データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

六 商業と金融機関の整備 ①

 明治初年の商業

 近世の商業は工業と未分化であり、商業地や販売品目などは藩の統制下にあり、冥加金や運上金を上納して営業が許された。廃藩後は営業は自由となり、貨幣制度も整って商業の基盤は整備されたが、城下町では士族の解体で、多くの貸し付けを抱えたまま顧客を失った。また新興商人の進出によって従来の商習慣も混乱した。こうした傾向は幕末からみられ、大洲藩庁では、明治四年二月の太政官布告「商民法制心得」をうけて、高利や値上げの停止、運上の期限内納入、免許品以外の販売停止、官辺への賄賂禁止などを領内に命じている(田中家史料)。また各地の商家も、自主的に商種別の組合を作って、商業の衰退を防止しようとした。
 商業者への課税は、明治初年は藩政期の旧慣のままで、工業とともに雑税として徴収された。しかしこれは商工者の不満が強く、明治八年二月に廃止され、「県税規則」によって県税民費となり、同一一年度からは前年の「営業税雑種税の種類及制限」によって、地方税の一部となった。この改正により潜在営業者の実態が明らかとなり、質商や古道具商、料理屋などは五割前後も増加した。新費目も加わって、同一二年度の総税額は前年の倍額の六万円となった。
 商業への賦課法は、売り上げが不明瞭なところから、歩一(ぶいち)税よりも等級法が多く採られたが、明治一七年度からは等級税法に統一して増額された。しかし明治二三年の市町村制を機に、地域別等級指定から地域別負担額の決定に切り換え、さらに五割程度を増額した。表2―89は、当時の各地の商業力をうかがう好資料である。

 商業勢力の動向

 城下町では、旧町の延長である水呑(みずのみ)町や新興地にも商店街が生まれた。今治では川岸端(かしばた)や常盤町、松山では外側(とがわ)の湊町や大街道、宇和島では袋町、竪新(たてしん)町などである。また在方商人の動きも活発で、交通不便な南予の山間地がかえって商勢力を伸ばした。北宇和郡の松丸(まつまる)や吉野、東宇和郡の野村などがこれである。城下町の伝統のない所でも、別子銅山の発展による喜光地(きこうじ)や新居浜、製紙業から三島・川之江、綿業と海運によって八幡浜などが商業力を強めた。
 八幡浜は、明治初年から合田(ごうだ)の行商人の力もあって南宇和郡や高知県、大分・宮崎など九州東岸をも商圏として伊予の大阪といわれ、本町や浜ノ町には呉服、布団、陶器などの豪商が並んだ。南宇和郡の明治初年では城辺に七、八軒、平城に三軒の商店があった(「郷土誌雑稿」)が、城辺へは明治一〇年~一二年に舟木屋常三郎・武内善太郎外数戸が八幡浜から移り、平城へも明治二〇年ころに菊池重太郎、半ばころ山本正重が移って、商業発展の契機となった。城辺へは山泉作太郎の金融業や酒造業も進出したが、地元でも明治一〇年に豊田の水田五反を宅地化して町作りを計画、一二年には蓮乗寺川を付け替えて中町を建設した(「御荘町誌」「城辺町誌」)。

 各地の商業

 明治期の商店は、洋風の物品を売る店は少なく、卸売商に比して小売店が多く、その多くは多種の商品を並べる雑貸商であった。商品は日用品が大半で、中期では菓子・魚屋・米屋・酒屋で全小売店の過半を占めた。農村部からは、米麦や薪炭を商店に運んで必要な品物と交換し、町場でも買い物は通帳により、年二回払いの形が一般であった。
 川之江は、金生川改修以前は港付近の古町(ふるまち)や農人町(のうにんまち)が中心街で、土佐街道沿いの上分(かみぶん)にも、明治八年に五九店があった(「上分町史」)。西条では、城下の本町と宿場の大町(おおまち)の繁栄が、国鉄開通まで続き、壬生川も明治初年には港付近に問屋が並んでいた。今治付近では、桜井の外に富田村拝志(はいし)、大島渦浦(うずうら)村(現吉海町)でも行商が盛んであり、渦浦では明治末期八三戸の商家のうち六〇戸が漆器行商であった(渦浦村郷土誌)。
 松山は、明治六年三月の県庁開庁以来、藩体制の解体とともに政治・経済・文化の中心として急速に変化した。一一年の物産博覧会、一七年の歩兵二十二連隊設置も、商業に大きく影響した。湊町は伊予鉄とともに発展し、道後と大街道三丁目には土産物屋、三津浜と河原町には問屋が並んだ。伊予郡の湊町・灘町は物資の集散地として栄え、松前(まさき)には明治末期に砥部焼を運ぶ五〇隻の唐津船と四〇軒の陶器問屋があった(松前村郷土誌)。温泉郡睦月(むつき)島と野忽那(のぐつな)島では、明治二〇年に親方一五人と売り子六〇人がおり、同三九年では商業鑑札所有者が一二四人、船舶二二四隻があって、瀬戸内各県や九州へ反物などを船で行商した(「中島町誌」)。
 中南予の山間では久万(くま)・内子・五十崎(いかざき)・卯之町(うのまち)・野村・三間(みま)・松野などが蠟・生糸・紙・薪炭業の発展と交通未発達による広大な商圏に守られて繁栄した。歩行の時代では一日最大四〇キロメートルが移動の上限である。沿岸の長浜・川之石・三瓶(みかめ)・吉田・岩松・平城(ひらじょう)・城辺なども物資の集散地として賑った。多種の商店の他に、馬子や行商人、船頭のための飲食店や宿屋も集中した。野村の丸屋、上田屋、大阪屋などは巨大な店舗を構え、近郷の楮(こうぞ)や三椏(みつまた)、繭などの生産者と独占契約を結び、豪商の風格を備えていたという(「野村郷土誌」)。しかしこれら地方の商業中心地は、後背地の産業の衰退や道路の整備、鉄道開通などによって、まず問屋や仲介商が衰微を始め、ついで雑貨商や日用品店にも及んだ。多くの商業地では、特に大正以降に商工会を結成し、大売り出し、開市や諸興行などで、商勢力の維持に努めた。

 市場と商品の移出入

 近世の市は藩営または藩許を得て、城下や社寺の門前などで、祭りや縁日に合わせて盛大に行われた。しかし明治以降は商店の発達によって衰え、町場では商人専門の卸売市場に転じ、地方では牛馬市のみが残った。業種別では魚市は毎日開かれ、取り扱い額も大きい。西宇和郡にも八幡浜・朝立(あさだつ)・安土(あづち)浦の三魚市が開設されているが、県の調査に回答せず(「三瓶町誌」)、表2―92に漏れている。内子魚市場は、明治初年の開設であるが、大正初年に町営となり、集荷・販売圏を中南予一帯に拡大した。今治新町では、明治四三年に蒲鉾業者らも加えて株式組織として合理化した。
 関西屈指の三津魚市場でも、明治一三年五月に各問屋の売り上げに応じた持ち株による会社組織とした。明治二一年に愛魚社を併合し、同三八年に市場を新築した。同市場は現金取り引きが特徴であった。魚市税は、明治一〇年から県税として定額を納入したが、同一二年から売上高によった。明治二一年からは等級制による定額に復したが同二三年度は町村制施行で三割を減額した。一等地の三津浜で月三五円、六等地の川之江・大洲などではその一〇分の一であった。
 商品の移出入は実態把握が困難であるが、県では明治一三年から主要港の出入品目や金額を、郡長から報告させている。初期の物品の動きは産業全般の傾向を反映して南高東低であり、明治一五年では、八幡浜・川之石の二港で県下移出額の四八%、移入額の六三%を占めている(資近代2 一一三~一一七)。明治末年では、商品の動きは極めて活発となり、工業発展の結果から東中予の諸郡が中心となっているが、南予との間にまだ著しい差はない。表2―93のうち金額では越智郡の移入の六割が綿糸、移出の五割が綿織物、新居郡の移出の八割が銅であった。温泉郡は米と伊予絣、喜多郡では生糸、西宇和郡は綿糸の移出が多い。

 物価と賃金の動き

 物価や賃金の動きは、その時代の雇用形態や社会の在り方と関係が深く、金額の高低では判断しにくい。金銭への感覚は時代によって大きな差があり、貨幣価値は戦争や恐慌の前後で大きく変動する。米価は維新後と明治一三、一四年の高騰の他は、他の品目より安定しており、地域差も少ない。明治一五年ごろの食生活は、東中予では三割が米食で七割が麦食、中予山間と南予では米食二割、麦食四割、甘藷・とうもろこし各二割といった状態であった(資近代2 一二四)。
 明治期は低生産性と貧農出身の低賃金が特色である。賃金は工場や農家など、その時々の雇主側の条件で定まるので格差や地域差が激しい。表2―98は中等の賃金であるが、上等は本表より約三割高く、下等は三割低い。女性は男性の半分以下であり、特に南予では四分の一の職種もみられる。また賃金は日給制、出来高制が基本であり、労働条件は劣悪であった。本県でも明治一〇年代から製糸・製塩・粘土瓦製造業界などに労働争議がみられるが、雇用条件の改善は、婦人の解放とともに、明治後期から大正期の大きな社会問題であった。

 商法会議所と商工会

 商業の近代化の歩みは緩やかである。近世の商業は、城下は町奉行や町年寄、在郷は代官や年寄に支配され、城下では町会所が町人の結合の場となり、ある程度の自治が行われた。中央では明治初年に商法司、続いて通商司が置かれ、海運や貿易とともに商業一般を管理したが、末端までの支配は不十分であり、明治四年七月の通商司の廃止や廃藩後は、しばらく空白期となった。
 明治一〇年ごろ、東京や大阪では商工業者の私的親睦組織である商法(業)会議所が組織された。県下でも明治一四年五月に松山商法会議所(資近代2 四五七)、同一六年西条商工会(「西条市誌」)。同一九年一月内子商法会議所が設立され、そのころ八幡浜や宇和島でも設立の準備がなされた。松山商法会議所は、明治一三年ごろから小林信近・栗田與三らにより企画され、同一五・一六年度は県費補助を得たが、その他の年の経費は寄附金によった。商取り引きの近代化を進め、大洲地方の木炭の、大阪への販路を開拓したが、明治二〇年ごろからは役員自身の事業多忙のため自然消滅の形となった(「松山商工会議所八十年史」)。その後は松山商業倶楽部、松山実業会、松山商工同志会、古町商工談話会など多くの友好的団体が結成された。
 商工会は商法会議所よりやや公的性格を持つが、それ程の差はなく、明治一八年では全国に三二例あるものの、この時期の不況により大きな活動は出来なかった。明治二三年九月の「商法会議所条例」で、商工団体は法人的権限が強化されて、県や市町村に対しても商工者の立場を代表できることになった。会議所の議員は規定の納税額を上納する商工業者が選ばれた。明治三五年三月「商業会議所法」で不備な面が改正されると、各地で商工団体の組織化が進められた。
 松山市では明治三〇年一二月に松山商工会、翌年八月に松山商業会議所が設立された。しかし双方の役員はほぼ同一で、商工会はより私的友好的な団体であった。松山商業会議所は、当時粗製乱造がもとで市場での人気低落が問題となっていた伊予絣の改善策を講じるなど地場産業の振興に努め、全国的に展開されていた増税反対運動などに参画し、建議や請願を行うなど幅広い活動を続けた。明治三八年七月に役員改選のもつれから会議所が解散すると、商工会が中心となって県の大土木工事予算案への反対や工業試験場保存運動などを行った。
 今治では廃藩以来港湾が土砂で埋まったままで入港にも差し支え、その浚渫(しゅんせつ)の世論の喚起や費用捻出のため、商工業者の団結が急がれた。しかし今治商工会は、開町三百年記念の明治三五年五月にようやく創立された。しかし発足後は浚渫に続く築港期成同盟会の結成、電話架設や鉄道開通の促進、商取り引きの月末勘定制や景品付き大売り出しなど多方面に活動し、町民の信頼を集めた。今治町もその功績を認め、明治四一年度から年額一〇〇円の補助を規定した(「今治商工会三十五周年史」)。

 銀行の乱立と統合

 明治一〇年代には、銀行などの金融機関が社会経済の発達に果たす役割が認識され、産業革命期の日清戦争前後には、「銀行条令」の制定もあり、銀行の増設期を迎えた。銀行は増資と支店拡大を続け、企業熱はより銀行を必要とし、銀行は企業の設立を促した。県下では明治二四年末に一三行あったが、同三三年には四倍となり、南予では三二行、うち現宇和町域では六行が乱立した。吉田では南鎨会社に起源をもつ伊予吉田銀行と宇和島貯蓄銀行支店、大洲では大洲銀行と大洲商業銀行との競争がみられた。しかし明治三三~四年ごろの恐慌により、経営難となる銀行もあり、政府も大銀行主義をとったため、中小銀行は次第に統合の方向に向かった。明治三三年に解散した伊予商業銀行は、伊予汽船会社の破綻に起因する。
 商工業や海運業の活発な今治町では、高利貸以外の資金の必要が痛切であった。半官僚的な国立五十二銀行支店に対し、有志の協議によって資本金四万円で今治融通㈱(翌年今治銀行)を設立し、明治二八年二〇万円に増資、翌年貯蓄銀行を兼営した。同行は明治三三年四〇万円、同四〇年一〇〇万円、大正七年には二五〇万円に増資して、県下有数の大銀行となった。初代頭取は阿部光之助である。松山市では、明治三〇年ごろに銀行の設立が相次ぎ、会社・工場の設立拡大に寄与した。愛媛県農工銀行を除く市内六行の、大正元年末の預金高は県下の四四%、貸付金は二三%余を占めている。
 南宇和郡平城では、網代(あじろ)の浦和盛三郎が明治一六年に御荘為替店を開設、同二三年四月には城辺の二神家の資力を加えて浦和銀行となり、同郡の金融の中心となった。明治二九年には国立二十九銀行御荘支店が開かれ、同三四年山泉作太郎が金融業を営み、ついで同四〇年に資本金五〇万円の御荘銀行を設立し、郡内主要地区に支店などを開設した。同年平城に質店の開設もあり、明治末年には南宇和の地でも金融機関の利用が便利となった。
 明治中期は、普通銀行とともに特殊銀行も設立された。日本勧業銀行の設立に続き、明治二九年四月公布の「農工銀行法」によって、同三一年七月に愛媛県農工銀行が、松山市二番町に設立された(頭取清水隆徳)。同行は農工の改良発展のために長期融資を図るもので、特に農地に関する金融の途が開かれ、耕地整理などを助成した。このころ逸見(へんみ)佐平・村上半太郎らも農業改良のための伊予農業銀行を、松山市札之辻に設立した。

図2-20 愛媛県の職業別人口

図2-20 愛媛県の職業別人口


表2-88 地方税賦金の構成

表2-88 地方税賦金の構成


表2-89 愛媛県の主要商業地

表2-89 愛媛県の主要商業地


表2-90 愛媛県の主要業種別商店数

表2-90 愛媛県の主要業種別商店数


表2-91 愛媛県の雑商

表2-91 愛媛県の雑商


表2-92 愛媛県の市場概況

表2-92 愛媛県の市場概況


表2-93 郡市別主要物産の県外移出入

表2-93 郡市別主要物産の県外移出入


表2-94 主要港別主要商品の移出入

表2-94 主要港別主要商品の移出入


表2-95 愛媛県の米価の動き

表2-95 愛媛県の米価の動き


表2-96 松山市の物価の累年比較

表2-96 松山市の物価の累年比較