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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

6 中等学校の増設

 喜多郡立高等女学校

 日露戦争が終了した明治三八年九月以降、県会において、中等教育振興の具体策として、高等女学校及び実業学校の増設について論議が繰り返された。三〇年代に、県下の主要な都市に県立中学校が設置されたのに対し、県立高等女学校はわずかに三か所に過ぎなかった。
 そこで、これらの恩恵を受けなかった地域において、高等女学校設立の要望が強くなった。大洲町長松原綱倫らが発起人となって、女子校期成同盟会が組織されて、募金に着手した。彼らの努力によって、設立資金も予定額に達したので、私立大洲女学校設立の申請をし、同三六年四月に設立認可を受け、五月に開校した。同三九年七月に大洲町立高等女学校となり、隣接の八か町村の後援をうけた。さらにこれら町村長の尽力によって、同四〇年三月に文部省からの認可を受けて、四月から喜多郡立高等女学校となり、本科修業年限三年で定員九〇人、技芸専攻科二年で二〇人となった。
 さらに喜多郡では、内容の整備を図り、文部省の認可を受けて、同四二年四月から本科の修業年限を四年に延長し、同町大洲に校地を求め、一一月に新校舎が竣工した。

 新居郡立高等女学校

 明治三九年一一月に、新居郡西条町外一〇か村組合立による西条実科女学校設立が認可された。同校は修業年限本科三年・専修科二年で、生徒定員は二〇〇人であった。さらに学則を改正して本科のみとし、修業年限を四年に延長し、同四一年四月から校名を新居郡立実科高等女学校と改称して、明屋敷(あけやしき)の新校舎に移転した。翌四二年に学則を改正し、高等女学校令による普通の組織に変更し、校名を郡立高等女学校と改める旨を申請し、三月に文部省の認可を受けた。

 済美高等女学校

 同三八年光野マスによって松山市に創立された裁縫研究所は、その経営を勝山婦人会に委託した。これを基盤にして、私立女学校令に準拠して勝山女学校が設立された。勝山婦人会では、すすんで高等女学校令による組織にするため、木屋町に校地を購入し、修業年限四年の本科と二年の技芸専修科を置き、定員を四〇〇人とした。同四〇年九月に文部省から設置認可を得た。
 明治三四年に沢田亀(高知県出身)は、裁縫科を主要科目とする沢田裁縫伝習所をつくったが、のち沢田裁縫女学校と改称した。いっぽう船田操は同四一年四月に、女学校卒業生を対象に、教養施設として家政女学会を組織した。愛媛教育協会の常任理事の露口悦次郎らは、この両校を合併して、内容の充実した女学校の出現を期待した。七月に両校は合同して、愛媛県実科女学校が出現した。
 ところが、勝山女学校の経営は不振の状態となり、愛媛教育協会の露口・久保儀平らは実科女学校との合併を推めた。やがて両校責任者の懇談の結果、財団法人済美女学会が設立され、同四四年一一月に認可を得て、翌四五年一月に済美高等女学校及び済美女学校が誕生した。生徒定員は三〇〇人で、かねてから建築中の温泉郡江戸村の新校舎が落成してこの地に移った。同校は五月に文部省から改称認可を得た。

 私立宇和島実科女学校

 県立宇和島高等女学校では、明治四二年三月限りで技芸専修科を廃止した。同校長田中義光はこれらの生徒の前途を案じ、町長中原渉にこの打開策について協議した。その結果、中原が設立者となり、県に私立宇和島実科女学校設立の申請をし、三月に設置を認可された。同校に修業年限一年の本科・専攻科があり、定員を一〇〇名とした。

 組合立三島女学校

 宇摩郡三島町を中心とした一町四村では、女学校設立の必要性を認め、いろいろ協議を重ねたすえ、各種学校令による女学校を目標として企画を進めた。同四一年七月に県から設立を認可され、九月に開校式を行った。同校では修業年限四年、定員一二〇人であった。同四三年四月に三島高等小学校の校舎ならびに備品を譲り受けて内容の充実を図った。

 公立農業学校の改革と増設

 明治四二年四月に県会の要望にこたえて、郡立学校の経費を補助する「学校補助規程」が制定された。宇摩郡立農業学校では、甲種に昇格させると同時に、教科に林学を加えることとなり、郡会の承認を得た。そこで申請の結果、同三九年三月に文部省の認可があり、以後校名を郡立農林学校と改称した。
 周桑郡では農業のほかに養蚕業が盛んであったから、郡立農業学校では同四〇年五月に学則の一部を改正し、校名も郡立周桑農蚕学校と改めることとした。また翌四一年一月に甲種に昇格する申請をし、三月に文部省から認可を受けた。
 南宇和郡は県の最南端に位置し、交通も不便で、郡内に中等教育機関が一校もなかった。郡では青少年の教養の向上と漁業・農業の発展を図るため、両科目を包含する実業学校の設立を企てた。校地を同郡御荘村に予定し、校名を郡立水産農業学校とした。教科課程を農業と水産の二科に分け、農業科は乙種程度として各三年、生徒定員は一五〇人であった。同校は同四〇年一月に認可を受けた。
 東宇和郡卯之町地区は、郡内第一の穀倉と称されていた。郡会において、郡立農蚕学校を設置することになり、同四一年三月に認可を受け、五月に仮校舎で開校した。この時制定された学則によると、甲種で修業年限三年であり、やがて同町鬼窪の新校舎に移転した。

 商業・商船学校の県立移管

 明治三七年の県会において、前記の西宇和郡立商業学校を県立にするよう議案が採択されていた。さらに翌三八年一月に、これを要する教育予算が県会を通過した。翌三九年三月に、文部省から認可を受けて、県立八幡浜商業学校と改称した。同校は甲種校で、修業年限は予科二年・本科三年で生徒定員二五〇人であった。これに伴い従来の県立商業学校は松山商業学校と改めた。
 弓削村をはじめ隣接六か村学校組合では、弓削商船学校を県立に移管して、諸施設のいっそうの充実を期待した。県会でこの点につき了承を受けたので、同四一年三月に文部省へ学校組織変更の申請をし、折り返して県立に変更改称の認可があった。「愛媛県立弓削商船学校規則」は四〇か条からなり、その目標を「甲種ノ程度ニ依リ高等ノ船舶職員」を養成するところとし、予科と本科を置き、本科を航海科と機関科とに分け、修業年限六年六か月のうちはじめの三年は学科を修得し、残りの期間は航海科では航海実習に、機関科では機関運転の実習に従事した。生徒定員は実習生を除いて二〇○人であった(愛媛県教育史 資料編三五九~三六六)。

 松山市立工業徒弟学校

 明治二七年七月に、文部省は時代の要請に応じて、「徒弟学校規程」を制定し、工業要員の急速な養成に当たらせた。同三二年二月に「実業学校令」が公布され、それに続いて「工業学校規程」がつくられ、修業年限を三年とする原則が定められた。実業に関する学科は木工・金工・造船・電気・建築・鉱業・染織・窯業・漆工・図案絵画で、これらを選択し、また分合することができると規定された。
 かねてから愛媛県会でも、工業学校設立の必要性が論議されていた。松山市長長井政光は地場産業である伊予絣・木工の改善発展を図るため、工業学校設立の必要性を認め、同四二年五月に県に禀請書を提出した。同時につくられた「松山市立工業徒弟学校学則」によると、教科課程を建築・染織の二部に分け、前者には造家・家具の二科、後者には色染・機織の二科を置いた(愛媛県教育史 資料編三七五~三七八)。同年七月に、文部省から松山市立工業徒弟学校設立の認可があり、九月に仮校舎で開校式をあげた。市は味酒に設備の充実した新校舎を建て、大正三年三月に移転させた。