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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

六 松山俘虜収容所

 ロシア人墓地

 松山市の御幸寺山麓、通称「山越」と呼ばれる山裾の墓地の一画に、「ロシア人墓地」がある。柱を断ち切った形をした一メートルほどの高さの石の墓碑が九八基、六列に並んでいて、その墓碑の正面には、「露国兵卒ミハイルロボフ之墓」、右側面には、「明治三十八年六月三十日死亡」というように、日本文字で銘が刻みこまれている。墓碑が北面して並んでいるのは、遠い異国の地に散った兵士たちが、遙かに祖国を望んでいるの意であるという。墓地の中に、一際大きな碑「ボイスマン大佐之墓」があるが、建立当時はロシア陸海軍合同記名碑であったという。ここに葬られた兵士たちは、日露戦争で捕虜となり、「松山俘虜収容所」に収容された人々であった。なお、この墓列のなかには、第一次大戦で捕虜となったドイツ兵捕虜一名、第二次大戦の日本空襲中に捕虜となったアメリカ兵捕虜一名の墓石が含まれている。
 ところで、松山には、日露戦争の一〇年前に清国俘虜が、一〇年後にはドイツ捕虜が収容された。このように松山が俘虜収容の適地として再三認められたのは、なぜであろうか。島であること、気候が温暖であること、大陸に近く輸送に便利なこと、収容施設の確保しやすい都市であること、そして歩兵第二二連隊の所在地であることなどが挙げられる。戦争が生んだ一時的な現象ではあったが、国際都市松山の姿があった。

 清国俘虜の収容

 日清戦争は、近代日本が「眠れる獅子」といわれた大国、清国と戦った最初の本格的戦争であり、明治二七年八月の宣戦布告に始まり、翌二八年四月に日清講和条約の調印をもって終結した。この間、九〇〇余名の清国俘虜が、国内各地の「俘虜廠舎(ふりょしょうしゃ)」に収容された。これら清国俘虜の処遇について、日本政府は、欧州列国の生檎(せいきん)者(俘虜)に関する決議「ブラッセル宣言」(一八七四年)の陸戦法規にある俘虜取扱項目に準じたといわれている。国内法規としては、「清国俘虜兵取扱心得」によっていた。なお、日本は明治一九年に、国際赤十字条約に加入していた。俘虜の収容所(廠舎)は、松山のほか、東京浅草の大谷派本願寺別院、名古屋の建中寺、大阪の難波別院を代表として、高崎・佐倉などに設けられた。
 松山では、俘虜全体の一割にあたる九七名(うち一名は死亡)が、長建寺(当時の温泉郡、現松山市)と大林寺(松山市)の二か所に収容されて、一一か月に及ぶ収容所生活を送った。最初に収容されたのは、九月中旬、操江号船主(船長)の王永発とその乗組員であった。操江号は、清国護送船隊の輸送船であったが、宣戦布告に先立ち突発した明治二七年七月二五日の豊島沖海戦で降伏したものであった。乗員八三名は俘虜第一号というべきものであった。その後、平壌・九連城の戦いの俘虜である総兵(陸軍少将)譚清遠以下一一名の陸軍将校と成歓の役の俘虜三名が加わった。
 松山俘虜廠舎の管理は、すべて広島第五師団管下の松山第二二連隊が直轄し、収容所長(管理官)には野口陸軍大尉が任命されていた。長建寺の場合、山門には哨舎が設けられ、番兵(衛兵)が出入りを監視し、境内は竹矢来で仕切られるなど厳重な警備態勢がしかれていた。
 操江号乗組将校(運漕船組織のため、海軍軍人の官名は帯びていない)一〇名は、寺の茶堂に起居し、少年八名(一二~一六歳)が給仕に当たり、潭以下の陸軍将校が収容されるとその半数が彼らの給仕を命じられた。給与としては、食費が日本兵と同じの一日米六合、賄料五銭七厘で、肉・野菜・魚は現品支給され、自炊生活をしていた。冬には、炭料を一日一〇銭から一一銭五厘支給されていた。また、寝具として一名あたり、わら布団一枚、毛布四枚、敷布二枚が支給されていたので、各自畳の上にわら布団を並べて占有地を作り、布団の後部に敷布と毛布などを集め、一切の所有品をその下に備えつけていた。ふところの豊かな海軍将校は、この寝具に満足せず、各自綿を買い求めて毛布と毛布との間にはさんで見事な上布団を作った。特に王永発船長は、鉄製の西洋寝台を新調、日本蚊帳(かや)をもって帷(とばり)としていた。
 このように海軍将校は多額の共有金を持っており、その額は洋銀一、三〇〇弗、馬蹄銀二〇〇両、砕銀一八塊、小包洋銀一一九弗、小銀貨一五弗の五種で邦貨換算で一、七〇〇~一、八〇〇円に相当していた。
 俘虜の外出は厳禁のため、一般市民との間は隔絶されていたが、夏目漱石の前任英語教師カメロン=ジョンソンが松山中学の生徒を連れて俘虜の慰問見学を行っている。
 講和締結とともに、捕虜たちは還付されることとなり、明治二八年八月一四日、還付船豊橋丸は、東京・佐倉・高橋・大阪廠舎の捕虜を乗せ、最後の三津浜へ入港、松山廠舎収容の俘虜を加え総員九七六名を乗せて、同日出港した。

 ロシア俘虜の収容

 清国俘虜が帰国して一〇年後、明治三七年日露戦争が始まると、今度はロシア俘虜が多数、国内各地に収容されることとなった。当時日本は、ロシアを含む約三〇か国と明治三二年ハーグ平和会議で国際紛争平和的処理条約・戦争法規に関する諸条約に調印して、俘虜を人道的に取り扱うことを公約した。そのハーグ条約の適用第一号が日本のロシア俘虜収容であったため、列国の注目するところになるとともに、日本もまた国家的威信にかかわるものとして意識し、その取り扱いに配慮した。開戦後、政府はハーグ条約付属規則及び国際慣例に準拠して、陸軍・海軍における「俘虜取扱規則」を制定し、さらに内地の俘虜収容所の取り締まりのため「俘虜取扱細則」を制定、その後必要に応じて「俘虜収容所條例」・「俘虜労役規則」・「俘虜処罰法並ニ俘虜自由散歩及民家居住規則」などを定めていった。また、ハーグ条約付属規則第一四条において、「各交戦国ハ俘虜ニ関スル一切ノ問合ニ答フルノ任務ヲ有スル俘虜情報局ヲ戦闘開始ノ時ヨリ設置スヘキ」規定を厳格に遵守し、俘虜情報局を設置した。
 日露戦争中、日本軍が捕獲した俘虜などは、総数八万五、五四四人で、このうち俘虜として正当な取り扱いをした者が七万九、三六七人、内地で収容した者は七万二、四〇八人に達した。
 俘虜収容所の設置は、松山を最初に、丸亀・姫路・福知山・名古屋・静岡と収容し、戦争の進行で俘虜が激増するにしたがい、九州及び東北地方に順次開設していった。その場合、師団所在地もしくは衛戌(えいじゅ)地を選んでいた。その結果、表2―110のように、二九か所を数え、収容人員は浜寺の二万二、三七六人を筆頭に、習志野一万四、九五〇人、熊本六、〇〇二人と続いていた。松山収容所は、二、一六三人と中位に属するが、将校収容数が三一五人と最も多いのが特徴となっている。

 松山俘虜収容所

 最初の俘虜収容所となった松山俘虜収容所は、明治三七年二月二七日第一一師団参謀長の令達により設置、同年三月一八日開設された。収容所の委員長には、陸軍騎兵大佐河野春庵が任命された(俘虜収容所條例の発布により、明治三八年二月以降は収容所長と改称)。
 収容所は、最初大林寺・松山衛戌病院・松山市公会堂・松山勧善社であったが、三七年六月さらに雲祥寺(松山市萱町)・妙清寺(松山市出淵町)・法龍寺(松山市末広町)を借り入れ、ついで城北練兵場に松山俘虜収容所付属病室(通称「バラック」)を建設して主として病傷者を収容した。当時の収容者数は七〇〇人程度であった。ところが、金州・南山の占領から熊岳城の陥落により一、五〇〇人に及ぶにいたり、七月正宗寺(松山市末広町)、八月に一番町収容所(元松山税務署大林区署跡)を開き、九月「バラック」を増築した。さらに、一〇月妙円寺、一一月出淵町収容所を開き、一二月には、三〇〇人を名古屋に、一二〇人を静岡に転送した。
 明治三八年一月旅順開城により、松山市近郊の御幸(みゆき)村山越(現松山市内)の長建寺・弘願寺・不退寺・法華寺・来迎寺・浄福寺・龍穏寺・天徳寺を収容所とし、松山市伝染病室さえもこれに充用することになり、収容人員は三、三〇〇人を越え、同年四月には四、〇〇〇人を越えて最多数期となった。五月以降は、多数の俘虜を善通寺・浜寺・静岡・福岡・熊本などに移送したため漸減し、七月には二、五〇〇人以下に減少し、以後三九年二月の送還終了まで漸次減少していった。

 最初のロシア人収容

 松山に収容された最初は、俘虜ではなく「戦傷兵」であった。明治三七年二月九日、日露宣戦布告の前日、朝鮮の仁川沖で日本常備艦隊とロシア巡洋艦二隻が開戦の火ぶたを切り、露艦が撃沈された。この時、この「ワリャーク」「コーレツ」二艦の将卒が英・仏の軍艦によって救助され、健康な者は直ちに帰国、負傷兵二四名は間もなく仁川日本赤十字社臨時病院に渡された。つまり、第三国の手によって救助され、日本赤十字社の保護下に移されたことが俘虜ではなく「戦傷兵」として取り扱われる理由となった。
 三月一〇日夜、死亡した二名を除く戦傷兵二二名を乗せた日本赤十字社船「博愛丸」は、高浜港に入港した。ところでこれに先立つ三月五日、その取り扱いについて内相から訓電を受けていた、菅井知事は告諭を発し、「彼等已ニ負傷ノ身ニシテ同情ノ点ヨリ云ヘハ寧ロ哀情スヘキモノタリ、然ルニ言語風俗ヲ異ニスルノ故ヲ以テ彼等出入通過ノ際濫リニ群集雑沓シ一時ノ敵愾心(てきがいしん)ニ駆ラレ侮辱ニ渉ルカ如キ行為之アルニ至リテハ畏クモ 一視同仁ノ聖旨ニ悖(もと)ルノミナラス、吾邦人ノ面目ヲ汚スニ至ランコトヲ恐ル」と諭し、戦傷兵の出入通過の際は勿論、入院中において「不都合ノ行為」がないようにと県民に対し注意を促した(資近代3 三五二)。そして、翌一一日には、松山市長浅野長道をはじめ関係官、軍人・名士が艀(はしけ)で博愛丸を訪れて慰問をするとともに、戦傷兵の上陸、貸切り列車での市内収容に随行する丁重な応対振りであった。彼らは、日本赤十字社松山支部において治療を受け、負傷の癒えた者から随時、県を通じて神戸駐在フランス領事に引き渡され、本国に帰還していった。
 俘虜として最初に内地収容されたのは、二月六日朝鮮釜山沖で拿捕(だほ)された露国義勇艦隊会社所有商船エカテリースラフ号乗組員三名と三月一〇日旅順口外で撃沈された駆逐艦ステレグシチー号水兵四名であった。このうち、後者の重傷者を除く三名が、俘虜第一号として三月一九日、三津浜港に酒田丸で護送され、松山の大林寺収容所に入った。

 警備と俘虜の取り締まり

 俘虜収容所は、当該地衛戌司令官(松山の場合、陸軍少将岡部政蔵)の管理に属し、所長のほか所員として佐尉官及び下士判任文官のほか、必要に応じて軍医正、軍医及び主計官を配属していた。明治三八年一〇月末でみると、松山俘虜収容所では、職員が佐官一・尉官一四・准士官二・下士判任文官八の二五名、配属者が主計官一・医官七・薬剤官一・看護長二九・看護人一三四・赤十字社救護班一五・通訳九の一九六名で、合計二二一名となっている。この数字は、浜寺収容所の二三三名に次ぎ、全国計一、二一一名の六分の一を越える数に当たる。これは、浜寺・習志野と並んで松山が傷病兵収容に当たっていたことによる。衛戌司令官は、俘虜の逃亡防止や秩序維持のため衛兵を配置して収容所警備を行うとともに、収容所に関する諸規定を制定したほか、俘虜に対しては、日常遵守すべき「俘虜心得」を制定し、これをロシア語訳して公示していた。このように、収容所の警備は軍の責任に属すべきものであったが、一方、外部に関するものは当該警察の取り締まりに属するものであった。
 明治三七年五月二三日、先に本省よりの訓電通牒を受けた菅井知事は、松山・三津両警察署長に対し「俘虜取締心得」を内訓した。それによれば、「俘虜ノ来県及送還等ノ場合ハ一般人民ヲシテ彼等ヲ侮辱シ又ハ危害ヲ加ヘシメサル様相当警察官吏ヲ派シ厳重取締ヲナスヘシ」、「俘虜収容所大林寺公会堂法龍寺ニハ巡査ヲ派シ外部ニ於ケル警戒取締ヲナスヘシ」、「収容所ノ外部ヨリ一般人民ヲシテ言語ヲ交ヘ又ハ物品ヲ交換授受シ或ハ罵言雑言覗見等ヲナサシムヘカラス」、「俘虜収容所外ニ出ルトキハ第一条ニ準シ相当巡査ヲ附シ厳重取締ヲナスヘシ」とあって、特に俘虜と一般住民との接触について厳重な警戒を命じていた。
 ところで、ロシア俘虜に対する当時の県民の関心のほどについて、取り締まりに当たった県警察部の集計した非常取締及び保護の行為のうち、「人民ノ俘虜ニ対スル行為」の一端を紹介しておく。まず、「収容所覗見者制止ノ件」として、明治三七年に一万六、二九一人、明治三八年に七万二、六二七人、明治三九年に一、〇九八人で、計九万〇、〇一六人に及び、「俘虜ヲ囲ミ又ハ追尾スルヲ制止ノ件」では、明治三七年には二万四、三一三人、明治三八年に一六万八、六九七人、明治三九年に二、二〇九人、合わせて一九万余の多数に上っていた。そのほか、「濫リニ俘虜ト談話セントスルヲ制止説諭ノ件」が六、四四六人、「俘虜ニ対シ侮慢ニ渉ル言行アル者ヲ説諭ノ件」が一、〇五七人など、また、「俘虜ニ対シ金品ヲ乞ヒモシクハ貰ヒ受ケントスル者ヲ制止ノ件」が一、〇〇〇人、「俘虜ノ投スル金銭ヲ拾得セントスルヲ制止ノ件」で四七四人などの記録があり、県民のロシア俘虜に対する好奇心の強かったことが分かるとともに、その取り締まりも比較的ゆるやかであったと察される。

 俘虜の外出

 収容所では、俘虜の憂愁を慰め、その健康維持のため、収容所外一定の地域を限って、准士官以下の俘虜については少なくとも週に二、三回市内及び野外に散歩を許し、将校については一層しばしばその散歩を許していた。もっともこれには、取り締まり、県民との紛擾予防・俘虜の日常用務のためとして、収容所職員及び通訳が同行した。特に、道後温泉入浴は当初から許され、人気があった。浴場側でも、特に時間を定めて邦人との混浴を避け、便宜を図ったようである。将校は上等の霊の湯を買い切り(一時間四人までが二円)、一〇分そこそこで入浴を済ませると、休憩所でビールを飲んでいた。ゆで玉子が三個ついて一円から一円五〇銭であった。兵卒の場合は別棟の養生湯へ入った。料金は一人一銭で安かった。(邦人大人一人五厘)往還には隊列を組み、衛兵もしくは陸軍雇員が護衛にあたり、制服(のちには私服)の巡査が尾行していた。そのほか、紹介・慰問が各収容地で認められていたが、松山では、幼稚園・小学校の運動会、中学校のボートレース・水泳、女学校・師範学校の授業参観、武徳殿での剣道・なぎなた試合観覧、大相撲・芝居の見物、名所佳景地への散策などが許されていた。
 明治三八年一月、外出地域は衛戌司令官の許可事項となったので、自由散歩区域として松山公会堂を中心とする半径四キロメートル以内が設定され、その境界に標示柱が設置された。これに伴い、尾行巡査を廃止し、区域内の要所に巡査を配置する警備態勢に改められた。同年三月、陸軍省は「俘虜自由散歩及民家居住規則」を発布し将校相当者については、逃亡を図らず、特別の許可なくして指定地域外に出ず、指定時間に収容所へ帰参する、散歩中郵便及び電信の発受をしないなどの書面宣誓をする者については自由散歩や民家居住が許されることとなった。松山では、四月二二日に最初の自由外出が行われているが、これにはひと悶着が生じている。それは規程中の「宣誓(プリシャーガ)」について、俘虜将校たちは、この意は「神前に誓う」の語で、自分たちは生涯これをするのはわずか三度(法廷出廷、軍籍に身を置く、現皇帝の即位)であり、通常ではできない、もしみだりに行えば、宗門上破門の罰を受けると論難した。このため、所長は陸軍省に上申して字句の訂正を求め、「誓約」の語を用いることとした。しかし将校たちは今度は「逃亡を図らず云々」は意思を束縛するものとして反対した。そこで河野所長は、四月二〇日、将校三〇〇余名を松山中学校講堂に集め、規則を説明した後、誓約書署名を求めた。しかしロシア将校は約三分の一が署名しただけで、他は先の理由の外、旅順開放の際既に誓約書に署名したとか、下士卒に自由散歩がないのは忍びないとの理由で拒否した。その後、署名者は徐々に増加したが、結局三分の二に及ぶに過ぎなかった。
 自由外出と同時に、家族持ち及び特別に事情のある将校たちは松山市内での民家居住を許された。借家数は一六軒であった。主として妻帯者であったが、なかには八歳のエウゲニヤをかかえたイワーノフ砲兵大尉、伯母と一緒のソロドニコフ砲兵大尉などの例があり、単身者としては、足部負傷の最上級将校ガネンフェリド少将(第一四師団第二旅団長)、左手負傷のクリンべルグ中佐(アレキサンダー三世連隊長)と副官のコニヤーエフ少尉補などがあり、著述家で軍事通信員のタゲーエフ予備騎兵少尉は最初単身、のち従弟ワシリエフ中尉と同居していた。
 平和回復後、ロシア帝国軍人に復すると、全員の将校たちは借家住いや下宿が許されて一五〇名が外泊し、貸家不足となり家賃が値上がりした。また、禁じられていた松山市内の料亭・飲食店への出入りも自由になり、芸妓をあげて貸し切りとし、市民の入る余地がなくなったという。

 逃亡誓約書

 コサック騎兵中尉ミルスキーが、五名の下士卒を率いて松山公会堂収容所から脱走したのは、明治三七年七月一九日の夜であった。いずれも頭髪を刈り、ひげを剃り、単衣の私服姿であった。昼伏夜行したが、同二三日朝、温泉郡生石村大字北吉田字轡(くつわ)山で逮捕された。この時、彼等は日本紙幣六七円、ロシア紙幣一〇数ルーブルのほか、英字の明細日本地図を所持していた。官憲の尋問に対してミルスキー中尉は、その理由として自分は単に逃亡して本国に帰還するのみを目的としたのではなく、自己の信ずる軍人精神を発揮するを主眼としており、機会があれば必ず逃走すると断言した。そして、河野所長の命じた「決シテ逃亡セザルベシ」との宣誓を拒否する陳述書を提出した。それによると、

 我等露国ノ陸軍将校等ハ、曩(さき)ニニコライ第二世陛下ガ大露国皇帝ノ位ニ即カレタル際、既ニ一度陛下ニ対シ宣誓シタルニ拘ラズ、士官学校入学ノ際更メテ宣誓ヲ行ヒタリ……誓文ノ中ニハ「飢寒ト有ラユル兵卒的艱苦ヲ忍ビ、君国ノ為ニハ身命ヲ惜シマズ」トノ文句ヲ含メリ、我露国ノ戦史ニ徴スルモ兵卒ノ身ヲ以テ剛勇ニシテ善ク其宣誓ノ実ヲ行ヒタル例ハ枚挙ニ遑(いとま)アラズ……兵卒既ニ然リトセバ、身将校ノ列ニ在ルモノハ一層宣誓ノ実ヲ挙ゲザルベカラザルハ論ヲ俟(ま)タズ、況ンヤ譜代恩顧ノ士族オヤ、俘虜トナリテ後数日ヲ経テ、予ハ第一軍司令官(黒木大将)ノ名ニ於イテ、一ノ請願書ヲ認メタリ、書中予ノ手足ヲ断ツカ、眼球ヲ抉(えぐ)ルカ、若クハ舌ヲ抜取ランコトヲ願ヒ置ケリ、即チ全ク勤務ヲ継続スル能ハサル不具ノモノトナシテ露国ヘ放還センコトヲ請願シ置ケリ、言フ迄モナク「君国ノ為ニ身命ヲ惜マズ斃(たお)レテ後止ム」テフ宣誓中ノ文言ハ此請願ノ原動力タリシナリ……。
 今ヤ貴下ハ予ニ強フルニ、決シテ逃亡セザルベキヲ宣誓セムコトヲ以テセラレザルハ、予ノ幸福ナリ、若シ予ガ此宣誓ヲ与フルニ於テハ、為メニ利益ヲ被ムルハ果シテ何者ナルヘキカ、我露国政府乎、アラズ、日本政府ト「ミルスキー」一個人ノミ……、
 予ハ官将校ニシテ身分世襲士族タル外、尚且ツ基督教徒タリ、我教義示シテ曰ク「来日ノ事ヲ思ヒ煩フ勿レ、何人モ何日何時死期ノ到ルヲ予知ス可ラザル故ニ、死ハ居常ニ覚悟セザルベカラズ」ト、斯ク誠実自他ヲ欺カザルノ正義ヲ踏ミツツ、如何ンゾ、宣誓ヲ敢テシ、其罪カ将来ノ忠勤ニヨリ償ヒ得ベシト心ニスマシ得ラルベキ、願クハ大佐殿、如何ナルコトアルモ、スウヤトボルクガ逃亡ノ意思ヲ翻ス能ハサルコトヲ宥(ゆる)サレヨ、

 内容は、まさに「逃亡誓約書」であった。彼は謹慎室に二か月入っていた。収容所側も日本の新聞記者からも真の軍人として、また愛国者としての賛辞が送られた。逃亡公約をしたミルスキーは、果たして翌三九年一月五日、海軍士官候補生ツィガンツェフなど五人と脱走し、伊予郡南山崎村大字上唐川南方高地に達し、山中を徘徊した。しかし、同八日午後再び捕われた。第一一師団軍法会議の結果、ミルスキー中尉は有期徒刑一五年、ツィガンツェフ候補生は重禁錮一一年、クリクーノフ二等軍曹ほか三名の下士卒は軽禁錮一年の判決を受け、それぞれ高松監獄に収監された。

 軍刀領置事件

 一般に武器は、俘虜となると同時に没収されるのが原則であったが、陸軍及び海軍の俘虜取扱規則では、俘虜将校のうち、特にその名誉を表彰する必要ある者に限り、軍司令官又は独立師団長は本人所有の刀剣を携帯させることができるとあり、この場合俘虜収容所においては携帯させた武器は領置すべきものとしていた。領置というのは、没収ではなく、平和回復時まで預かっておくということである。軍司令官が九連城の俘虜将校二人に帯剣を許可したのを始めとして、日露戦争中陸海軍が帯剣許可の名誉を与え内地収容所に収容した将校は、五三三人に上っている。このうち、旅順開城の俘虜は開城規約第七条において、勇敢なる防御を名誉とするにより、開城解放後に所要の宣誓をした多数の俘虜将校は帯剣して帰国したが、本人の任意によって内地に留った陸軍将校三二八人・海軍将校一〇九人は旅順より後送され、収容所に入るまで帯剣を許されてきた。松山収容所にはこのうち、陸軍関係九九人・海軍関係九九人、計一九八人が収容された。
 ところが、旅順の俘虜将校は収容にあたって、その規約第七条を楯にとり軍刀領置に応ぜず、激烈かつ共同の抗議を行った。特に、クルーベンニコフ少尉などは帯剣を毀却する激しさであった。これに対し、収容所側は陸軍当局の訓令を示して説諭に当たるとともに、万一に備え衛戌司令官に警備兵の派遣を求め、内外に待機させた。また、反抗した将校や衛戌司令官訪問の際の法規違犯者を営倉に入れるなどの処置を行い、軍刀領置を決行した。このため、俘虜将校たちは保護を求めて、第三国であるフランス大使宛に通報した。これを受けた大使館では、フォサリュー領事をまず名古屋に派遣して俘虜将官に対面、抗議書提出の条件で日本側の要求に従うべく説諭し、ついで松山に赴き将校たちに同様の勧告をした。そして、フランス公使は、抗議書を日本政府に提出するとともに、大使名でこの領事報告及び抗議、始末書五通をロシア外務省宛に通報した。これに対し、日本側は抗議にある軍刀領置は国際法上の法則及び人道上の慣例に背反するものでなく、取り締まり上当然の処置である旨、外務省を通じフランス公使に回答した。また、この件に関し、日本外務省はフランス公使から何らの報告、注意的書翰を接手したことはないとの答弁書を発している。

 ある俘虜の死

 明治三八年九月二一日バラックにおいて、海軍大佐ワシリイ=ボイスマンが死亡した、行年五一歳。医官の言では死因は肪脂心で、発病期は相当古く、苦痛を忍んでいたらしく、入院した九月一二日の段階では既に手遅れの状態であった。故人は、ペレスウェト号艦長で、同年一月八日、旅順港内で乗艦を自爆沈没させ、投降した将校であった。
 松山での俘虜患者数、延べ三、九二四名。医官のほか、日本赤十字社派遣救護班員により施療が行われた。施設は、松山俘虜収容所付属病室と称され、松山城北練兵場の西方に接し、敷地一二万平方メートル余に病室二五棟をはじめ、管理棟・手術室など三五棟が建ち並んでいた。
 ボイスマン大佐は、松山で亡くなった九八名の俘虜中ただ一人の将校であった。九月二三日に行われた葬儀は特派の鈴木司祭らのもとにとり行われ盛大を極めた。列席者は、ロシア陸海軍将兵をはじめ、佐藤軍医総監、牛渡少佐など連隊関係、河野大佐など収容所関係職員、愛媛県庁西田・太田両事務官、田中警視、三神松山市助役など官民多数が参列した。祈禱式が終わると、山越墓地に向かい、邦人会葬者一〇〇名・病院関係者六〇名・俘虜将校二〇〇名・下士卒四五〇名の長径数丁に及ぶ葬列が続いた。
 この盛大な葬儀と日本人の与えた深い同情に感激した俘虜側では、その好意に謝するため、オゼロフ海軍大佐外陸海軍戦友一同の名をもって、地元三新聞に次のような謝礼広告を出している。

  九月廿三日、故海軍大佐ワシリイ・ボイスマン氏葬儀ノ際ハ文武官幷ニ諸団体代表者各位ヨリ深ク哀悼ノ意ヲ表セラレ遠路御会葬被下候段奉深謝候、一々拝趨御礼可申上ノ処其意ニ任セス候条乍略儀紙上ヲ以テ御礼申述候
     一九〇五年九月廿三日
                                     海軍大佐 マーイル・オゼロフ
                                      外 陸海軍戦友一同

 松山俘虜収容所の評判

 松山俘虜収容所については、巷間好評でもって知られているが、ここでその事例を紹介しておこう。最初に、軍事通信員であったタゲーエフ予備騎兵少尉は、後送途次の日本海軍軍人に対し「歓待セラレタ親切」「捕虜デアル余ニ対シテ兄弟ノ如ク親密デアツタト云フ記憶ハ之ヲ脳裏ニ収メテ離サナイ」と述べたあと、松山での取り扱いについては、「日本ノ官憲ガ俘虜ノ為メニ充分便宜ヲ与ル事ニ全力ヲ注テ居ル」、「日本ノ歩兵下士卒テモ吾等ニ対シ万事ニ注意シテ居テ非常ニ高尚テ日本ニ通有性タル仁ト云フモノヲ認メラレタ」と感想を述べ、さらに「日本人ノ様ナ質朴テ余ニ対スルニ非常ニ同情ヲ以テ居テ又衛生的テ其上ニ其国ノ絶妙ナ天然ニ近似シタル国民ト交ツテ純粋ノ日本風ノ生活ヲ余ハ我国ニ於テシテ見タイト思フ」とすっかり日本びいきになっていた。また、在外公館からは次のような評判が伝えられている。それは在墺(オーストリア)特命全権公使牧野伸顕が明治三八年二月二八日付けで大本営陸軍参謀次長長岡外史にあてた書信である。

 拝復 益御健勝慶賀之至ニ奉存候、陳者松山俘虜収容所ノ光景絵端書十二種各十枚御送附相成正ニ領収致候、早速諸所江配布致候、定テ我俘虜待遇ニ対スル好評不尠候、右ニ関スル書信一通在之、訳出御参考迄相添差進候   敬具   追而右絵端書尚御送付被下度様及御依頼者也
 
 これによれば、在外公館あてに松山俘虜収容所の絵葉書を送っていたようで、その結果、好評を得ているとの次のような手紙(訳文)が添えられていた。
  
 謹啓 今日日本ノ美麗ナル絵端書御恵贈被下奉深謝候、此ニテ貴国牀観ノ光景ヲ想像可致候、又友人ローゼンスキ大尉ハ御送附之松山俘虜ノ画葉書ヲ一覧致、彼等ノ待遇ノ好ヲ感シ安心致居候、右御禮可申上候、頓首
    牧野公使殿   千九百〇五年二月二十二日
        伯爵夫人 アンナ・ポトリカ
           (墺領波蘭土ガリシレイ)
                             (「俘虜ニ関スル関係綴」防衛研修所戦史図書館蔵)

 俘虜景気

 道後温泉の浴客や近郊農村を商客としていた松山に、ロシア俘虜が華客となり、二年間にその消費金額が五三万〇、六五八円余であったことは、この間俘虜景気も現出したことを物語っている。地元商人のロシア人接待が未経験のため、経験のある長崎・神戸商人が来松し、第一の商店街である湊町の借家はたちまち払底した。彼等は店頭の装飾から営業の方法まで外人向きに改め、顧客を迎えたため、刺激を受けた松山商人も店頭を改築し、商品を新たにしたので、東西四丁にわたる湊町は外観を一変し、日本人の客をかえりみない状況となった。市民は、湊町の通称を「長崎町」、「ロシア町」と言いかえる始末であった。俘虜将校の自由外出が許可されると、ますます盛況の度を加えることとなった。この二年間で多く利潤を得たのは、市内では人力車・鉄道会社・銀行・宿屋・料理店・飲食店・雑貨商・収容所内の酒保、それに自転車販売・写真・洋服・靴・時計・金銀細工・呉服・芸妓などの営業者で、なかでも二、〇〇〇円以上の利益を得たものが三〇人を超えた。しかし、その大部分は長崎商人などの県外者であった。市外では、第一に公園と温泉に遊廓のある道後、第二に海浜で眺望がよく、夏期の避暑・海水浴の便がある高浜、第三は遊廓の三津浜であった。道後は空前の賑いで、浴客数は一八〇万人を越え、俘虜については遊廓の遊客四、九八二人、酒代二万円余、入浴料四、三〇六円を消費したといわれる。

 俘虜の帰国

 明治三八年九月、アメリカ合衆国のポーツマスにおいて、日露講和条約が調印され、同年一〇月批准公布とともに、同条約第一三条の規定に基づき政府は国内収容の俘虜をロシア側に引き渡すこととなった。日本側俘虜情報局長官とロシア側特別委員との間に調印された協定では、横浜・長崎・神戸の三港において日本側からロシア側へ引き渡すこととされていた。
 明治三八年一一月一〇日、神戸港において第一陣一、四四二人の引き渡しを初めとし、同港において同月二九日まで一四回、京阪附近・四国及び名古屋地方の各収容所の俘虜総計一万一、〇五〇人を引き渡したが、大阪・神戸地方にペストが発生したため引き渡し地を急ぎ四日市港に変更し、一二月七日から翌年二月二二日にかけ前後二七回、前記収容所の残り二万四、八六三人の引き渡しを行った。また、浜寺及び松山収容所における傷病者については、運搬及び乗船の便宜を計り、ロシア病院船モンゴリア号を浜寺沖に停泊させて収容し、高浜港へは一一月二五日と一二月五日に回航させて松山収容所の傷病者五〇二人を引き渡した。さらに一二月二八日、高浜において、松山収容所ほか四国各収容所にあった患者三四三人をロシア運送船ツラウエ号に搭載したほか、海軍関係四一五人を一二月二〇日、二一日の両日高浜において運送船キエフ号に搭載のため引き渡した。また、運送船ヤロスラウ号には、丸亀・善通寺収容所関係俘虜一、二九一人を一二月二六日多度津で、翌二七日には松山収容所関係残員五七八人を高浜で引き渡した。
 以上が神戸港関係であったが、横浜港では一一月一三日から翌年一月二〇日まで三一回、一万七、九四八人、長崎港では一一月二九日から翌年二月八日まで二九回、一万四、五六二人の引き渡しを行った。その後重症患者の引き渡しを随時行い、明治三九年二月二二日、総計七万一、八〇二人、外に小児六人の引き渡しを結了した。
 この間、高浜港では、将校一一五人、下士卒一、七二三人、合計一、八三八人が引き渡され、帰国の途についた。松山収容所では、下士卒の帰国に際して各人にたばこ「チェリー」二〇〇本の箱入り、松山城を口絵写真とした手帳一冊、松山・道後など絵葉書六枚一組を記念として寄贈した。
 明治三九年二月二〇日、松山俘虜収容所はその使命を終え、閉鎖された。ところで当収容所では、河野所長が所員のうち編集主任二名、委員一七名を置き、一年五か月間にわたる俘虜収容で観察した事項を編集した『松山収容露国俘虜』を明治三九年二月五日付けで発行していた(福島県立図書館所蔵)。それによると、「(観察事項の編集は)スラーブ人種即チ隣人ノ眞相ヲ知ルニ最モ便利ニシテ且ツ緊要ナルモノト確信シタル」との動機で、予め関係将校・軍医・通訳をして筆録させ、「有史以来ノ偉績ナルヲ以テ(戦勝)記念」として刊行すると河野は序していた。内容は、日常生活(上・下)、旅順の俘虜、民家居住者の景況、病室、地方に及ぼしたる影響・平和克服後の露国軍人の七編六六章からなり、本文四〇二ページにおよぶ編集物であった。記述をみると、事実に加え感想に至るものを詳細に記録しているが、戦勝国でかつ収容監督の立場での見方や他民族への理解の不足が目につく。こうした内容に加えて平和回復後の日露親善関係を考慮したためか、本書は発行後間もなく回収され、一般には配布されなかったといわれる。

表2-110 俘虜収容所別収容俘虜数

表2-110 俘虜収容所別収容俘虜数