データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

一 大正期の県政

 明治から大正へ

 明治四五年(一九一二)七月二〇日、宮内省から明治天皇の病状が悪化し、重体となった旨の連絡を受けた西園寺内閣では、早速官報号外によって天皇の病状を国民に知らせる措置をとったが、国民の平癒祈願も空しく病状回復することなく、ついに七月三〇日崩御された。
 同日、皇太子嘉仁殿下が践祚され、元号は大正と改められた。八月一三日、前首相桂太郎が内大臣兼侍従長に任命され、新天皇を補佐することとなった。
 当時の第二次西園寺内閣は、行政整理を最大の政策課題とし、明治四五年度予算の編成過程でこの年度に大行政改革を行う方針を決めており、四四年一二月には首相を総裁、原敬内相を会長とする臨時制度整理局が設置され、本格的な作業が進められていた。天皇崩御の事態はこの作業を中断することとなった。
 ところで、元老山県有朋を背景とする陸軍は、明治四〇年決定の帝国国防方針に示された二五個師団への拡張計画の一部として二個師団増設を求めていた。大正二年度予算案編成で内閣と陸軍は対立し、一二月二日上原陸相は首相を経ずに単独で直接天皇に辞表を提出した。陸相の後任を得られなかった西園寺内閣は、同月五日ついに総辞職した。これをきっかけとして軍部批判、藩閥打破、憲政擁護の世論が高揚した。こうしたことから後継首班の交渉は難航し、ついには宮中にあった桂太郎が勅語を得て組閣、桂内閣が成立した。このため憲政擁護運動が広汎に展開し、波乱の第三〇帝国議会から内閣総辞職に至るいわゆる″大正政変″となるのである。

 県庁機構の改革

 大正二年(一九一三)六月、「地方官官制」が改正された。この改正は、明治三八年改正以来の全文改正であった。主な改正点は、内務部・警察部の二部制を具体化したこと、従来の奏任事務官三人を内務部長・警察部長・理事官の具体的名称に変更したことなどであった。
 これに伴い愛媛県では、同二年七月二五日に「愛媛県処務細則」を改正したが、県庁の事務分掌は明治四〇年改正と変わらなかった。その内容は次のようであった。(図表 「県庁の事務分掌」 参照)
 「地方官官制」は以後毎年部分改正がなされたが、主として官吏の定員改正に伴うものであった。主なものをあげると、大正五年改正で工場法施行に伴い府県に工場監督官を置くことができるとされたこと、同八年改正で理事官定員を専任四人と規定したこと、同一二年改正で愛媛県などの理事官を一人増員して専任五人としたこと、同一三年九月改正で小作争議調停に関する事務を掌る小作官を置いたこと、同一三年一二月改正で内務部長・警察部長を書記官に、理事官を地方事務官に、警視を地方警視に、小作官を地方小作官に、技師を地方技師に名称変更したことなどであった。なお、大正一五年(一九二六)の全文改正については、郡制廃止の項において取り上げることとする。
 愛媛県では、官制改正に伴いあるいは独自の立場で「処務細則」の部分改正を行ったが、大正八年九月二九日には処務細則を全文改正して、大規模な事務分掌の改革を行った。その内容は、(1)内務部農商課・水産課を統合して勧業課としたこと、(2)警察部高等警察係を昇格させて高等警察課としたこと、(3)工場法施行に関する分掌機関を警察部保安課から独立させて工場課を新設したことであった。同一〇年三月三一日には、社会教育・青年団指導・生活改善並びに思想善導などの社会問題に関する事務を管掌する社会課を内務部内に新設した。
 県庁機構はその後、大正一二年五月九日に再改定され、内務部勧業課・林務課が農林課・商工水産課に編成替えされ、警察部に刑事課が新設されたが、刑事課は高等警察課と分掌事務が重複するため翌一三年一二月二五日に廃止され、農林課・商工水産課も同一四年一一月一三日の処務細則改正では勧業課・林務課に逆戻りした。
行財政の緊縮と県立松山病院の廃止
 明治四四年八月に成立した第二次西園寺内閣は、行財政整理を基本力釧としていたが その一環として地方行財政整理を再三にわたって指令していた。まず、明治四五年一月に、地方事務の刷新、財政の整理節約及び整理刷新のために委員の設置を指令し、次いで大正元年九月には、内相・文相・農商務相三名の連名で、地方財政の刷新に関して「現行法規ノ範囲内ニ於テ実行シ得ヘキ事項ニ就テ」大綱を示した訓令(いわゆる三大臣訓令)を発した。その内容は、教育費、土木費、補助金、各種基金の運用などに関し、地方庁に対し、具体的かつ詳細な財政整理刷新の指令であり、その後多年にわたり地方行財政の執行に関し重大な影響を及ぼしたものであった。
 愛媛県にあっても、大正元年(一九一二)以降、この訓令の趣旨が色濃く反映することになったのは、当然の成り行きであった。こうした背景の中で、大正元年通常県会では、県立松山病院を廃止し、その資産一切を日本赤十字社愛媛支部に譲渡し、病院事業を継承発展させることが議決された。
 ところで、この県立松山病院は、明治七年七月、県の衛生行政推進の中心機関の必要から松山市街二番町に創設されたものであった。翌八年三月、同市街小唐人町に新築移転され、以後廃止に至るまでこの地にあって、施設の整備拡充が図られ、県下最大の医療機関であるとともに医育その他広く県下の医事・衛生の推進、指導、監督機関としての機能を合わせ持ち、重要な役割を担ってきたものであった。
 しかし、その後、民間に私立病院が新設、拡充されていくなかで、明治三〇年代後半から施療患者数が漸減する傾向があり、その存在が問われるようになってきた。すなわち、明治三五年通常県会で、病院の拡張充実論が提起されたのをはじめとして、以後度々存置拡張論と移管廃止論が展開されてきた。とりわけ、明治四二年通常県会では、田村春三郎(政友)から、病院の赤字経営と県医界の進歩を根拠に病院廃止及び病院特別会計予算否決の動議が提出され、激しい論議の末、可決されるに至った。もっとも、これは伊澤知事の原案執行により、病院は一応存続されることになったが、県当局としては、病院問題を根本的に検討する必要に迫られていた。
 この結果、大正二年(一九一三)三月三一日付で県立松山病院は廃止され、翌四月一日から日本赤十字社愛媛支部の病院として新発足することになった。その理由としては、病院が現状では、規模が狭小のうえ位置が悪いこと、根本的改善には多額の費用がかかり、緊縮財政下の当時の県財政では耐えられない点があげられていた。なお、この移管には、松山中学校敷地を売却・充当することが付帯条件となっていた。

 伊澤知事の離任と深町知事の着任

 第三次桂内閣成立後間もない大正元年一二月三〇日、知事伊澤多喜男は新潟県知事に転出を命ぜられた。愛媛県での在任は三年六か月であった。後任知事には、前愛知県内務部長深町錬太郎が任命された。
 深町は、明治四年一月二七日、石川県金沢下高儀町に生まれ、石川県士族であった。明治二九年七月に帝国大学法科大学政治学科を卒業し、逓信属に任じられた。同年一二月、高等文官試験に合格、翌三〇年一一月に逓信事務官、同三一年に通信事務官に任ぜられ、鹿児島・大阪・札幌の各郵便電信局の勤務を経たあと、同三二年に内務省に転じ、愛知県参事官に任ぜられた。以後、愛知県事務官・茨城県第一部長・栃木県内務部長・新潟県内務部長を歴任し、同四二年愛知県内務部長となった。
 そして、大正元年一二月三〇日、愛媛県知事に任命された、赴任当時四一歳であった。本県在任は三年五か月で、大正五年(一九一六)四月、文官分限令により休職となり、翌六年四月に病気を理由として依願免となった。

 松山中学校移転問題

 新任の深町知事が、赴任早々取り組まねばならなかった問題に松山中学校移転紛争があった。当時、県立松山中学校は校舎の修繕、生徒定員増計画に伴う新築の必要があり、現在地は敷地狭小のうえ拡張する余地がなく、敷地を新たに他に求める状況にあった。そこで県当局は、松山中学校敷地を日赤に売りその売却金をもって松山中学校を移転改築し、その敷地としては無償で得られる官有地――石手川堤防(温泉郡素鵞村立花と雄群村藤原両地区にまたがる九、八九四坪の土地)――を充てようとする提案を行った。この計画は、県会では新敷地の適否について若干の質疑があった程度で、最終的には満場一致で承認され、その後問題化する徴候はみられなかった。したがって、新知事はこの執行に当たることとなり、大正二年三月五日付で松山中学校位置変更の認可を文部省に申請した。
 ところが、この松山中学校移転問題は、移転予定地の石手川堤防が風儀・教育上から見て不適当であるとする松山市会と松山中学校保護会・同窓会の猛烈な反対で予想外に難航することになった。市会代表者の上京や松中出身代議士らの働きかけで、事態を憂慮した文部省が移転認可を見送ったので、移転問題は完全に行き詰まった(移転反対運動の詳細は、第五節三「中等学校教育の普及」参照)。
 こうした状態で打開策のないまま迎えた大正二年通常県会では、知事が不認可に至った事情説明をした上で、執行できなくなった移転のための継続教育費を廃止する議案を提出した。これに対し、県会は知事の斡旋の労を多としながらも、県会決議の重大事項が無視されたことはその権威にかかわるとの激しい反発を背景に、対立した松山市会への非難、松山中学校移転の中絶と県立病院の日赤移管の関連性、理事者の反対運動への対応と臨時県会を招集しなかった処置などについて、鋭く追及した。知事は、決定事項の執行に努力を傾けたこと、文部省の移転否認の理由が単に不適地というにとどまらず移転そのものを否認した予期しないことであること、中学校移転が病院移管の条件ではなく別個の問題であると答えた。
 しかし、県会はこれに納得せず、敷地に関して中学校移転問題と病院の日赤移管は切り離せないとの態度から、また、中学校移転貫徹の見地から、松山中学校問題調査委員会の設置を決議し、独自の調停工作に乗り出した。調査委員会は、まず松山市側と交渉を開始し、市側から中学校の適地移転の了承と敷地寄付の協力を取り付けた。しかし、知事との協議では、現在地を動かさないとの文部省意向がある以上は認可申請ができないとの知事見解を動かすことができなかった。
 そこで県会は、一応、病院と中学校問題を切り離して、日赤支部病院交付金予算は承認し、中学校移転計画に関する教育費継続年期及び支出方法廃止の件を否決し、内務大臣宛「松山中学校拡張並移転ニ対スル意見」の提出を採択し、あくまで移転の決行を迫ることとした。また、代表者として村上紋四郎、清家吉次郎の両議員を上京させ、文部当局の真意をさぐるとともに移転陳情を行った。この結果、奥田文相、田所普通学務局長から、適地移転を認めるとの判断を得たので、代表は帰県後、知事に報告するとともに臨時県会の召集を要求した。
 これを受けた深町知事は、急ぎ文部省の意向を確認した上で、県会の要求に応じて新たな移転先の調査を進めるとともに、大正三年二月、臨時県会を召集した。そして、「自大正二年度至大正三年度教育費継続年期及支出方法更正議案」、すなわち大正三年度から大正四年度を継続年期とする総額一〇万円の移転建築費予算案を提出した。これに対し県会は、当初九万四、〇〇〇円に減額する参事会修正案を用意したが、審議途中で移転改築よりむしろ新築にするとの動議が提出され、中学問題審査委員会の提案による総額一二万円の修正案を採択した。
 一方、移転候補地については、松山市内並びに付近において七か所を選び、鋭意調査を行った。県当局は、「温泉郡道後村字持田から松山市字持田にまたがる中土手東方の地」を最適地として大正三年(一九一四)三月一三日付で文部省に認可申請をした結果、同月一九日に学校位置変更の認可を受けることができた。
 このようにして、紛議を呼んだ松山中学校移転問題はようやく解決をみるに至った。工事は順調に進捗し、翌々年の大正五年四月二日、現在地である松山市持田の地に無事新築移転の完了をみた。次いでその跡地に日本赤十字社愛媛支部病院の建設が開始され、大正八年一月に壮麗な病院が竣工、二月一日に盛大な落成式が挙行された。

 二〇か年継続治水事業の開始

 大正二年通常県会に、大正三~同二二年度愛媛県治水費継続年期及び支出方法(いわゆる二〇か年継続治水事業)議案が提出され、異議なく原案に決して確定議となった。この事業は、大正三年度から大正二二年度の二〇か年にわたり総額九六万円に及ぶ、本県史上初の本格的な大治水事業計画であった。議案説明には、県下の主要河川が荒廃して下流域における水害が増大しているため、砂防設備・地盤保護工事などを行って治水に努めねばならないとあって、その事業内容及び対象一九河川は、表3―1のとおりであった。
 事業対象では、砂防工事が中山川ほか一五河川で四九万二、八九〇円、荒廃地復旧が肱川水源の宇和川及び黒瀬川ほか一四河川で三八万八、五一〇円で、ほかに七万八、六〇〇円の雑費が計上されていた。年度支出額をみると、初年度は一万五、〇〇〇円とわずかであるが、第二年度が二万五、〇〇〇円、第三年度が三万円と以下順次漸増し、第一四年度以降六万円となり、最終年度には五万五、〇〇〇円となっていた。これは、まず水源の植林・地盤保護、砂防工事より漸次着手し、その後河川改良事業を進行する計画であり、いわゆる「山を治めて後、水を治むる」との当局者の考えを反映していた。
 ところで対象河川のうちに県下第一の大河である肱川が入らないで、その水源である宇和川・黒瀬川が対象となっている。その理由は、肱川が国直轄で改修が行われるいわゆる第一次治水計画中の第二期河川に指定されているためであった。
 県当局が治水計画を本格的にとらえ始めたのは、明治末期の伊澤知事時代であった。当時、政府(第二次桂内閣)が、明治四三年八月の台風による大水害を契機に、臨時治水調査会官制を公布し、全国河川の治水計画を樹立しようとしていた。先の第一次治水計画はその成果であった。伊澤知事はこの動向を背景にして、明治四四年、庁内に内務部長を会長とし、土木・林務両課長及び両課の技師をもって構成する治水調査委員会を設置して、治水計画の策定に着手した。委員会では、県内一三河川を調査して、それに基づいて二〇か年継続治水計画を立案したといわれる。それによれば、当該一三河川の流域山地には状況に応じて、森林開墾の制限、造林命令の発布、保安林編入などの措置を講じて、水源山林の荒廃を防止し、また、既に荒廃しているものには復旧工事または造林を強行施行しようとするものであった。しかし、知事更迭によって県会への付議はならず、後任の深町知事に引き継がれた。
 継続治水事業は、大正年間から昭和にかけて継続され、その後昭和一四年まで、昭和一七年まで、更に昭和二三年までと年期延長・費額増額の吏正を受け、戦中・戦後の多難な時期にわたり県下の治水施設に寄与していくことになる。

 米穀検査の実施

 愛媛県は、大正四年(一九一五)一月一九日をもって「米穀検査規則」を公布し、大正四年産米から宇摩郡・新居郡・周桑郡・今治市・越智郡・松山市・温泉郡・伊予郡の二市六郡の生産検査及び移出検査を開始した。(資近代3六ニ〇~六ニ三)
 この米穀検査制度は、国策としての稲作改良、増産、品質向上の延長線上にあったもので、米穀の品質・乾燥・調整・容量・俵装について検査を行い、検査済みのものでなければ売買を許さない制度であった。また、米の商品化によって地主や米穀商も米の品質向上を図る必要を生じ、流通米を中心に、明治一七年農商務省の発した同業組合準則に基づき奨励を始めた。しかし、検査を受けるものは少なく、明治三〇年代から府県会で罰則を付して強制していった。当初の検査はいわゆる移出米検査で、同業組合や農会でこれを行っていたが、明治三四年の大分県を皮切りに府県営事業に移行し、同四〇年代には移行が確立するとともに生産米検査となった(『日本農業発達史』第四巻)。
 愛媛県では、既に明治四〇年以降、県会議長の名で県当局に調査方を建議し、大正元年に県会決議、大正二年には県農事大会の建議がなされたので、深町知事はこれを県民の世論とみてその実施を決意するに至った。そこで、産米検査開始に先立って、大正二年通常県会に、大正三年一〇月から専任技術者を設置するための米穀改良費新設予算を追加計上した。深町知事は、その提案説明において、産米検査は必要にして有効な事業であること、既に他府県で成績を挙げている試験済みの事業であり、検査の利害得失の問題は過去の問題であってただ実施の時期が問題であったと述べ、県においても県民の世論が盛り上がりをみせており、実施の時節到来との判断とその決意を披瀝していた。そして、翌三年通常県会では、大正四年度歳出予算案にその実施経費を計上した。
 ところで産米検査は、実は小作米検査となり、米種の変更、肥培管理、乾燥調整の強化として小作農の負担を増すことになったが、品質向上による利益はひとり地主に帰すこととなった。このため、小作争議(詳細は第四節二「小作争議」参照)の原因となっていくのである。検査開始が日程にあがってきた県下では、大正三年九月ごろから周桑郡・新居郡などで産米検査反対運動が具体化し、一一月中旬から一二月上旬には、新居郡西条町など三町一三か村の小作農民が検査実施延期の運動を展開し、その代表者が来松して知事に面会を求め、延期または中止の陳情を行った。
 これに対して県当局は、検査は県会の決議を重んじて、本県産米の品質向上を図りその声価をあげることを目的とするものであり、諸君は必ずその利益を認めるようになるとして、陳情を退ける一方、検査規則発布前後には、県下各地で講話会を開催して、県郡の官吏を出張させ説示に努めた。また、大正三年八月初めより、地主・小作人間の融和・親善、小作人の保護奨励、農事の改良発達を図る目的で、地主団体として各郡に農事奨励会、町村にその支会、東予四郡には連合会の設置を督励してそれを組織させていた。こうした背景のなかで、県当局は、大正四年(一九一五)一月一九日に検査規則を公布し、同時に施行に関する告諭を発して県民の理解を求めた。(資近代3六ニ三~六ニ四)

 坂田・若林知事

 大正五年四月二八日、坂田幹太が愛媛県知事に任命された。坂田は、明治一二年一二月一三日、山口県士族水谷良孝の長男として生まれ、同一九年伯父坂田昌熾の養子となった。明治三六年七月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、同年一一月に神奈川県属に任じ、翌三七年一一月に高等文官試験に合格した。明治三八年三月、神奈川県視学官に任じ、以後、同県事務官、内閣書記官、兼桂内閣総理大臣秘書官、福岡県事務官、農商務大臣秘書官、内務省参事官兼内務大臣秘書官を歴任し、山口県士族という藩閥による官吏としてのエリートコースを歩み、大正五年に三八歳の若さで愛媛県知事に任命された。坂田知事は、議会に対してかなりの高姿勢で臨んだ深町前知事に代わり、無理をしない予算編成や議会の審議は尊重するという柔軟な姿勢が好感をもって迎えられ、同志会は県当局に全面的に同調、政友会は坂田県政に対し静観の態度をとった。こうしたことから坂田は、如才のない腕利きと評されたが、本県には一〇か月在職しただけで、大正六年一月二九日に香川県知事に転出した。
 代わって、新知事には若林賚蔵が就任した。若林は、慶応元(一八六五)年一一月二八日、新潟県岩船郡村上本町に生まれた旧村上藩士族で、明治二六年九月帝国大学法科大学政治学科を卒業し、同年一一月警視庁属となった。明治二九年六月警視に昇任、以後、群馬県警察部長、沖縄県警察部長、警察監獄学校幹事兼内務書記官、山形県書記官、同県事務官、石川県内務部長を経て、同四一年三月島根県知事に任命されたが、同年八月二七日韓国政府の要請に応じ同国警視総監となり、同四三年六月までこの職にあった。以後、奈良県、山梨県、佐賀県、香川県の各知事を歴任し、大正六年(一九一七)一月二九日、坂田幹太との交替人事で愛媛県知事に就任した。
 本県在任二年四か月で広島県知事に転出した若林は、任地の各県で原案執行を度々強行し、「原案執行知事」の異名を受けたといわれる。
 本県における若林知事は、県会に対し高姿勢で臨み、本来与党であるべき政友会議員をも批判派に追いやったため、両者の関係は、終始緊張をはらむ対決の状態となった。大正六年通常県会では、東予農学校新設問題が大いにこじれ、原案否決、再議指令、原案再否決、原案執行の最悪コースをたどって知事と県会の対立が高まり、この問題はその後に尾を引く形となった。翌七年通常県会では、増額・増税予算案に対し、政友・憲政両派提携で減額修正を行い、先の農学校新設問題や米騒動・米価調節に対する県当局の不手際を厳しく指摘するなど、両者対決の状況が演じられた。

 郡立学校整理問題

 若林知事が県政第一年目で取り組んだ重要問題は懸案の郡立学校整理であった。愛媛県では、日清戦争後、中等学校が急増していた。すなわち、明治三一年に県立四、私立四であったものが、大正元年には県立一四、郡町村立一二、私立一〇の合計三六校となる激増振りであった。これは、根本的には日清・日露戦争後の日本資本主義の成立、発展に対応すべく国民の要望を原動力として生じてきた全国的現象であったが、政府の「中学校令」「高等女学校令」「実業学校令」などによる県立中等学校の設立指示により県当局が創設、また運営費補助の支給とその上に設備充実・完備の暁には県立学校に移管するという公約に誘われて創設されたものが多かった。しかし、創設された公立実業学校のうち、明治三九年に郡立八幡浜商業学校、同四一年に組合立弓削商船学校が県立移管されて以後、移管の動きはない上、明治四三年以降県費補助額は漸減され、しかも郡立農業学校においてそれが顕著であった。
 この背景には、明治末期からの慢性的不況による県財政の縮小もあるが、とりわけ大正元年九月の地方財政緊縮に関するいわゆる「三大臣訓令」による厳しい指令があったためである。こうして学校整理問題が顕在化してきたのである。この学校整理は論議の過程でいろいろな解釈が生まれたが、県当局と県会とは基本的に異なる解釈をとり、論争の火種となった。三大臣訓令の二か月後、通常県会で伊澤知事は、「郡・市町村・私立の中等学校の教育補助費については、乙種実業学校を除く外は漸次補助費額を減少して数年の内には補助金全部を減ずる考えである」と述べ、その後の県会でも県知事・県官は同じ趣旨の発言を繰り返し、事実補助額を漸減していた。このような考え方と処置が県当局のいう「学校整理」であった。一方、県会では、この県の学校整理に対抗して教育補助費の引き上げを主張するとともに、他方では県当局とは異なった学校整理を唱えた。すなわち、県立学校配置の適正化を促進し、県内各域間に不公平がないように県費負担の公平を図ることを「学校整理」と考えた。
 大正三年(一九一四)と同四年の通常県会では、甲種郡立農業学校三校と郡立高等女学校二校の補助費引き上げを可決するとともに、東宇和郡立農蚕学校・東予三郡立農業学校中の一校・喜多郡立高等女学校・新居郡立高等女学校・南宇和郡立水産学校の県立移管が建議され、満場一致で採択された。また郡立学校の県立移管建議を含め郡立学校整理の早期実現を望む建議も満場一致で可決されている。
 こうした学校整理問題に関する経過を背景に、若林知事は大正六年(一九一七)通常県会に次のような骨子の学校整理案を提出した。それは、(1)南予の東宇和郡立農蚕学校を大正七年度より県立に移管する、(2)東予には設備完備の農業学校がないので、現在ある宇摩郡立農林学校・新居郡立農業学校・周桑郡立農蚕学校とは別に新たに県立の甲種農業学校を創設することとし、その建築費を大正七年度から二か年継続で支出し、同校を大正八年度に開校するというものであった。
 県当局は、東予に新設の県立農学校の位置については県会においても公表しなかったが、開催前から新居郡内新設が確実性のある情報として伝えられた(「海南新聞」大正六・一一・一二付)。このため、危機感をつのらせた周桑郡・宇摩郡では、それぞれ郡民大会などを開催することを決議し、郡立農学校の県立引き直し運動を盛り上げることとした。こうしたなかで県会が開催されることとなり、議場外での激しい駆け引きが展開された。政友会では、南予農学校増設承認・東予農学校一年棚上げの委員案を作成したが党議がまとまらず、委員案を基礎として審議採決には自主投票で臨むこととなった。また、憲政会は県支部長高須峰造らが原案同意で説得に当たったが失敗し、これまた自主投票となった。一方、原案派すなわち新居郡派は、原案否決の線が強くなったため多数派工作に乗り出した。
 この県立東予農学校(仮称)新設案に超党派の多数議員が反発したのは次の理由によるものであった。第一に、大正三年の建議では「東予三郡立農業学校中の一校を県立学校に移管」することを望んだのであり、多額の県費を投じて県立農業学校の創設を求めたものではなかった。第二に、原案では多額の資金が東予の一地域に投入され、その結果、一地域のため他の多くの地域が大きな負担を負うことになり公平を欠くということであり、多くの議員が考える学校整理の根本方針に反することであった。
 大正六年一二月一五日の県会では、大正七~八年愛媛県教育費継続年期及び支出方法(いわゆる県立東予農学校新設案)の第一読会が開かれた。開会冒頭、清家俊三が発言を求め、県立二農業学校増設の県知事英断を評価しながら、東予農学校新設には賛成できないとする政友会委員案を代弁して、本議案の廃棄動議を提出した。激論三時間、賛成二二名、反対一三名で動議は可決され、これに伴い経常部教育費中農業学校費の削減案動議も起立多数で可決された。
 しかし、若林知事はこの議決、更には「新居郡喜多郡両郡立女学校に対する補助の増額」及び「水産試験場の費用削減」の議決はいずれも不適当として、一二月一九日、第一号議案大正七年度歳出予算の第三読会議了直後、「府県制第八三条」により再議することを命じた。この再議指令に対し議会では、清家吉次郎が三問題一括審議の動議、更には知事の再議指令を不当とし再議案を返却する動議を提出して可決し、指令を無視して第二読会議決案を再度確定議とした。
このため若林知事は、大正七年(一九一八)一月一一日、内務大臣後藤新平にこの三件の原案執行の認可を具状した。具状では、農業教育振興を急務とし、県立三校を東・中・南予に配置、東予では中央である新居郡設置が最も適当で、県会の意志である周桑郡立農学校の県立移管は該校が東予の西部に位置するため不適当であると述べ、三県立甲種農学校併立の暁には現在の甲種郡立農学校(宇摩郡立農林学校と周桑郡立農蚕学校)を乙種に変更し堅実な発展を図ると論じていた。
 同年三月二日、内務大臣後藤新平は大蔵大臣勝田主計・文部大臣岡田良平と連名で、三件の原案執行を認めた。この結果、県の県立農業学校増設予算の執行によって、南予の東宇和郡立農蚕学校は大正七年四月一日に県立移管して県立宇和農業学校と改称、議会の反対を押し切って設立されることになった県立西条農業学校は大正七年九月一九日に新設認可され、翌八年四月七日に開校式を挙行した。
 新居郡に学校の設立認可が下りたことに対し態度を硬化した周桑郡では、九月二七日、丹原町で郡民大会を開催し、「場内の空気物凄き許り緊張し」「万一を慮り丹原署よりは十数名の警官」が来場するなかで、「第一 輿論を無視し盲断的行為を敢行する知事は信認せす、第二 郡民共同一致、益々教育、勧業の発展を期する為め自衛策を断行すること、第三 農蚕学校の存廃を決定し、生徒の方向を迷はしめざるが為早速に臨時郡会の開会を郡長に請求すること」の三か条の決議を行った(「愛媛新報」大正七・九・二八付)。
その前日、周桑郡の各町村長は辞表を提出、また同郡選出の県会議員日野松太郎・渡邊静一郎(いずれも政友会)は責任をとって一〇月九日に議員を辞職した。翌八年二月、周桑郡会は郡立農蚕学校の廃止を決議し、同校は同年三月三一日限りで廃校となった。

 米騒動対策と米価調節

 若林県政二年目の夏は、米騒動とその対策に追われた。米騒動は大正七年七月二三日、富山県魚津町での米価の暴騰に苦しむ漁民の女房連中の県外移出米の積み込み拒否に端を発し、集団となって米商人・町村役場に対し米価引き下げ、困窮者救済を要求、この米騒動が新聞などで伝えられると、八月一〇日~一五日の間に全国主要都市に、更に八月中旬以降には農村・地方都市に波及し、全国的な暴動と化した。
 米価暴騰に伴う生活難は本県でも県民各層に及び、また他県の米騒動の影響を受けて県下各地で不穏な動きが現れはじめた。これに対して県当局では、非番巡査を召集して夜間警備体制を強化する一方、八月一三日、若林知事は緊急告諭を発して、米の貯蔵は十分であり政府は現在その分配方法を検討中であるので、危惧の念を抱くことなく「宜シク平静ノ態度ヲ持シ苟クモ常道ヲ逸スルカ如キ行為ナキヲ期スヘシ」と県民に呼びかけた。
 ところが皮肉にもこの告諭が発せられた翌一四日夜、米騒動が伊予郡郡中町で勃発した。次いで翌一五日松山市に波及、一週間後の八月二二日には北宇和郡宇和島町で鈴木商店経営の酒類醸造会社が焼き打ちされるという騒動に拡大した(詳細は第四節一「米騒動」参照)。
 政府は全国各地に米騒動が頻発するなかで、米価調節を強化するため、緊急勅令の形で八月一六日、「穀物収用令」を発し、米穀価格が異常に高騰して国民生活の困苦を救済する必要のある場合、農商務大臣による米穀の強制的買い上げと廉売を法制化した。そして、同二七日には同令第一条の規定に基づき、補償金額=買い上げ価格を農商務省告示で示達した。愛媛県では、外米の県内移入を促進するため、従来地方団体で扱っていた外米買い入れを県の直接取り扱いとし、四五万円で三万袋(二万石余)を買い入れて配給することとした。一方、民間でも有志・篤志家・米商などからの寄付が続き、松山市内では、地元日刊三新聞社協同の白米廉売会が盛況で、たちどころに六〇石を売り尽くしたと伝えられた。
 穀物収用令の施行と買い上げ価格の告示は、米穀商や農家に大きな衝撃を与えた。告示直後の景況について「二八日の如きは米価並びに正米市場は混沌たる形勢を呈し、或る農家は三十円以下で投売をなすあり、商人は是を利して値をつかし二十六、七円で買廻る者、恐れて買ひ得ぬ者あれば、半面には京阪地方から三十八、九円なら買ふと言った様な入電に接し突然狐にでも摘まれたの如き思ひで何うしたら良いものか薩張り譯が判らず五里霧中に彷徨している感があるらしい」と伝えている(「愛媛新報」大正八・九・ニ九付)。この混乱時に農商務省指定商人が買い付けた米は、四、七一〇石であったと県当局は大正七年県会で報告していた。ともかく、この告示によって地方長官はそれぞれの管轄下で米価高騰の際には、いつでも「収用令」を発動できる状況が作られたのである。
 若林知事はこの状況を前提として、九月下旬に米価調節に乗り出した。九月二一日、米価調査用務のため高橋農商務省書記官が来県した。翌二二日午後、若林知事は官邸に「海南新聞」「愛媛新報」「伊予日日新聞」及び「大阪朝日」「大阪毎日」の五紙記者を招き、高橋本省書記官、和田内務部長、大森警察部長などが列席して記者会見を行った。席上、若林は、「本県の米価は全国第一の高価にして現に相当の相場として一般に認めらるる石三十六、七円に比すれば遙かに上位にあり、故に此際県下に於ける米穀所有者が相当の相場を以て売応ぜざるに於ては農商務省は已むなく収用令を適用して之を収用するの決心」と言明した。
更に両部長談として、県内在米に不足はなく、優に端境期まで需要を満たしているにかかわらず全国第一の高価となっているのは不当である、現に最も高いのは松山地方の四八~九円(正米相場・石当たり)で、もし収用令を適用することになれば九月二三日以後、石三〇円となろう、従って現(一升)五二~三銭の松山地方白米小売相場は遠からず三八~九銭に低落するであろうと伝えていた([「愛媛新報」大正八・九・二三付)。そして二三日から四日間にわたって県当局、高橋書記官、「農業関係者ノ官吏並ニ農会其他斯業ニ精通シタル民間人」からなる米価公定相場決定会を開催し、関西各府県の米相場を参酌しつつ慎重審議を続ける一方、県当局は郡市長に通牒を発して極力米の調節配給の円滑化を図る努力を重ねた。しかし結局、「穀物収用令」は発動されなかった。これについて県当局は、「段々米価モ下落シテ穀物ノ配給モ円滑ニナッタ」ためと説明しているが、反面「本県ニ於キマシテノミ収用令ヲ適用スルコトハ不面目デアリ」と収用令を回避することに努めた結果でもあった。「愛媛新報」九月二九日付は、「白米日々下落す、一升四拾四銭に販売」との見出しで報道し、米価の下落は、「収用令」適用の情報が流れたことにより農家が持米を市場に投げ売りを始めたことと新米が出始めたことによると報じていた。しかし、この低落現象は一時的なもので、一〇月以降の定期米、正米の両相場とも八月以上の高値を示し、小売相場も一進一退ながら長期的には騰勢であった。
 若林知事以下、県当局の米価調節策の遅れと不徹底は、米騒動に際しての警察の不適切な処置とともに、大正七年通常県会において深見寅之助(政友会)らから厳しく批判された。深見は、米騒動について、暴動化したのは警察が適切な処置を欠いたためであるとして責任者の処罰とその公表を迫った。また、米価調節については、失策ととらえ、八月後半から九月下旬にかけて県内米を県外に移出したこと、県外移出促進のため、九月二三日以降に「穀物収用令」の適用をほのめかして米穀所持者に安値で売らせたこと、その結果、県内米穀所持者に損害を与えた上、米価が下落せず消費者に迷惑をかけたことを指摘した。これに対し知事は、騒動は遺憾としながらも警察には責任はないとし、処分問題は知事の権限であり容啄を許さぬと答えた。また、米価調節策については、県官が、県内米の県外移出は推論の余地なく誤解であり、不利益をこうむった者があるかもしれないが当局が不当な圧迫を加えた事実はなく、当局の処置に誤りはなかったと答弁した。

 馬渡・宮崎知事

 馬渡俊雄は、明治九年一二月一四日、東京府豊多摩郡淀橋町で思想家として著名な加藤弘之の三男として生まれ、同一八年七月馬渡家の養子となった。明治三四年九月東京帝国大学法科大学政治科に入学、在学中の同三八年一一月に文官高等試験に合格、愛知県属に任ぜられた。同三九年七月東京帝国大学を卒業、内務属に任ぜられ、翌四〇年滋賀県事務官となり、以後大阪府事務官・山ロ県警察部長・福岡県警察部長・神奈川県警察部長・和歌山県内務部長・新潟県内務部長を経て、大正八年(一九一九)四月一八日愛媛県知事に任命された。
 馬渡知事の在任期間は二年二か月であったが、その間三〇か年継続土木事業計画や県立中等学校の学級増加のための五か年継続事業などの施策を積極的に推進した。これは、当時の原敬政友会内閣の土木・教育振興方針にそった施策であり、憲政会などからは政友会が馬渡知事と図って党勢拡張に利用したものだと非難された。このほか、馬渡知事は多年地方紛擾の源泉であった伊予鉄道と松山電気軌道の合同を斡旋してこれに成功し、また町村整理を画策して、今治町と日吉村との合併による今治市制施行を実現、宇和島町と八幡村との合併による宇和島市制施行の基盤づくりなどに尽力した。大正一〇年五月二七日、欧米諸国の社会政策研究のための外遊を命ぜられ、本県知事を辞任した。一か年の外遊から帰国した馬渡俊雄は、大正一一年(一九二二)六月福島県知事に任ぜられたが、わずか四か月在任したのみで一〇月免官となった。
 後任には宮崎通之助が就任した。宮崎通之助は、明治一三年八月六日、静岡県安倍郡大里村で生まれた。明治三九年七月東京帝国大学法科大学独逸法律科を卒業、鉄道書記に任ぜられ、一一月文官高等試験に合格した。翌四〇年鉄道庁書記、京都府属となり、以後福島県事務官・島根県警察部長・宮城県警察部長・北海道庁警察部長・北海道庁拓殖部長・警視庁警務部長を経て、大正一〇年(一九二一)五月二七日愛媛県知事に任命された。
 宮崎知事は本県在任三年二か月、県会多数派を占める政友会の後援もあって平静な県政運営を推し進めた。その間、大正一二年四月一日から施行となった郡制廃止に伴う善後措置(本節二「郡制の展開」参照)、一五か年継続模範林造成事業、今治港湾はじめ諸港湾修築事業などの諸事業の推進や大正一一年一一月の皇太子殿下行啓の奉迎に当たっている。
 宮崎知事は、前任馬渡知事時代の積極政策を引き継いだものの、在任中たび重なる地方財政の抑制に追われることとなった。国の財政緊縮は高橋是清内閣に始まるが、大正一〇年六月成立した加藤友三郎内閣はワシントン会議での海軍軍縮条約の締結という好条件を背景に、本格的な行財政整理を展開した。こうした中央における緊縮方針は、当然地方財政に大きな影響を与え、これに拘束を加えることとなった。
 経済界では、大正一一年後半に全国的な銀行恐慌が発生し、経済不況がより一層深刻化していった。翌一二年九月一日、関東大震災が発生し京浜地区は未曽有の大打撃を被った。この震災の混乱の中で成立した山本権兵衛内閣は、一連の震災善後処理に伴い莫大な支出を必要とし、かつ震災による直接、間接の歳入減、広汎な租税の減免措置などにより厳しい財政事情に直面した。政府は、急遽大正一二年度予算の削減による実行予算を実施するとともに翌年度予算に対して厳しい緊縮方針を打ち出した。地方財政緊縮に関しては、従来次官名で発するのを通例とした内訓に代わって、一〇月二九日付後藤内相・井上蔵相の両大臣連名で発せられていた。
 こうした政府の緊縮方針を受けて、主に建設及び継続事業に関するものは繰り延べ更正を余儀なくされていくのである。このほか、大正後期は度々風水害に見舞われ、県はその復旧に追われているが、とりわけ大正一二年六、七、九月の三回にわたる豪雨出水はまれにみる災害となり、国庫補助二六万六、〇〇〇円を得て総額一三二万余円の災害復旧を行わざるを得なかった。災害復旧に国庫補助を得たのは明治二六年度以来のことであった。
 大正一三年(一九二四)一月、貴族院に依存した超然内閣として清浦奎吾内閣が成立すると、政友会・憲政会・革新倶楽部が連合して第二次護憲運動(第二節一 護憲・普選運動と県政界参照)が全国的に展開された。これに対し清浦内閣は衆議院を解散し、総選挙に信を問うこととした。結果は、政府の期待した政友本党は惨敗して護憲三派の勝利に帰したため、清浦内閣は総辞職に至った。
 こうした中央政界の激動は当然県政界にも及ぶこととなり、政界地図の塗り替え、選挙戦も激烈を極めた。宮崎知事はこの選挙で政友本党を支援したため、大正一三年六月二四日、加藤高明護憲三派連合内閣による地方官人事異動で休職となった。なお、宮崎知事の選挙運動については、休職後の大正一三年通常県会で政友会議員から「選挙干渉ニ関スル官吏懲戒意見」が出され、知事以下本県警察官による選挙干渉問題が公表、糾弾された。
 宮崎は昭和二年(一九二七)五月内務省土木局長に任ぜられ、同四年七月退官後、郷里の静岡市長に就任した。

 (第一次)府県道の路線認定

 大正八年(一九一九)四月一一日に制定公布された「道路法」は、翌九年四月一日施行と定められた。このため、各府県では法の示す基準に従って内務大臣の認可を受け府県道の認定を行うことが必要となった。愛媛県では、大正八年通常県会に馬渡知事が府県道路線認定の諮問案を提出しその意見を求めた。
 原案説明に立った馬渡知事は、現在施行中の事業状況について、事業構想は「明治四一~同六二年度愛媛県土木費継続年期及支出方法」を同四三年に修正、整理したものであり、内容は国道が三一号線と五一号線の二本と仮定県道二三線の延長一一〇里の改修、更に延長九〇里の特別補助線二二線に県費補助をして改修を促進しようとするもので、現在その約三分の二が終了していると説明した。そして、「道路法」による新たな府県道路線の認定については、この「現在ノ方針ニ出来ル限リ注意ヲ払ヒ永イ歴史ヲ尊重」して次のように決めたいと述べた。

  (1) 現在の仮定県道は二三本すべてを府県道に認定する。
  (2) 法により国道は東京市より各府県庁所在地に達する路線と規定された結果、松山市~八幡浜間の国道五一号線は国道から削除されたので、府県道に編入する。
  (3) このほか、枢要な鉄道停車場・港湾に達する路線及び改修の終了した特別補助の道路と国幣大社大山衹神社に達する路線は府県道に編入する。更に将来の方針として、現在特別補助線として改修しつつある路線や法第一一条により府県道として資格があると見得る路線には従来の特別補助線と同様に一〇分の六の補助を与えて改修し、それぞれ改修が終了した段階で早急に編入する。
  (4) 特別補助線のうち法の規定によると府県道としての資格のない路線や法第一二条の郡道の資格に該当する路線には、一〇分の五の県費補助を与えて改修を行う。

 第二読会審議において、清家吉次郎(政友会)と村上紋四郎(憲政会)の両者から答申の意見が出された。まず清家は、諮問原案を至当と認め賛同の意を表した後、原案中の仮定県道久万内子線の一部路線変更、すなわち小田町村から父二峰村を経て久万町に至る間には真弓峠の険があって難工事となるので、変更して特別補助線である砥部街道の田渡村を経て既改修県道久万内子線に接続(久万町より父二峰・田渡二村を経て内子町に至る幹線と田渡村字突合より小田町村に至る支線)することを求めた。更に、特別補助線のうち北宇和郡日吉線は第一期工事の完成を理由に、特別補助線以外のうち北宇和郡泉線は交通量の多いこと、土居駅蕪崎港線は新居浜以東三島までの間で国県道が海港に達する点で重要との理由で、それぞれ府県道編入を希望した。
 一方、村上は、仮定県道の府県道認定を異論なしとしたものの特別補助線二二線(うち府県道認定二線)はすべて府県道に編入すべきだとして諮問案に反対し、更に清家の答申意見のうち久万内子線の路線変更については、恩恵を受ける地域が狭小となり財政上の理由で上浮穴郡民にとって不利となる変更には賛成できないとした。両派による論戦の後、採決が行われ、政友派多数で清家案が可決され、これが確定議となった。
 県会の諮問答申、申請、内務大臣の認可を経て、県は大正九年四月一日新しい府県道三七線の認定公示を行った。表3―2は県会諮問案並びに認定府県道を示したものである。諮問案は全部で三三線であったが、このうち川之江新立線・久万内子線・野村三瓶線は不認定となり、一九線が無修正認定、一一線が修正認定となっている。修正をみると、今治西条線が今治壬生川線と壬生川西条線に二分割されたような事例が七線あって、これが認定路線数が増加した原因となっているほか、名称変更が松山宮浦線と三津浜三津浜港線の二線、長浜港を枢要港湾から除いた関係で路線の一部縮小となったのが二線となっていた。答申において編入希望のあった三路線についてはいずれも見送りとなっている。
 なお県は、国道二四号(旧三一号)線と新府県道路線は道路を構成する敷地の部分を以て道路の区域と定めることと大正九年(一九二〇)四月一日から供用開始することを併せて公示していた。本県最初の府県道路線の純延長は一二六里二四丁四七間七、これに国道二四号線延長二四里三四丁五三間三を加えると合計一五一里二三丁四一間であった(資近代3八五七)。

 三〇か年継続土木事業の開始

 大正九年通常県会に、更正予算案としての三〇か年継続土木事業と新規追加予算案の五か年継続教育事業の二大継続事業が提出された。大正一〇年度当初予算案に対して、「愛媛新報」は一一月二八日付夕刊で「一年両年を争はざる比較的不急の事業尠からず」「此際整理削除を要すべきもの多々あるに拘らず、依然其儘を予算案中に計上要求」と厳しく論説した。次いで、同紙一二月一七日付夕刊に「狂的計画」と題する論説を掲げ、「空前の尨大計画なると同時に狂的にも近き大事業であり、目下は経済界の不況時代にしてかかる積極策に出る時代ではない」と速やかに二大計画案を撤回せよと論難した。
 三〇か年継続土木事業は総額一、六〇〇万五、五四七円にのぼる空前の大土木事業計画で、そのうち一七四万円は明治四一年度から大正九年度までの施行分、残り一、四二六万余円が大正一〇年度から同三九年度に至る三〇か年継続で支出されるものであった。事業の内訳は表3―3に示すように、道路は国道一線・府県道四〇線、一二河川、海岸に及ぶものであった。そもそも当時までの継続土木事業(大正一七年までの一九か年継続土木事業)を大修正することになったのは、大正八年八月に出された「道路構造令」が発端であった。すなわち同令によって、国道は幅員一八尺以上二四尺まで、府県道は一五尺以上一八尺までと規定されたため、本県の府県道が従来幅員一三尺を標準としていたので、既改修分を含め継続土木事業自体を修正しなければならなくなったのである。新規計画ではまず、従来の路線の延長が国道・府県道を通じて一六八里、更に新建設路線が一六六里、合計三三四里の工事費と監督雑費で一、四〇〇万円余、次に県下一二河川の改修費二三四万円余、海岸改修費二七万円余が計上された。
 支出方法の更正は、従来の年割額一五万円を大正一〇年度から二八万円、同一五年度から三三万円、同二〇年度から五五万円、同三〇年度から五七万円、最終同三九年度を五八万五、五四七円としていた。財源については、従来の年割額に相当する一五万円を一般歳入から、増加額一三万円については当面起債によることとし、将来県財政が好転する状況になれば一般歳入に依存する方針とした。
 一二月一五日審議に先立ち馬渡知事は議案説明を行った。馬渡知事は、本県の土木計画の歴史的経過に触れたあと、今回継続の更正を要する理由として先述の道路構造令の規定をあげ、更に県一般の産業・教育その他の進展を図る根本手段として県下全体を通じた十分な道路網の整備が最も時機を得たるものと考え、今回新たに多数の路線を加えたと述べた。つづいて、従来の慣行について触れ、幅員一三尺に達するまでは敷地の地元提供によって改修する慣行は継続するが、一三尺以上については今後県費を投じて改修すること、また従来地元の改修を待って仮定県道に編入してきたが今後はこの継続事業の執行とともに改修・未改修を問わず府県道の認定を行うとの方針を明らかにした。歳入上期待される国庫補助については、それを受けられるよう絶えざる努力をするとしたが、国の方針が大幹線・大都会からの路線・軍事上の重要路線を中心とする方針であるため悲観的な見通しも示した。
 次に、河川改修については、数年来県費で実施してきた河川調査が終了したので今回事業に編入し、海岸も付け加えたので、県下の道路・河川・海岸に対する土木方針は確立したと述べ、更に残された港湾問題や里道への補助政策については、今回の継続土木事業が確立したあと、従来の土木補助規則を改正して将来解決していきたいとの考えを明らかにした。
 審議においては、麓常三郎(中立)、村上紋四郎(憲政)ら越智郡島嶼部選出議員が、越智郡・温泉郡の島嶼部に関する土木対策がこの計画から除外されている点をただした。つづいて、本案に反対の立場をとる村上紋四郎は、知事が三〇か年にわたるしかも一、六〇〇万円にのぼる大計画を会期余すところわずか三日と切迫した時期に提出したことは県民に対して極めて不親切であること、多額の経費負担を県民に求めるためには県会が慎重審議、討論に討論を重ねて世論にそって決議する責任があるにかかわらず、わずかな時間で決議するのは県民に申し訳がないと述べ、本案廃棄の動議を提出した。動議は武知勇記(伊予郡、憲政)の賛成を得て議題となったが、原案支持の清家俊三(西宇和郡、政友)から「一面ニ於キマシテハ三十一線以上ニ尚ホ数箇ノ線ヲ加ヘテ呉レト云フ答申案ヲ出シ、一面ニ於キマシテハ継続年期ノ支出ノ額ヲ削減スルコトガ本会ヲ通過セサル事ヲ予期シテ居リナガラ、無責任ナル而カモ時勢ニ反スル如キ動議ヲ提出スルニ至ッテハ、議員ノ責任何レニアルカ」との反ばくを受けた。両政派の激しい応酬の後、原案廃棄動議は賛成少数で否決され、直ちに二読会が開かれ原案可決、三読会を省略して確定議となった。

 (第二次)府県道の路線認定

 この三〇か年継続土木事業に関連して、吉田須崎線外三一線の新たな府県道認定の諮問案が併せて提出された。その内容は表3―4のようであり、同事業を進める上で重要な前提であった。第二読会では、憲政派から村上紋四郎を提出者とし、黒田此太郎外一四名の賛成からなる答申案が提出された。その内容は、諮問案中のうち二線、三瓶八幡浜線と河野今治線を北条今治線として認め、ほかに今治丹原線・川之石大洲線・俵津港宇和町線の三線を加えるだけの厳しいものであった。一方、政友派の清家俊三外一八名と麓常三郎(中立)や高畠亀太郎(国民党)が名を連ねたもう一つの答申案が出された。これでは、原案を至当と認めていたが、付帯条件として、(1)先に認定のあった宇和島宿毛線のうち、宇和島城辺間は不適当のため他に適当な路線を選択すること、(2)長浜郡中線は坂路のため不適当であること、(3)新たに、岩松港宿毛線・松丸中村線・宇和吉田港線・小田梼原線・大洲川之石線を加えること、(4)川口川之江線と新立新居浜線は合わせて新居浜川口線とすることなどを要求していた。両案採決の結果、村上案は否決、清家案が可決され、三読会を省略して確定議となった。
 愛媛県は、答申案を基に内務省に申請し、その認可を経て大正一〇年五月二八日県告示で久万小田町線外三二路線、延長約一八二里の認定を示達した。その内容をみると、諮問案中の採用が二〇線(土居新居浜線は土居垣生線と垣生新居浜線の二線となる)、同修正採用が六線、付加答申中では大洲川之石線(日土村経由)が採用、宇和俵津線・横林小田線が修正採用、その他第一次申請で不認可となった野村三瓶線・野村吉田線・小田町内子線・久万小田町線などの四線が採用となっている。
 なお、認可申請に対し内務省が留保したものは、川之江高知線・土居蕪崎線・西条高知線・池川久万線・岩松宿毛線・三島上分線・深浦宿毛線・梼原野村線の八線であった(資近代3八五七)。

 中等学校拡張の五か年継続事業

 大正九年通常県会でもう一つ「狂的計画」と評されたものが、中等学校拡張のための五か年継続事業である。拡張計画は、松山・宇和島・西条・今治・大洲の各県立中学校と私立北予中学校の学級数・生徒定員の拡張、更に新設予定の県立三島中学校を加えて学級数二九、生徒定員一、九〇〇人の増加を目標とし、それによって合格率を五三・六%から七〇%弱に緩和しようとするものであった。高等女学校については、松山・宇和島・今治の各県立高等女学校の学級数・生徒定員の増加と新設予定の県立松山城北高等女学校を加えて、学級数三四、生徒定員一、七〇〇人の増加を目標とし、それによって合格率を三八・八%から六八・四%に緩和しようと図っていた。原案では、大正一〇年度より同一四年度に至る五か年継続事業として総経費一六四万円余を計上していた。
 このように膨大な予算をもって計画を立案した背景には、中等学校志願者の激増に伴う入学難が出現したことにあった。提案理由の説明に当たった馬渡知事は、教育の向上心が勃興しつつある時代に対し今日の施設は十分でない、中等教育は現代においては秀才教育や予備教育ではなく、普通教育であり、普遍的な機関とすることを主眼とし、収容力の増加を図るとの趣旨を強調した。また新設校を計画したことについては、松山地域が最も入学競争率が高いところから男女二校の新設を必要とするが、経費上困難なため高等女学校一校の新設とし、中学校については私立北予中学校の学級増・内容の改善により県立代用の意味で欠陥を補うこととしたこと、宇摩郡に中学校一校新設としたのは同地区が高等小学を受ける者県下第一にあり、中等教育機関があるべき所にそれがないということなどを説いていた。
 審議では、新設校に対する地元寄付金に関する質問について、理事者から新設高等女学校の寄付は毎年三万円あて五か年間、新設中学校への寄付金は毎年度の事業費の半額あてを受けると答弁、続いて岩田鷹太郎(温泉郡、憲政会)から物価下落を見越して建築費の一割削減を求める修正動議が提出され、議題となった。格別の討論もなく採決に入り、賛成少数で動議は否決された後、原案を可決、二・三読会を省略して確定議となった。先の三〇か年継続土木事業については激烈な論戦が展開したにかかわらず、注目を集めていたこの五か年継続教育事業がさしたる論議もなく通過したことに対して、「愛媛新報」一二月二一日付は、「土木教育狂的計画通過の裏面―党議纒まらず随分と醜態狂態を極めたる横暴な政友派」と題する論評を掲げた。それによると、政友会内部では、新設拡張に対し郡立学校県移管の条件を付けるべきとする新居・周桑・喜多郡選出議員の要求があり、一方設置組の松山・伊予・温泉・宇摩郡などの選出議員はどうしても通過を図る上には党議でまとまっている憲政会との提携も辞さないと騒ぎ出し、結局幹部が知事と会見して郡立校の県立引き直しは県において適当な時機に実施するとの約束をとり、その上当日の議場には幹部が来て不平議員の監視を行ったとの事情を伝えていた。

 皇太子殿下行啓

 大正一一年(一九ニニ)の特別大演習は、一一月一五日から同一九日まで、香川県善通寺師団司令部を本部として、香川・愛媛両県を舞台に実施されることとなった。摂政宮殿下はこの大演習に統裁として臨まれ、また演習終了後、一一月二二日から二五日まで、皇太子殿下の資格をもって民情視察のため愛媛県に行啓された。県下での行啓日程は、二二日に今治中学校台臨・吹揚公園遊覧、二三日に松山御逗留、二四日は県庁・松山高等学校・松山中学校・女子師範学校・松山連隊台臨、道後公園・松山城遊覧、二五日は宇和島中学校・武徳殿・伊達家台臨、城山遊覧であった。
 県では、これに備えて庁内に総務部・警察部の両部を臨時に設置し、その下に奉送迎・御旅館・上覧・庶務・兵事・工営・調度・御慰物・警務・保安・高等警察・衛生の一二係を分属させる特別編成を行い、奉送迎の準備、実施に当たった。この大演習と行啓のため、県では、八月二六日急施事件として県参事会において、必要な道路補修費及び県庁修繕費など五万余円を可決したが、更に一〇月四日臨時県会を開催し、経常部八万七千余円、臨時部一万九千余円の追加予算の審議を求めた。予算のうち大きな比重を占めたのは、警察費・教育費・奉迎諸費であった。警察費五万九千余円のうち、五万二千余円が人件費で、大阪府から三五〇名の応援警察官を聘用する経費であった。宮崎知事は、当初本県警察官のみで警備を担当し、不足分は在郷軍人・青年団・保安組合などを動員する予定であったが、多大な経費を要するので応援警察官を求める措置をとったと説明した。教育費一万八千余円は、台臨予定五校の修繕費などであった。審議では、計上されている予算の性格上、実質的な審議はなく、満場起立の賛成で読会を省略、確定議となった。
 行啓に当たって県では、九月三〇日「皇太子殿下奉迎送場所指定に関する規程」(資近代3七六三~七六四)を定め、場所を指定する団体名・奉送迎地・希望届その他について示達し、また県民一般に対しては、一〇月三日「皇太子殿下行啓に関する公衆心得」を公示し、拝観者、御泊所・御巡覧所及び御道筋付近居住者、写真撮影者に対して詳細な注意・要望を促した。

 佐竹知事

 大正一三年(一九ニ四)六月二四日、前和歌山県知事佐竹義文が本県知事に任命された。佐竹は、明治九年一一月四日、東京市四谷区舟町に生まれた。明治三六年七月東京帝国大学法科大学英吉利法律科卒業、同一一月高等文官試験に合格し、逓信属に任ぜられた。以後、神奈川県属、福井県事務官、岡山県第二部長、山梨県警察部長、奈良県内務部長、滋賀県内務部長、福岡県内務部長を歴任し、大正六年一月鳥取県知事に任ぜられた。同八年四月香川県知事に転じ、同一一年六月、当時本県知事であった馬渡俊雄らと共に欧米視察のため出張した。帰国後の大正一二年六月和歌山県知事に就任し、同一三年六月本県知事に転じた。
 本県での在任はわずか一年四か月で、大正一四年九月熊本県知事に転任、同県でも一か年在職したのみで同一五年九月官職を辞し、以後実業界に転じた。佐竹の官界での履歴は典型的な地方官のそれであったといえる。
 佐竹が、在任中対応したのは、大正一三年通常県会だけであった。しかも加藤高明内閣の財政整理方針下で、大正一三年八月二〇日付内務・大蔵両大臣の訓示により、大正一四年度予算編成は極度の整理緊縮を命ぜられ、新規の施設・起債は計画せず、既定計画については中止減額または繰り延べの指示など厳しく抑制を受けた。
 その上、当時の県会は憲政会と政友本党両愛媛支部が連携して県政倶楽部を結成、わずかの差で長年多数派を占めていた政友会を抑え、その後政友本党員の一部が政友会に復党して形勢が逆転する不安定要素をもっていた。このため、この通常県会では、議長・副議長選挙や前任宮崎知事の選挙干渉問題で紛糾し、審議停滞のため佐竹知事が和解調停工作に動かざるを得ない状況であった。
 こうしたなかで、佐竹が新規施策として打ち出した県立工業試験場今治移転案は、松山市当局と財界・政界の一丸となった反対で廃棄となり、また長年の懸案解決として臨んだ県費支弁河川慣行区域に関する諮問案もまた、内容に審査精査の余地ありとして地域利害に阻まれた。
 本県を去るに当たって治績を回顧した佐竹知事は、銅山川水利権問題にほぼ解決の目途がついたことをあげたが、銀行合併問題と県費支弁河川整理を後任に引き継がざるを得ないと述べていた。在任期間の短いこともあるが、一面では本県の諸般の事情をよく把握しない段階でことを推進したことにこれらの問題が結実しなかった原因があるといえよう。「海南新聞」九月一六日付は「佐竹知事転任 在任一年余の回顧」の中で、「佐竹君が、政友会系の色彩、極めて鮮明なるに拘はらず、憲政会内閣の寵児となり、九州南方の一角に栄転の命に接したのは、固より君の温厚順良なる資性に由るべしと雖も、又一面に於て、君が憲政会政府の為めに粉骨砕身の精根を尽したる功績に由るの結果」と論評した。

 香坂知事

 大正一四年(一九二五)九月一六日、前福島県知事香坂昌康が本県知事に任命された。香坂は、明治一四年二月二日に山形県米沢市門東町に生まれた。同四一年七月東京帝国大学法科大学仏法科卒業、千葉県属に任じ、同年一一月文官高等試験に合格した。同四二年八月内務属に任ぜられ、翌四三年本県事務官に転じ、内務部学務課長兼土木課長、大正二年には理事官に昇任して視学官となった。本県在任五年余で大正三年四月岡山県警察部長に転じ、以後熊本県警察部長、秋田県内務部長、埼玉県内務部長を歴任、大正一一年二月に欧米各国へ出張を命ぜられ、帰国後の同一二年一〇月に福島県知事に就任、本県転任までその職にあった。
 香坂は、本県の事情を熟知している知事であったため、その県政に期待が寄せられたが、彼の官僚的性格がわざわいしてか、本県では不人気であった。彼は、先の本県在任中、知事であり憲政会―民政党の黒幕的存在でかつ内務省に影響力の強い伊澤多喜男と密接なつながりを持ち、憲政会系知事と見られていたので、昭和二年田中義一政友会内閣の断行した地方官大更迭で休職を命ぜられた。しかし、昭和四年七月浜口雄幸民政党内閣が成立すると岡山県知事に復活、次いで同六年一月愛知県知事になったが、同年一二月犬養毅政友会内閣が成立すると再び休職となった。翌七年五月斎藤實挙国一致内閣により東京府知事に抜擢され、同一〇年一月までこの重責にあり、地方官としては最高峰まで昇りつめた人物であった。
 原敬政友会内閣成立以後の大正時代後半期には、政党が内閣を構成し、与党化することが慣例化した。この時期の知事は、県政を推進し自己の留任を図るためには時の内閣を形成する政党と結び、内閣が代われば他の政党に近づくといった右顧左眄する傾向が強くなった。また一方では、内閣更迭を予期して不偏不党を標榜し自己の地位を維持しようとする知事も現れた。
 「愛媛新報」大正一三年六月二九日付は、宮崎知事の更迭に際し、論説「新知事内務部長に望む」を掲載し、「知事・内務部長は党派色を除け、民衆の総てに依って好感を博し、同情を博し、後援を与えらるるをもって念として事に当たるべし」と力説した。しかし当の「愛媛新報」(憲政会系機関紙)は、憲政会系と目される香坂知事が自派に有利に働かず、不偏不党に終始すると、時の政友会内閣におもねったとして香坂の姿勢を激しく非難している。
 党派色を意識的に抑えようとした香坂知事も、田中政友会内閣の地方長官大更迭に際し憲政会―民政党系の知事として休職を免れることはできなかった。香坂はこれ以後民政党系の立場を鮮明にし、浜口内閣成立とともに現職に復帰した。こうして政友会・民政党の政党内閣交替ごとに知事の政党人事が繰り返されるようになり、知事が不偏不党である立場は許されなくなっていった。
 香坂に在任中、郡役所廃止及び大正一五年の地方制度改正に伴う善後措置(本節二「郡制の展開」参照)、自作農創設維持政策への対応を進める一方、両三年にわたる中央政府の緊縮指令に従う基本方針をとりながらも「退嬰萎縮ニ陥ルガ如キハ断ジテ之ヲ避ケナケレバナラヌ」として、緊要であるものについては事情の許す限り積極的に取り上げるとの意図をもって県政を執行した。大正一四年通常県会には、県立繭検査所建築、菊間・三島・長浜港湾修築補助、放火により焼失した今治中学校再建計画を提案し、同一五年通常県会では実業補習学校教員養成所の設置、松山測候所の新築など、同年臨時県会には県庁舎及び警察庁舎改築計画を提案した。
 このほか香坂は、県内で生じた紛争の調停者の役割を演じている。大正一四年一一月一日に発生した別子鉱山労働争議(第四節三「別子銅山争議」参照)で一五年二月一六日、双方に調停条件を提示し、労資双方が同意した結果、全国的に注目を集めた別子鉱山労働争議は一〇八日を経て解決されることとなった。
 また、大正一五年の官立松山高等学校生徒の同盟休校事件においても調停者となっている。事の発端は、同年四月第二代校長に着任した橋本捨次郎の生徒取り締まり強化にあった。一一月一三日、同校生徒は生徒大会を開催して校長に対する辞職勧告を決議、大学在学中の先輩に打電して来援を求めた。学校側は断固として処分をする方針をとり、決議文の受領を拒否した。このため、生徒側は一六日から同盟休校に入ることとなった。先輩団・父兄会の調停工作も実を結ばず、成り行きを憂慮した井上要ら地元有志は香坂知事に事態の収拾を求めた。
 香坂は、北予中学校長秋山好古と共に調停に当たることとなり、先輩団・生徒側更には父兄会から無条件一任を取り付け、その要望を橋本校長に伝達して、紛糾した同盟休校問題を解決に導いた。一二月一日、復校式が行われ、席上香坂知事から調停の労をとった経過と将来和平を要望する旨が述べられた。生徒代表の陳謝表明のあと、校長橋本捨次郎は訓旨にあわせて生徒に対する処罰は戒告である旨を述べ、一件は落着した。橋本校長は昭和二年八月二七日に依願免官となり、後任には創立以来の古参教授であった金子幹太が任命された。金子は就任に当たり、初代由比質校長の創立の精神を強調し、これを踏襲する方針を述べている。

 自作農創設維持事業のはじまり

 自作農の創設維持事業は、大正一五年から予算措置(政府資金の貸付と利子補給)として発足し、戦後の農地改革まで継続された。その間、国の事業としての財源措置をめぐって何回か立法が企図され、昭和一三年の「農地調整法」によって法制化された。この背景はいうまでもなく、地主制の発展と自・小作農の窮乏、小作争議の激化であり、農業・農村問題にとどまらず重大な政治・社会問題になってきたことにあった。
 大正一三年二月、清浦内閣の農相前田利定は、小作制度調査会に対し、明治四一年以後年平均一万戸も減少している自作農の現状に対して減少に歯止めをかけて自作農を維持する方策の立案、小作農に土地取得の機会を与えて激化する小作問題の解決に当たらせる方策などを諮問した。調査会はこれを自作農調査小委員会に付託、同年四月に「自作農地創定施設要項」を答申した。
その骨子は、(1)標準耕地面積当たり一町歩以下または時価四〇〇円以下の農地を持つ自作農の創設、(2)小作農の土地購入資金は政府資金の貸し付けと利子補給の二本立てとし、貸し付け限度は一戸当たり四、〇〇〇円以内、利率三分五厘以下、(3)自作農維持に関しては自作田畑地価三五〇円を限度として地租免除が望ましい、ということであった。
 答申を受けた清浦内閣は翌五月退陣し、実施は次の加藤護憲三派内閣に引き継がれた。加藤内閣は、財源を特別会計の簡易生命保険積立金の枠の拡大に求め、大正一五年度予算案で協賛を得て、大正一五年五月二一日に「自作農創設維持補助規則」を制定した。
 同規則の内容は、簡易保険積立金を道府県を通じて、現在耕作中の小作地購入希望の小作農に、四、〇〇〇円を限度として年利三・五%で貸し付け、一年据え置き二四か年以内に分割返済させるものであった。資金交付を受ける道府県は起債の方法をとり、起債における簡易保険積立金の利息は四・八%で、貸付利率との差一・三%については道府県に対する国庫補助(利子補給)の形となっていた。
 この意図について、第一には「小作なり自、小作で経営者的要素を強めつつある少数の台頭者を土地所有者の側に引きつけ、小作問題の解決をはかろうとする」(農業発達史調査会編『日本農業発達史』6)にあり、第二に小作農に低利資金を利用させることによって経営困難に陥っている小地主の「土地売逃げの道をひらく」(中村政則著『大恐慌と農村問題』)ことにあったと評されている。

 自作農創設維持資金貸付規程

 愛媛県では、四月に県下全市町村に貸し付け希望額の照会をしたところ、六月初め段階で総額五〇万円に達した(「海南新聞」大正一五・六・一一付)。県下全農家の六四・三%を占める小作自小作農にとっては見逃すことのできない機会として、希望が強かったことを示していた。県当局はこれを受けて、大正一五年六月の臨時県会に大正一五年度更正予算として五〇万円の起債案を提出し、審議を求めた。審議では、宮内長(伊予郡、農友会)から、政府の簡易保険からの借り入れ枠で本県に五〇万円の借り入れが可能か、本県では大阪・兵庫・三重のように県費補助を取る考えはないか、県統計によると、一〇か年間で自作農が三、一四〇名、自小作農が二、〇三〇名減少しているのに今回の方針では一人平均四、〇〇〇円貸し付けでは一か年にわずか一二五人の小作人に土地購入資金の貸与しかできない、「此状態デ以テ自作農ノ維持創設卜言フ農村ノ此大問題ニ対応スルト言フコトハ、如何ニモ私ハ計画其ノモノノ寂寥ノ感ヲ叫ブモノデアル」との質疑と計画に対する失望感が述べられた。
 これに対し松原勧業課長が、五〇万円借り入れの基礎について、現在本県の自作地は全耕地の四三%であってこれを五〇%に引き上げるのが適当と考えていること、そのためには三、四〇〇町歩の小作地の自作地化か必要であるが、一挙に実現することは資金的に不可能であるので当面四五%目標で一〇か年で一、〇〇〇町歩の自作地化を計画し、一町歩の地価を五〇〇円として五〇万円を算出したと説明した。また政府の資金枠が八五〇万円であるとしたものの、本県の五〇万円借り入れが可能か否かについては判断を避けていた。
 この質疑応答によっても、この自作農創設維持案が小作問題の全面的解決を意図したものではないことは明確で、農村の実情、農民の期待との懸隔は甚だ大きいといえよう。
 県は、大正一五年(一九二六)九月一日「自作農創設維持資金貸付規程」(資近代3八四七~八五一)を制定した。これによると、貸し付け対象者は市町村・産業組合及びこれに準ずるものとされ、自作田畑となすべき土地の購入、または知事が適当と認める自作田畑の維持(自作田畑として購入したために生じたその土地の抵当債務額の借り替え)に対し転貸することとされていた。
 一一月になって決定した本県への貸し付け額はわずかに一〇万円であった。県会開催時には県官の説明によれば、希望額は七〇万円であったが、実際に貸し付け制度が発足してからは更に増加して九〇万円に達していた。このためわずか一〇万円を希望市町村すべてに割り当てることができず、同資金貸付精査委員会(坂間内務部長・松原勧業課長ら県理事者と西村県会副議長、村上半太郎信用組合連合会会長、鶴本県町村会長ら民間代表で構成)は、小作争議の多い所、その他の事情を配慮して次の一三か町村に割り当てた。

  一万円 宇摩郡川之江町・同関川村北野産業組合・同野田村・新居郡西条町、同氷見町・周桑郡多賀村・同石根村
  五千円 新居郡神戸村・周桑郡壬生川町・温泉郡川上村・同久枝村・北宇和郡吉野生村・東宇和郡田之筋村

 この結果、二〇一人の小作農に資金が転貸され、三〇町歩足らずの田畑と一一四坪の宅地が一応自作地となった。以後、昭和一一年度までこの制度が維持された(詳細は『愛媛県史概説 上巻』第一〇章四「自作農創設維持」参照)。












図表 「県庁の事務分掌」

図表 「県庁の事務分掌」


表3-1 継続治水事業明細書

表3-1 継続治水事業明細書


表3-2 府県道の路線認定調書

表3-2 府県道の路線認定調書


表3-3 継続土木事業明細書

表3-3 継続土木事業明細書


表3-4 府県道の認定諮問路線

表3-4 府県道の認定諮問路線