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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 師範教育の確立

 師範学校令と愛媛県尋常師範学校

 文部大臣森有礼が、在任中に最も力を注いだのは師範教育であった。彼の師範教育に対する抱負は、「教育令」に代わって制定された学校種別単位の学校令、特に明治一九年四月に公布された「師範学校令」であった。
 この師範学校令は一二か条からなり、まず教師像の徳性を規定し、師範学校を高等・尋常の二等に分かち、前者は文部大臣の管理する国費支弁の学校であり、後者は地方税による府県立師範学校であって、各府県にその設置を義務づけ、生徒募集規則をはじめ服務規則・教科書に至るまですべてを規則化し、生徒の学資を公費支給制としたところに特色があった。
 これらの基本的な構想は、翌五月の「尋常師範学校ノ学科及其程度」・「尋常師範学校生徒募集規則」・「尋常師範学校卒業生服務規則」、翌六月の「尋常師範学校男生徒ノ学資支給ニ関スル件」などによって、管理し統制された。これらの規定は、わが国における師範教育発展の基本路線を形成したものであった。
 県は「師範学校令」に基づいて、同年一一月二七日に「本県師範学校自今愛媛県尋常師範学校ト改称」することを宣言するとともに、「愛媛県尋常師範学校規則」を制定した。
 同規則は総則、教則、試験法、学資給貸法、生徒心得、生徒編制法、舎則、室内掃除法、検査法、敬礼及服従定則、罰則、週番規定、小団長心得、半小団長心得、分団心得の一五章一四七条からなる膨大でしかも精細を極めたものであった。生徒は二〇〇名を定員とし、修業年限を四年とした。ついで教則では、倫理・教育・国語・漢文・英語・数学・簿記・地理・歴史・博物・物理・化学・農業・手工・家事・習字・図画・音楽・体操とし、農業・兵式体操は男生徒のみ、家事は女生徒に課することとして、各学科の内容及び教旨教程を具体的に明示した。試験方法は、入校・臨時・学年の三種とし、入校試験は高等小学校卒業の学力程度によって九課目について実施することが規定された。学資給貸法では、生徒に在学中学資を給与し、被服と日用品は一定の保存期間を定め、時季によって給与する綿密な規則があった(愛媛県教育史 資料編四四~五二)。
 この愛媛県尋常師範学校規則の一端を見ても、師範学校令による改革が単なる校名改称にとどまらず、学校の体質を根本的に転換させたものであったことが明らかとなる。それは寄宿舎生活に関する規制によって、いっそう徹底したものであったことが分かる。舎則においては、生徒の修学及び取り締まり上の便宜から寄宿舎生活をさせ、舎内の服装などに関する細則をはじめ、諸事を舎監の命に従うよう明示した。また舎内の厳粛な規制を保持する手段として、組を設け団を編むこととし、生徒五、六名を一学友とし、二学友を分団とし、二分団を半小団とし、二半小団を小団とし、四小団を学生団とし、団長は舎監、小団長と半小団長は首級生、分団長は次級生、組長は首席の者を任じ、小団長以下の任期は二~四週間とした。そして小団長・半小団長・分団長には各「心得」がつくられ詳細な遵守規定が定められていた(愛媛県教育史 資料編五二~六二)。
 このように生徒は、寄宿舎内で団長以下組長の監視のもとに、厳格な生活を強制された。またこれらの師範教育の範を軍隊教育に求め、陸軍士官学校にならおうとする意図を持っていたと想定される。この軍隊生活化の動きは、同年二月に師範学校生徒に歩兵操練科を施すために、第二二連隊陸軍少尉一名・軍曹四名にその教授を嘱託し、六月にエンビール銃二〇〇挺を備えて歩兵操練用に充てたことによってうかがわれる。師範学校での全面的な軍隊化への転換の様相は、森文相が全国を巡視して奨励に努めたため、各学校では争って兵式体操を課し、寄宿舎をほとんど兵営の組織に改め、舎監に多く下士官を充てる状況が見られた。
 師範教育が軍隊化した結果、積極的に大家族主義的な強い団結のもとに、協力一致して小学校教育を推進する教師群を生み出した。その反面、「師範教育が専ら強圧的に行はれ、専ら教権に屈服せしむる方法を取った結果、すべてが画一的に流れ、何等その間に個性の展開を許さない、従って青年教育者を人格的に殺して仕舞つて、……彼らに知識の仕入受売りの徒と化せしめる」(野口援太郎「師範教育の変遷」)といったいわゆる師範タイプとよばれる教師像を具備した教師群が出現した。
 二番町にあった師範学校の校舎は、明治九年の小規模な建築であったから、貧弱な教育環境を改善しようとする動きは、校舎の移転新築の計画となって具体化した。学校を木屋町に移転することを予定し、県は敷地購入に当たった。しかし地主との交渉は難航し、同二三年五月大阪控訴院の判決によって、ようやく落着した。
 新築師範学校の校舎は、起工から落成に至るまで、ほとんど三か年を費やして、同二三年九月に完工した。敷地東西六八間、南北一五〇間、教室・講堂から寄宿舎に至るまで建物一、七〇〇坪、附属小学校幼稚園など四五一坪、体操場・植物園・農業実習地をも完備していた。建築その他に要した金額は、四万一、二四九円余であった。

 小学校教員講習規則

 明治一九年度における愛媛県内小学校の教員数は、訓導一、〇九六名・授業生一、七四四名であった。授業生の多くは師範教育を受けていない教師たちであり、したがって当時の初等教育を実質的に支えていたのは、正規の教員養成機関を卒業していない人々であった。
 これらの既成教師群に、古い学識のままで「小学校令」に基づく新しい小学校教育を担当させることは、望ましいことではなかった。県では明治二〇年一一月一七日に「小学校教員講習規則」を制定し、「管内小学校教員ノ学力ヲ上達セシムル為メ」に、師範学校において必要な学科を講習させた。受講対象者は師範学校の卒業証書を所持するものと、師範学校卒業証書を持たず、単に小学校教員免許状のみを所有するものの二種からなり、現に小学校に従事するものの中から郡長が推挙した(愛媛県教育史 資料編九二)。

 師範学校女子部

 県師範学校は、小学校教員の現職教育を始めるとともに、翌二一年六月に女子部を新設して生徒三〇名を募集し、七五名の志願者のうち二五名の入学を許可した。ついで八月に女生徒組長以下の心得を定め、さらに一〇月に「女生徒仮宿舎出入規則」を設けた。寄宿舎は、二番町の二階建の民家を借りてこれに充てた。女子部生徒の実習課程には、男生徒には見られない西洋裁縫初歩・点茶・挿花・会食配膳の諸礼式があり、修業年限を三年とした。
 ところが、この女子部は同二四年の愛媛県会でその養成の廃止を議決したことにより、同年一二月に一二名の卒業生を出したばかりで廃止された。

 師範学校と附属小学校の一体化

 附属小学校は師範学校が愛媛県尋常師範学校と改称されたのに伴い、同一九年一二月に愛媛県尋常師範学校附属小学校と改称された。師範学校生徒の履修する学科目と、附属小学校児童の学習する教科目は、常に関連づけられるように努力が払われた。師範学校での教材研究の徹底と、附属小学校でのその検証という一体的な研究方式の定着化が図られた。同二五年五月の「附属小学校修業年限教科目ノ増減学級編成及授業料規則」において、尋常小学校に四年と三年の両課程が併置され、三年程を男女混合の単級、四年程一・二学年を男女混合の単級、三・四学年を男女別の複式に学級編成して、単級・複式学級のそれぞれの利害を研究した。

 尋常師範学校諸規則の改定と師範教育令

 師範学校では小学校教員の現職教育、短期間における教員速成、幼児教育担当保姆(ほぼ)の養成といった地域社会の多様な要望に応じる必要が生じた。
 これらは各地の師範学校がかかえている課題であったので、文部省は同年五月に「師範学校令」に関する諸規則を相次いで改正した。まず「尋常師範学校ノ学科及其程度」を改正して、倫理を修身と改称し、必須課目であった英語・農業・手工が外国語・農業・商業と改められて加設課目となり、そのうち一科目を履修させることになった。
 またこの改正において、尋常師範学校に簡易科・予備科・小学教員講習科・幼稚園保姆講習科を置くことができた。さらに「尋常師範学校簡易科規程」が定められ、教員の急需に応じるため、修業年限を二年四か月とした。ついで「尋常師範学校生徒募集規則」と「尋常師範学校卒業生服務規則」とが改定された。
 県はこれらの尋常師範学校諸規則の改正に対応して、翌二六年四月八日に「愛媛県尋常師範学校規則」を全文改正した(愛媛県教育史 資料編一四四~一四七)。この規則は、総則、教則、学費給与并物品貸与規則、生徒管理規則、附則の五章三四か条からなり、文部省が公布した諸規則との重複をできる限り避けるために、前の師範学校規則からみると、著しく簡略化されている。
 同年三月一〇日には、県は文部省の指示によって、「尋常師範学校生徒募集細則」を定めた。募集の方式として郡区長の推薦による第一種生と直接師範学校に入学を希望する第二種生とに分け、前者については各郡市の配当人員を、宇摩郡一〇、新居桑村周布郡一八、越智野間郡一八、風早和気温泉久米郡一七、上浮穴郡五、下浮穴伊予郡一二、喜多郡一三、西宇和郡一二、東宇和郡八、北宇和南宇和郡二二、松山市五とした(愛媛県教育史資料編 一四一~一四二)。この年から従来の正科生のほかに、簡易科生を募集した。入学者は正科第一種生一一、第二種生二五、簡易科第一種八、第二種一二であって、当時の生徒数は一一〇人となっている(明治二六年愛媛県学事年報)。
 明治三〇年一○月に、従来の師範学校令を廃止して、「師範教育令」が制定され、翌年から施行された。この師範教育令は一一か条からなり、尋常師範学校を単に師範学校と改称し、校内に予備科・教員講習科・幼稚園保姆講習科を設置し得るとした以外は前令と大きい変化はない。なお師範教育令と同時に判定された「師範学校生徒定員」では「師範学校ハ道府県管内学齢児童三分ノ二ニ対シ一学級七十名ノ割合ヲ以テ算出スル全学級数ノ二十分ノ一以上ニ相当スル卒業生ヲ出スニ足ルヘキ生徒ヲ毎年募集スヘシ」(第一条)とあって、この生徒定員の算出基準はその後も長く継続された。
 県ではこの師範教育令に従い、同三一年四月から愛媛県師範学校と改称し、同三三年二月二七日に「愛媛県師範学校規則」を定めた。この規則は総則、教則、学資給与並物品貸与規則、生徒管理規則、生徒心得の五章三二条からなり、従前の規則と大きい変化は見られないが、学年を四月一日に始まり、翌年三月三一日に終わるとして、これを三学期に区分した(愛媛県教育史 資料編二〇一~二〇五)。なおこの規則は同三七年七月一六日に全文改正され、条文を二五か条に整理しているが、基本的な規制には変化がなかった(愛媛県教育史 資料編二九〇~二九六)。これより先、同三二年一月二六日に「師範学校生徒募集細則改正」に際しては、第一種生について郡市別の生徒配当人員を明記することを廃止して、師範学校長がその都度適宜に決めて郡市長に通知することとした(愛媛県教育史 資料編一九九~二〇〇)。

 愛媛県師範学校女子部の再興

 県は同三三年四月から女生徒を募集し、本格的な女教員を養成することになった。これは初等教育の分野において、女子教育の必要が強く叫ばれるようになったからである。同年四月に二五名の女生徒を入学させた。翌三四年には県内各郡市を併せて三八名の志願者があり、そのうち二〇名を収容した。同三六年三月には女子部第一期卒業生一六四名を県下各小学校に送り出した。

 師範学校規程による改革と愛媛県師範学校学則の改正

 明治四〇年三月に、文部省は小学校令を改め、義務教育期間を六か年に延長したため、四月に「師範学校規程」を公布して、師範教育の画期的な整備を図った。まず冒頭の教育令に合致した教師像が具像化され、予備科及本科、講習科、附属小学校及附属幼稚園、設備、設置及廃止、補則、附則があり、七章九九条に及ぶ詳細な諸規定が盛り込まれている。
 これらの諸規定を従来のものと比較すると、簡易科が廃止されて本科と予備科により編成されたこと、本科に第一部と第二部とを置いたことであり、第二部の新設にこの規程の最大の特色がみられた。第一部が従来の入学資格における年齢制限を撤廃して、高等小学校卒業者としたのに対し、第二部は中学校・高等女学校卒業生を収容し、教員の質的な面でのすぐれた人材登用の道を開き、これまでの師範教育特有の閉鎖主義からの脱皮を可能にした。以上の内容と特色とを持つ師範学校規則は、昭和一八年に抜本的な大改正がなされるまでの三〇年間、師範教育令とともに師範教育の基本規定としての生命を維持した。
 県は師範学校規程を受けて、同四一年一月二三日に「愛媛県師範学校生徒募集細則」を改正し、二月一三日に「愛媛県師範学校学則」・「愛媛県師範学校附属小学校学則」・「愛媛県師範学校小学校講習科学則」を制定した。そのうち、愛媛県師範学校学則は総則、学年学期教授時数及休業日、学業成績及卒業、入学休学退学及懲戒、生徒の管理・学資・授業日及貸与品、附属小学校、附則の七章三二条からなる。
 まず冒頭において男子本科第一部・同第二部・女子本科第一部・同第二部を置き、男子本科第一部は修業年限四年で定員三二〇人、同第二部は修業年限一年で定員四〇人、また女子本科第一部は修業年限四年で定員一六〇人、同第二部は修業年限一年で定員八〇人(第二・三条)であった。履修すべき学科目としては、男子本科第一部生徒は修身・教育・国語及漢文・英語・歴史・地理・数学・博物・物理及化学・法制及経済・習字・図画・手工・音楽・体操・農業などで、女子第一部生徒は男生徒の履修する法制及経済・農業のかわりに家事裁縫が課せられた(愛媛県教育史 資料編三三二~三三八)。

 愛媛県女子師範学校の創設

 義務教育期限の延長に伴い、県では小学校教員およそ七〇〇名の不足を補充するため、女子師範学校設立の必要が叫ばれるようになった。同四一年一〇月に、内務部長竹井貞太郎は愛媛新報紙上に「女子師範学校設置に就いて」の談話を公表して、校地提供などの協力を各方面に求めた。その結果、三津浜町の西南端一万坪の塩田に沿う地帯が、建設用地に決定した。同四二年に地ならし工事を終え、その後本館・理科教室・寄宿舎が建設される予定であった。
 県では同四三年四月に女子師範学校を開校した。三津浜の新校舎落成までの暫定措置として、愛媛県師範学校の中に付設した。同時に「愛媛県女子師範学校学則」及び同校「生徒募集細則」を制定して、即日施行した。学則は三〇か条からなり、第一部・第二部などを置き、生徒定員は本科第一部一六〇人、第二部八〇人とし、各学級二〇人以内の私費生を配し、修業年限の第一部を四年、第二部を二年とした(愛媛県教育史 資料編三八六~三八九)。一〇月に新校舎が落成したので移転を完了し、名実ともに師範学校から分離・独立した。