった点が進歩した。県も大正二年五月に補助規程を、従来の五町歩を一〇町歩以上として事業の拡大を図った。大正一三年現在で県下水田面積の二六・五%が施行認可となっており、県では技師一名・技手一三名・工手一三名・主事補一名を置いて工事の指導に当たった。
 県下耕地整理事業発祥の宇和盆地では、大正期には岩木・上松葉外五地区の計二六〇町歩で整理が進められた。腰までつかる湿田であった越智郡紺原村(現大西町)では、日本勧業銀行などから一万四千円を借り入れて大正五年から全村五六町歩で実施し、南宇和郡一本松村広見地区(現一本松町)でも、二万五千円を投じて九五・四町歩の整理を大正四年六月に完了した。これによって同村の宅地は二割、水田三割、畑は九割も増加し、水田の地価は整理前の一、四二四円が一万三、七四一円となった(『一本松町誌』)。新居郡では大正七年一月の新居浜町一〇二町三反、同八年九月神拝・大町・玉津三地区にわたる五四二町七反、九年三月高津村・神郷村三三三町七反、同年五月橘村二三二町六反など、一部市街地区を含んだ膨大な耕地整理事業が展開した。隣接の周桑郡小松地区でも一〇〇町余を整理し、大正三年一一月には九万七、〇〇〇円の巨費で大谷池を完工した。
 治水事業も災害の大規模化によって根本から見直された。用排水には発電気など原動機を使用し、河川は長大な堤防で囲まれるようになった。しかし工法は鉄線蛇篭に玉石を詰める粗朶作りが主で、コンクリートの使用は昭和以降である。大正一二年、政府は大規模な水利施設改良のため「用排水幹線改良事業」を起こし、受益面積五〇〇町歩以上の工事について国庫補助を五〇%とした。肱川の水害と排水不良に苦しんできた大洲町・新谷村では、これを利用して矢落川と都谷川の改修を計画し、付け替え・樋門建設などを行ったが、一部反対もあって着工は昭和六年九月であった。水田化熱や旱魃の水不足から水源確保にも懸命で、周桑郡では大正初年から次々とポンプ組合が作られた。周布村では六道・幸木などに小組合が一六も作られた。新居郡では大正六年三月に吉岡泉を開削し、二期工事によって二五〇町歩に灌水し畑九六町歩を水田化した。昭和初年の用排水の大事業計画には伊予郡南伊予村外の大谷池築堤、宇摩郡二町一〇か村の銅山川用排水改良事業などがある。

 施肥と防除

 購売肥料の使用増は大正期の農業の特色の一つで、施肥法も農業改良の重要要素であった。金肥の中心は明治期では魚肥であったが、日露戦争後は満州産の大豆粕・油粕が急増し、第一次大戦後に硫安など化学肥料が普及した。越智郡島しょ部でも大正初年に大阪からアルカリ肥料が入荷したが、二五キログラム入り一俵が麦一俵と同じ価格で高価であったが、効力が著しいため争って購入された。大正期、特に八、九年ではまだ高価であったが、昭和以降は量産によって安価となった。新居浜町で大正四年(一九一五)に住友肥料製造所、同九年大正油肥会社などが生産を開始したが、本県は大量の肥料移入県であり、肥料代の増加は農家の負担を重くした。昭和五年度の購売肥料の消費高は二、一五〇万貫(五二〇万円)であった。また購入肥料の増加は自給肥料の生産を促し、大正中期が緑肥生産の頂点で、作付けは一万町歩を超えていた。
 大正五、六年ごろから各部落では、農業実行組合を結成して肥料使用の講習会を催し、共同購入に当たって県に補助金を申請した。県でも大正一一年度から技術員を置いて講習・講話会のほか、肥料展や購入・施肥の注意を行った。また粗悪品や不良商人から農家を守るため、専属四名の職員を置いて肥料取り締まりに従事させた。
 病害虫の防除は果樹・野菜部門から発達した。大正中期から殺菌剤として生石灰・石灰ボルドー液、殺虫剤では石油乳剤・除虫菊・除虫菊加用乳剤・松脂合剤などが使用された。大正一〇年からはヤノネ貝殻虫やルビー蠟虫などの蔓延対策のため主要六港に苗木検査所を設けて予防した。また昭和二年(一九二七)一一月、「県病害虫防除督励規程」により市町村にも予防委員を置いた。稲の病虫害のうち浮塵子は注油法で駆除したが、螟虫については戦後のホリドール剤までは根本策がなかった。

 営農指導

 農会の結成は明治三〇年代から普及するが、大正期には整備されて行政に代わって農家の指導体制を強化した。郡・町村農会共に専門の技術員を置いて農事改良を進め、郡農会は郡制廃止後も活動を続けた。農会は特に大正一一年(一九二二)四月の改正「農会法」によって帝国農会・県農会以下の系統組織も強化された。大正中期の県農会長は周桑郡庄内村(現東予市)の青野岩平で、彼が県農会発展の基礎を確立した。
また、このごろ久米郡南土居村(現松山市)出身の岡田温は帝国農会の幹事として活躍し、昭和の恐慌期には農村更生にも尽力した。昭和期の農会は技術改良の外に、経済や生活改善・農民教育にも力を入れ、農村不況への対処が重要課題となった。県も市町村農会技術員の俸給の三分の一を補助するなど援助体制を強化した。
 農会が主として農事改良や農政推進に当たったのに対し、産業組合は経済団体として生産物の加工と販売、資財の購入や金融面を担当した。その設立は日露戦争までは緩慢であったが、「産業組合法」の数次の改正によって全国的に系統化され、政府の援助も増えたため明治末期から急増した。大正元年に県下に一五七組合があったが、その設立年代は明治三三~三九年が一七組合、四〇・四一年一八組合、四二・四三年六一組合、四四・四五年が六一組合であった。明治四三年三月には産業組合中央会の県支会が発足し、大正初年には各郡部会も設立された。初期は大字単位の小規模なものが多く、事務所も組合長の私宅や役場の一部を借りるものが多かった。大正末からは村単位に統一され、低利資金が農家以外の綿織りや蚕糸業者にも利用され、出資総額や払い込み出資金の伸び率は銀行の倍以上であった。
 産業組合の発展は指導者によるところが大きい。例えば周桑郡庄内村は豊かな農村であったが、米麦の下落で中堅農家にも没落するものがあった。そこで青野岩平らは六七名で明治四一年に信用購買組合を設立し、資材や肥料の共同購入に当たった。その効果により明治四五年は二四四名、大正一二年は全戸の九一%三九二名の加入をみた。大正六年の全国表彰を機に販売加工を加え、一〇年には農業倉庫と工場を建築し電動機利用の精米・精麦機を導入した。また社会改良のための講演会や図書整備、娯楽として文楽や活動写真会を開催するなど産業組合を中核とした村づくりが行われた。なお青野岩平は大正二年に県信用組合連合会を設立、同一二年に全国購買販売組合連合会設立発起人、昭和四年(一九二九)には県購買販売組合連合会を組織して会長となるなど産業組合活動に貢献した(『庄内村誌』)。大正末年から昭和初年にかけての不況期の産業組合は、米価・繭価の下落に加え麦も不作の連続で、組合の経営状態は悪化し一時解散する例も生じた。
 県立農事試験場は明治四五年に温泉郡余土村(現松山市)から道後湯之町大字持田に移転した。大正一三年現在敷地四九六坪、試験地六町四反、種芸・農具・園芸・農芸・化学・病虫害・雑穀・庶務の八部を置き、技師四・技手一二名の陣容を擁していた。市町村に産業技術員を置くため大正四年から同場に農業技術員養成所を置き技術者を養成した。昭和初年県庁にも地方農林技師八名、農林技手二二名、農林主事補七名がいて地方農政に当たった。

 養蚕業の発展

 養蚕は大正期に最も著しい成長をみた産業の一つである。明治二〇年代には士族授産の域を脱し、農家の副業として定着した。明治末年から県もまた本県を名実ともに関西一の養蚕・製糸王国とするため、技術指導と補助体制を強化した。繭価の上昇により農家も養蚕に熱狂した。県下の桑園は明治四〇年に三、〇〇〇町歩であったが、昭和元年には一万町歩を超え、養蚕農家も全農家約四割の五万戸に達した。興隆期の大正初年、周桑郡の櫨山はすべて桑園となり、全盛期の昭和初年には、北宇和郡では段々畑や水田にも桑が植えられ、養蚕用の新様式の農家建築が流行した。昭和二年の本県の全国的地位は桑園面積で一八位、養蚕農家数一五位、掃立枚数と収繭高は一〇位、繭産額は九位であった(「県勢要覧」)。しかし昭和五年を頂点とし、それ以降の衰退は成長の速度よりも速く、投機的産業でもあった一面を示している。周桑郡田野村の桑園は昭和五年に一二八町歩であったが、同七年にはわずか七町歩に激減して樹園地と化した(『田野村誌』)。
 県下の養蚕は南予の四郡を中心とするが、昭和に入ってからは東予の周桑・新居郡と南宇和郡の伸びも著しい。以上のように急速に発展した養蚕県であるが、先進地と比べれば問題点も多く、それだけに強力な指導・助成体制が必要であった。大正一五年(一九二六)六月、伊予糸声価低下の改善策として香坂知事の発した訓令によると、桑園の荒廃、蚕種製造及び製糸技術の未熟、特に四〇〇種を超える蚕種の整理を強調している。
 器械製糸は均質の繭を要求する。政府は品質向上のため明治四四年三月、画期的な「蚕糸業法」を公布し、県もこれを受けて蚕業取締所を創設し、蚕種の統一作業を開始した。同所は本所を県庁に、支所を西条・大洲・八幡浜・卯之町・宇和島に置き、後に久万と松山を追加し、各地に臨時出張所を開設した。また大洲村に蚕種製造所(大正一二年一月、県蚕業試験場に改組)を設置して、原蚕種の製造配布を開始した。同所は各種の試験・調査の外に研究生を入れ、講習会を行って新技術の普及にも努めた。
 講習終了者や経験者のうち試験に合格した者は養蚕教師となり役場・農会・組合に所属して農家を巡回指導した。なお明治四二年に母蛾検査員として女子三一名を採用、大正二年女子蚕種検査員養成講習会を大洲・宇和島で開いて九九名を合格させるなど婦人も力を発揮した。また東京や京都の養蚕講習所を受講する者も、大正初年には毎年一〇名前後いた。繭の品質が向上すればそれだけ価格も上がるので各所とも争って技術者を入れた。盛期の温泉郡川上村では役場で京都から専任の技師を雇い、各郡落でも別に技術員を雇った(『川内町誌』)。大正一二年度からは郡制廃止によって郡費の指導員・技手などを県費とし、また県立農学校に養蚕科や養蚕研究所を設置した。
 初期の養蚕の最大の課題は原蚕種の確保と保存であった。初期は信州産原蚕種などを移入したが、明治二〇年代には県下にも専門の製造業者が生まれ、明治末期には急増し、大正五年には南予中心に一〇二業者がいた。同年川之石の日進館(兵頭寅一郎創設)は全国蚕種業者中七位の産額を産した(『保内町誌』)。昭和初年の業者は五二となったが、蚕種の統一はそれほど進展しなかった。貯蔵は明治期には新居郡加茂村や上浮穴郡など山岳地の風穴を利用したが、大正期には氷庫となった。桑園改良について早生苗の奨励、改良増殖組合や共同桑園への補助を進め品評会を開き、病害虫駆除予防を指導した。昭和三年からは郡ごとに設置した指導桑園により、実地講習も行った。
 経済飼育のためには各戸の規模拡大を図るとともに共同化を進め、改良のための養蚕組合設立を推進した。大正中期までに郡単位の養蚕同業組合も設立された。繭の品質向上のためには検定を強化した。遅れている流通面では、県は各市町村に繭市場の設置を勧めた。関西有数であった大洲繭市場の大正五年度の取り引き量は一三万貫で、その相場は県下の基準となった。しかし県全域としては明治末から仲買商人の著しい増加によって蚕家が不利となる例が多く、県では蚕種・桑・繭の売買業者を知事の免許制として取り締まった。需給調節・品質向上には乾繭倉庫や利用組合が効果があり、県の補助によって普及すると製糸工場との特約取り引きも行われた。こうして繭産は急増したが、繭価の下落によって養蚕農家の収入は伸びず、県下の平均収入代金は大正五年の一九一円が、昭和五年では一七九円、桑園一反歩当たりでも九六円から六八円に下落した。県では不況対策として生産調節・桑園改植・中小製糸工場の合同を訓令し、産業組合中央金庫などから二〇〇万円の応急救済資金を借りるなどしたが、世界的市況の変化の中ではどうすることもできず、以後は次第に柑橘への転換が行われた。

 果樹生産の拡大

 果樹は明治期になって櫨・綿などの工芸作物に代わる有利な換金作物として普及した。明治中期までに篤農家によって主産地形成のための努力がはらわれ、末期から柑橘・梨を中心に急速に植樹された。昭和初年までは県統計も樹園地としてでなく果樹の本数で把握していたが、大正六、七年ごろは特に急増して推定四、〇〇〇町歩にも達した。このころ梨は全国一、大正初年に一二、三位であった柑橘も一二年には四位となった。次の急増期が昭和初年であることから、県下の果樹の発展は気候・地形的条件の優位や全国市場拡大の時代の動きとともに、米・繭の暴落不況対策の意味合いが大きいことが分かる。
 昭和二年の本県の果樹産額は三四四万円で静岡・和歌山・青森に次いで全国四位、品目では夏橙は一位、蜜柑・梨は三位であった。しかし苗木については移入県で、毎年一〇万本以上を兵庫・静岡などから購入していた。品種改良や病虫害対策も遅れ、例えば新居郡では明治四四年に一一四町余の柑橘園があったが、苗木選定と肥培管理の失敗から大正中期には半分以下となった。県でも大正一〇年九月に「苗木取締規則」を公布して苗木取締吏員を置き、移入する苗木一四種について品質や病害虫の検査を行い、不良品を返送した。県農会資料によると昭和五年県下の樹園地は五、四三一町歩で、大正五年の七割増、特に柿は六四七町歩で一七倍、栗・枇杷も三〇〇町歩となっている。柿の中心は北宇和郡と周桑郡であるが、周桑の柿は大正期に本格化したもので、愛宕柿は在来種のうちの優良種を接ぎ木で、富有柿は大正元年以来岐阜県から苗を移入して増反したものである。樹園地の分布は郡市内でも場所による変化が大きく、松山市の場合周辺地区や沿岸部に集中する。
 県下みかん生産額は、明治から大正初年までは北宇和郡立間村一村で半分を占めていた。大正期は梨の盛期と養蚕の好況でやや停滞したが、大正末期から梨の病害虫発生と価格下落により急増し開墾も行われた。販売は各地とも山売り、浜売りをしていたが、大正中期には同業組合が結成され、同一五年五月には県果物組合連合会が結成された。こうして阪神市場の外昭和初年には東京市場も開拓された。立間では大正三年に宇和柑橘同業組合を結成したが、昭和四年に生産販売を一元化した宇和蜜柑販売購買組合に改組した。越智郡の先進地関前村では昭和三年に柑橘園が七〇町歩に達し、井村亮を組合長として出荷組合を組織した。
 夏柑は西宇和郡中心で大正二年には戦前最高の三六六町歩であったが、一〇年から昭和初年には二七〇~八〇町歩に減少し七、八年から急増して一〇年には四三八町歩となった。昭和初年までは機帆船で阪神へ出荷したが、昭和一一年では四割を東京へ移出した。

 園芸・特用作物

 蔬菜は大正期に入って都市や商工業地の発展で大量消費時代に入り、五、六年から作付け面積も急増した。昭和恐慌期には米・繭の下落に代わる現金収入源として更に伸び、やがて県外出荷も開始された。今治では綿業発展による人口集中で需要増となり、大正一二年に市農会は各部落に温床栽培を勧めた。このころ同市の蔬菜産額は果樹の二〇倍であった。大洲地方では明治中期から冷床育苗による茄子・胡瓜の保成栽培が始まり、昭和一〇年ごろから苗床に藁・米糠・堆厩肥を入れて発酵熱を利用する温床育苗が一般化した。
 明治期には農家最大の換金作物であった工芸作物は、大正期は一般には衰退するが、本県はまだ全国有数の産地であった。作物は多種であるが、主なものは山間部では三椏・楮・茶・こんにゃく、平地では菜種・葉煙草・藺、海岸部では綿・除虫菊・甘蔗などであった。三椏は明治中期から楮に代わる製紙原料として栽培が増え、同四一年には頂点となったが、それ以降は減少し、昭和一〇年代に再び増加した。生産の半分は上浮穴郡が占めていた。楮は大正五、六年から桑や三椏におされて急減し、昭和初年の作付けは明治末期の二割となった。櫨・茶・菜種も同様の経過をたどった。これに対し除虫菊と葉煙草は同年ごろから急増した。
 葉煙草の栽培は苗木から乾燥まで多くの労働力を要した。しかし専売法による政府の買い上げで安定した収入が得られて不況には強い。但し作付け町村は指定されて委託の形で生産された。県下作付けの半分は越智郡で占めたが、島しょ部の場合大三島に大正二年(一九一三)、伯方島へは同八年に移入され、村ごとに次々と煙草耕作組合が創設された。大正一〇年の生産地は越智・宇摩・温泉の三郡のみであった。温泉郡でも西中島・睦月・東中島・神和の中島四村で生産され、作付け合計は五〇町四反、耕作者は六六三人で一万九千貫を産した。昭和一〇年(一九三五)にはこれに周桑郡・新居郡・伊予郡の三郡が加わり、合計反別は六七六町歩に増加した。
 除虫菊は明治三〇年ごろ広島県から越智郡島しょ部に移入され、みかんの間作として、また段畑の有効な利用に役立った。愛媛県は北海道・広島県と並ぶ全国的産地で、過半は米国に輸出した。大正一〇年の県下作付けの九一%は越智郡が占めていた。温泉郡中島へも明治三〇年代に入ったが後に栽培が中断され、大正六年に大三島から再移入された。同一〇年は栽培面積が二一町六反であったが昭和一〇年には三八三町歩(県下の二一%)と急増した。

 畜産業の成立

 大正期の愛媛の畜産は牛馬中心であったが、末期から昭和初期にかけて養鶏・養豚が普及し、品種改良や飼育技術・畜舎改善についても研究が進められた。大正五年度の畜産額は九四万円(牛五三%、生乳九%、卵二六%、食鶏一一%)であったが、昭和元年では約三倍の二六〇万円(牛四五%、生乳八%、卵四三%、食鶏三%)と増加した。牛馬の改良増殖については大正六年七月「優良種牛奨励規程」(資近代3六四六)、昭和二年「優良種牛馬奨励規程」で所有者・購入者に奨励金を与えて保護し、優良種の県外流失を防止した。また良種を移入し雑多な種畜を統一するために、県立種畜場の必要が大正初年から県会の議題となったが、同一〇年に用地・建設費の寄付を申し出た周桑郡庄内村(現東予市)に決定し設置された(資近代3八三七)。同村では大正七、八年より北海道や岩手県から牝馬を移入して馬の改良に努めていたが、種畜場の設置によって周辺町村の関心も高まり、大正一一年に東予四郡競馬会を結成した。同年四月周桑郡畜産組合事務所を落成し、一三年庄内村肥育牛組合を結成した。一四年一〇月同郡三芳村に屠殺場・家畜市場を開設し、昭和に入っても良種の移入、改良増殖への努力が続けられた。
 また特に南予の産牛改良の必要性から昭和一一年一一月、各所の候補地の中から東宇和郡野村町に県立種畜場南予分場が設置された。同場は初め役場内に仮事務所を置いたが翌年三月に新築落成し、和牛一七、豚九、羊二〇、場員六名で発足した。
 本県は役肉牛・堆肥源・農耕用として全国有数の牛飼育県であり、五万頭内外を常に保有した。肉牛としては早熟・早肥の特色があり、伊予牛の名で阪神市場へ出荷した。しかし大正・昭和期を通じ一戸平均一・一頭にも満たない少数飼育であった。産地では闘牛の盛んな南予、特に御荘牛・三崎牛が著名である。三崎牛の飼育は現在の瀬戸町域が中心で、昭和初年までは毎月一〇〇頭以上の子牛が大久の牛市に出荷された。温泉郡中島も飼育が盛んで、昭和一〇年ごろまでは五〇〇頭がいた。牛乳の飲用は大正期は病人又は乳児用が中心で、昭和初年まではむしろ乳牛の飼育頭数・搾乳量ともに漸減傾向であった。
 近世には馬は牛よりも多く飼育され、明治初年にはまだ三万頭がいたが、大正初年には一万頭に減少した。大正期には農用、運搬用として重要であったが、昭和に入って車の普及で更に減少した。県下では越智郡が最も多く大正一〇年(一九二一)で二二%、昭和一〇年(一九三五)では二〇%を占めた。次いで上浮穴郡・南宇和郡が多く、上記三郡では大正一〇年で四六%であった。大正八年二月の「優良馬飼育奨励規程」では血統明確の牡牝馬ともに飼育者に一五円、県外からの購入者に三五円を与えたが、一五歳までは無許可の移出や廃用を禁じた。豚も越智郡が多く大正一〇年で二八%、昭和一〇年で二一%を占めた。頭数は順調に伸びたが不況期の相場下落で、数回の減少期があった。西宇和郡では津布理村(現三瓶町)の宇都宮幸次郎が初めて肥育し、大正一四年二及浦・垣生浦(ともに現三瓶町)の業者約二〇名で組合を結成し、昭和六年から大阪へ直接出荷を行った。
 鶏は大正八、九年の卵価の暴騰によって大正末期から著しく増加した。しかし昭和に入ると飼料高の卵価安で淘汰が進んだ。大正初年に五〇羽以上の飼育農家はわずか五〇戸内外でほとんど庭先養鶏であったが、末期には三〇〇戸以上、昭和六年以降は一、〇〇〇戸以上となり、七年では一〇〇羽以上の養鶏農家も温泉郡・周桑郡を中心に二八八戸あった。飼育の盛んなのは温泉・越智二郡で、昭和五年県下鶏数の三七%を占めた。県では農家の副業として昭和三年三月「養鶏奨励補助規程」、翌年三月の「養鶏奨励規程」により保護し、三〇人以上の組合か農会、産業組合の孵化育雛施設、卵・食鶏の共同出荷斡旋に必要な費用・設備、飼料・資材の共同購入に、必要な経費・備品代の半分から三分の一を補助した。
 畜産振興の基盤となる組合は、「産牛馬組合法」によって明治末年から大正初年の間に、各郡単位に産牛馬組合が組織されて優良種の導入・畜舎の改良・共進会の開催・牛馬市の運営に当たった。新居郡ではやや遅く大正三年二月に御大典記念として組織したが、翌年の「畜産組合法」によって新居郡畜産組合と改称し、専任の技師を置いた。大正九年で会員数は約三、六〇〇名、前記の事業のほか牛馬の共済事業も行っていた。
 家畜市場は大正中期から昭和初年にかけて、県下に常設四、定期市場五八、九があり、年間約三万頭の牛と一、〇〇〇頭の馬を売買した。越智郡畜牛馬組合では大正二年(一九一三)一二月に菊間家畜定期市場を経営し、昭和初年までは年間四〇〇頭以上を取り引きした。昭和二年(一九二七)一〇月には同郡亀岡村(現菊間町)にも子牛市場を開設、年間約二五〇頭を売買した。同市場は後に関西屈指の子牛市場として知られたが、上浮穴郡の久万野尻市も伊予牛の県外移出の中心の大市として著名であった。

表3-18 愛媛県の専業兼業別・自小作別農家数

表3-18 愛媛県の専業兼業別・自小作別農家数


表3-19 経営耕地面積の推移(単位は100町)

表3-19 経営耕地面積の推移(単位は100町)


表3-20 郡市別農家数及び形態別農家率

表3-20 郡市別農家数及び形態別農家率


表3-21 愛媛県主要農作物の作付け面積と生産高(単位は100町)

表3-21 愛媛県主要農作物の作付け面積と生産高(単位は100町)


図3-3 愛媛県の米麦作の推移 資料:「愛媛県統計書」より作成

図3-3 愛媛県の米麦作の推移 資料:「愛媛県統計書」より作成


表3-22 愛媛県下耕地整理事業の推移

表3-22 愛媛県下耕地整理事業の推移


表3-23 肥料価格指数の推移(大正6年を100とする)

表3-23 肥料価格指数の推移(大正6年を100とする)


表3-24 愛媛県の緑肥用作物の生産

表3-24 愛媛県の緑肥用作物の生産


表3-25 愛媛県産業組合の推移

表3-25 愛媛県産業組合の推移


図3-4 愛媛県の養蚕業の推移 資料:「愛媛蚕糸統計表」より作成

図3-4 愛媛県の養蚕業の推移 資料:「愛媛蚕糸統計表」より作成