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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 農林業の発展 ①

 明治後期の農業

 明治前期の農業生産は、国・県の保護育成策によるところが大きい。農業は明治初年の田畑勝手作の許可、田畑売買の自由など封建的束縛から解放されたが、地租改正によって資本主義経済の中に組み込まれ、明治二〇年代からは他産業の攻勢を受けることになった。明治末期には農業生産は総生産額の五割を切り、鉱工業生産の伸びが著しい。県下の耕地面積は明治期を通じ一一~一二万町歩で、うち水田は四万八、〇〇〇町歩、畑地は七万町歩を前後し、ほとんど変化はみられない。農家数も明治前期から一四万戸内外と変わらず、東予では小作農家率が、南予では自作農家率が高い。
 作物の作付けと生産の動きでは、他の普通作物がほとんど停滞~減少であるのに対し、米と裸麦の生産の伸びは著しく、農産物の生産額中でも両者の比率が増加している。雑穀・豆・芋類も生産は安定するが価格は安く、自家消費を中心としていた。工芸作物は大きく変動し、綿と藍(あい)は輸入品によりほとんど消滅した。和紙原料では楮皮に対し三椏(みつまた)が伸びた。三椏は前期には宇摩郡が中心であったが、上浮穴郡では、農会や村長が高知県から苗を移入し、積極的に栽培を勧めたため、明治末期には県下の過半を占め、農家現金収入の一位となった。
 櫨(はぜ)・茶・甘蔗(かんしゃ)は明治末期から大正期にかけてが生産の頂点となり、除虫菊(じょちゅうぎく)・煙草・杞柳(きりゅう)などは明治末期から生産が開始される。明治二〇年ごろから各地に製茶改良組合が結成され、静岡や宇治から技師を招いた。県でも明治二八年に県下五か所に製茶試験場、同三二年には九か所に茶業組合を設けて改良増産を指導している。果樹や蔬菜類の生産は、明治三七年ごろから県統計書類に計上されるが、その作付けは大根以外は極めて少ない。

 米作の推移

 明治期の農政の中心は米の増産策にある。県下の米産は明治一〇年代四八万石、同二〇年代六〇万石・同三〇年代七〇万石、同四〇年以降は九〇万石と伸びた。反収は中予が高く南予と山間部がやや低い。米の重要な移出県であった愛媛は、利を追って多収穫品種を植え、調整俵装も粗悪となって上方市場で「伊予米」の評価を落とした。したがって県の勧業課や農談会の活動の主目的も米穀改良にあった。
 しかし当面利害が直接影響する米穀商は、組合を組織して不良米の買い入れを中止し、合格米には等級をつけて出荷したため、順次信用を回復したという。特に明治一八年設立の今治米穀商組合、同二一年に逸見(へんみ)佐平らの提言による松山米穀商組合は、品種を三宝(さんぽう)米、栄吾(えいご)米、稲荷(いなり)米に規定し、施肥や刈り取り期、籾干し、俵製などまで細かく指示をして好成績を上げた。明治三八年ころからは産米改良が県会でも議題となり、大正初年から米穀検査が実施された。
 稲の品種は明治初年既に多様であったが、地方の篤農家が収穫期や味・病虫害への抵抗力など風土に合うものを改良・選定したため更に多種となった。ために明治三五年ごろから県農事試験場や農会が優良原種の配布をはじめ、同三九年から各地に原種田を設置して統一を図った。明治初期には晩種、中期は中稲、後期は再び晩種が主に栽培されたが、後期では兵庫原産の神力(じんりき)、岡山産の雄町(おまち)、伊予郡原町村(現砥部町内)村上徳太郎改良の相徳(あいとく)、温泉郡堀江村(現松山市内)植松栄吾が改良した栄吾、今治地方に普及の三宝米などが主力であった。麦は米ほどに種類の変遷や改良もなかったが、中後期では裸麦は八徳(はっとく)・景清(かげきよ)・鬼裸・小麦は珍子(ちんこ)などが広く栽培された。
 米作技術のうち、籾の選種は近世以来の唐箕や篩(ふるい)、水選法によったが、明治三八年の「戦時農業督励規程」により塩水選が奨励された。播種量は通し(練り)苗代のころは坪当たり約一升であったが、三四年ごろから害虫予防を主目的に、短冊型の改良苗代を奨励し、籾量も約五合の薄播となった。田植えも明治初期は旧慣のままの密植・乱雑植であったが、明治三〇年ごろに温泉郡余土(よど)村(現松山市内)の鶴本房五郎が、竹定規を使用して正条(せいじょう)植を行った。県もその成育状況・除草・施肥・刈り取りなどの便をみて督励し、同三八年ごろからは村長や巡査も動員して強制したため、数年で県下全域に普及したという。また田植えも、従来の坪当たり八〇株が半減された。余土村と共に、正条植で全国一の模範村となった伊予郡岡田村(現松前町内)では、県内だけでなく近県及び岐阜・滋賀・鹿児島県などからも要請を受けて大西盛行ら青年一九名を派遣し、技術指導を行った。また全国各地からの視察者も、年々数千人に達したという(「松前町誌」)。
 作業中最も重労働であった除草は、前期までは一番草のみ熊手(くまで)打ち、二番以降五、六番の止め草までは手取りであった。明治二五年に中井太一郎が考案した手押式の太市車、同三一年ころには八反摺(ず)り(鬼転(おにころ)がし)が使用されて、婦女子でも可能となり、二、三番草は除草器が使用された。籾の乾燥は地干しが一般であったが、明治末期から台掛(だいかけ)や鎧乾(よろいぼ)しが始まり、大正に入って稲木(いなき)干しが一般となった。脱穀は千歯扱(せんばこき)、籾摺には唐臼(からうす)を使用したが、明治末年に足踏式籾摺機が現れた。

 農業技術の進歩

 農用具は明治三〇年代に改良考案が続き、作業能率が向上したために農産加工や機織りなど副業の余力が生じた。人力中心の明治前期では五~六反の経営が限度で、それ以上の場合には共同作業や賃犂(すき)・賃扱(こ)ぎなどが必要であった。田鋤は、二人掛りの無床犂(むどこすき)か長床(ながとこ)の牛馬犂によったが、福岡県から導入の立犂は深耕が可能で小回りも効くため急速に普及し、ここから多くの改良犂が現れた。
 肥料では青草に代わる緑肥として明治二〇年ごろから青刈大豆、同二二年ごろから紫雲英(れんげ)が栽培され、前者は、温泉・越智両郡、後者は東宇和・北宇和郡を中心に普及した。金肥の大豆粕(だいずかす)は明治二八年ごろから輸入され、同三〇年ごろから過燐酸石灰や硫安が使用された。これらは高価ではあったが、著しい効力により使用量が増加し、ために粗悪品も続出した。明治三四年以降は県にも肥料検査官をおき、肥料販売を免許制とした。大正初年には新居浜や西宇和郡川之石でも人造肥料の製造を始め、使用量は一層増加した。越智郡の島しょ部では硫安の使用によって麦の収量が増え、麦作だけで生活が可能になったという(「伯方島誌」)。
 病虫害に対しては効果的対策がなく、明治一七年と同三〇年に浮塵子(うんか)、同四二年には三化螟虫(めいちゅう)の大発生をみた。当時の一般的防除は伝統的な虫送り、採卵や捕蛾、被害茎の切り取りや焼却などで、児童も参加したり、村農会で蛾や卵塊の買い上げも行った。浮塵子には、近世の鯨油と共に明治三〇年ごろから重油が使用され、東宇和郡下宇和村(現宇和町内)の松本元一郎は、そのころ石油に除虫菊を混入して効果をあげ、後に県下各地にも普及した(「宇和町誌」)。県では明治一九年に「田圃害虫予防及ヒ駆除規則」を布告して戸長役場ごとに三名以上の駆虫委員を置き、予防駆除と発生に際して県庁への急告を義務づけ、同三二年には「害虫駆除予防法施行規則」などにより、防除連絡法について厳重に訓令した。三五年さらに「害虫駆除予防巡視規則」により、九名の巡視員に郡内を巡回させた(資社経上 二二~二六)。病害対策は稲よりも果樹や蔬菜が早く、明治三五年ごろから銅石鹸液や除虫菊油剤などが使用されている。

 農村の変化

 明治期の農業の特色は、耕地の所有形態や耕作制度の中でも把握される。地主制は維新前から進行したが、明治後期の県下水田の過半は小作地で、農家の過半は小作農であった。地租改正は地主には有利に展開したが小作農の地位は依然低く、収納は現物のままであり、小作権の保障はなく口米(くちまい)などの旧習も残された。ために明治八年伊予郡東垣生(はぶ)村(現松山市内)、同一一年は同郡松前(まさき)村で早くも小作争議があった。地租は金納のため、自作農でも米の過半は商品化の必要があり、米価の変動や不況に対処しなければならなかった。松方財政のデフレ期や、数年ごとの恐慌下では収入は減少するのに地租は増税策で増大し、窮乏した中小自作農は土地を手放して小作農となった。明治一七年度の所有地の移動は二万三、〇〇〇町、一九年度では三万一、〇〇〇町歩にも達している。土地を集積した地主層は地方政治や文化の担い手となった。
 明治一八年四月、農商務省の指令によって詳細な小作慣行調査が県下でも行われた。これによると県下では名田(普通)小作が一般的で、小作の取り分は四割、滞納の際には小作地が取り上げられる地方が多い。近世の夫食(ふじき)米や種籾の前借り制、耕作制限はほとんどなくなっている。小作証券を作る地域もあるが、大地主の多い東中予の平坦地では地主の力が強く、地主制未発達の山間や南予では小作人の立揚が強い。南予の漁村には、所有耕地三反未満の貧農が六〇%以上という村もあり、豪農に、小作と合わせて、網子や雇用者として隷属に近い形で使用された例もある。
 明治二一年、県下には農業をしない耕地所有者が全農家の一四・三%、約二万三、〇〇〇戸あった(「愛媛県誌稿」)。同年の「農事調査表」によると、県下で一〇町歩以上の耕地所有者は一、三二一戸(一・〇九%で全国一一位)であった。当時小作収入のみで生活するには五町歩が必要とされたが、明治三〇年に越智郡紺原(こうのはら)村(現大西町内)井手武は、田畑四町四反を所有し、うち三町八反を小作地とし、収入二三六円余、支出九二円余で、一四三円六五銭の所得を報告した(井手氏分限下調帳)。新居郡十亀家は、明治二一年に田畑四一町一反、山林竹林八〇町六反を所有し、越智郡岩城村の三浦家も、合計約四三町歩を所有している(表2―19)。

 農業基盤の整備

 現在の整然とした各地の耕地の区画は、耕地整理事業によるものである。明治三二年の「耕地整理法」以降政府も同事業を援助し、県もまた同三八年に農会から県事業に移管したのを機に、五町歩以上の事業については一〇~一五%の補助を開始した。県下の先駆は宇和盆地で、既に明治初年から共同排水溝による乾田化で実をあげていた永長(ながおさ)地区では、明治三八年に三町三反を完了した。その成果によりたちまち全盆地に波及したものである(「宇和町の耕地整理」)。越智郡盛(さかり)村(現上浦町内)では、同四三年七月から全国にもまれな全耕地一斉の整理事業に着手した。伊予郡松前村筒井・浜地区では、整理後にもとの二九町四反が三六町六反と増反され、反収は二石一斗五升から二石六斗六升とともに二四%も伸び、労力は四~六人役を節減した(松前村郷土誌)。
 温泉郡では正岡村(現北条市内)八反地が早いが、余土(よど)村では明治三五年制定の「村是」により、市坪(いちつぼ)・余戸・保免(ほうめん)の三組合四七一戸三七九町歩で実施し、八万五、〇〇〇円と延ベ一四万五、〇〇〇人を要して、全耕地を二毛作田の短冊型に改良整理した(「余土村誌」)。耕地整理事業について、小作人を中心に、負担金や正確に測量されると従来の縄延の利がなくなる点から、各地で反対運動もあった。
 水利は農民の命であり、用水の確保や自主的な管理は農業近代化の基本である。しかし明治前期は、近世の水論がそのまま持ち越されている例が多い。また新水源や水路の開発、改修に伴う水利権争いが増加した感もある。明治二四年一月、水利の合理的運営のため「水利組合条例」が制定され、従来の水利土功会に代わって普通水利組合が作られることになった。同年中に周布(すふ)郡だけでも周布・南吉井・福岡・多賀(たが)・吉井村広江(ひろえ)が、水利組合の認可申請を行っている。

 営農の指導

 農民の組織化は、明治一八年五月一日の「勧業会設置規則」(資社経上 一五)による各町村の勧業会が早い例である。同年一一月に関県令は、勤倹その他の目的から町村内に数十戸単位の組合設置を示達した。野間郡紺原村組合規約を例にみると、納税から扶助・就学・日常の飲食の注意まで一一章四三条から成る詳細な規定である。また市町村制の施行により、農民間にも自治の機運の盛り上がりがみえた。
 戦時期の農業会、戦後の農業協同組合以前の農政の推進母胎は農会である。他県に遅れた愛媛では全県のいち早い組織化が要望されたが、まず明治二五年一〇月、勝間田知事を会長に一市六郡農会を設立させ、翌年四月から物産共進会を開いて気勢をあげた。県民の機運をみて明治二九年三月一日「農会設置準則」(資社経上 二一~二二)により町村農会を六月、郡農会を八月までに設置させ、同年末には各郡五人の議員により、会長を武市庫太として一挙に愛媛県農会が発足した。農会は明治三二年六月の「農会法」で法人化され、同四三年一一月の改正で「帝国農会」が成立してより強力な農業団体となった。新居郡農会は、各町村農会を会員に西条町妙昌寺で創立総会を開き、明治三〇年末に試験場を設置し、同三六年度から技師を置いた。事業は県にならった農事講習講話や米作改良、肥料の共同購入、養鶏奨励、桑園や種牛への補助などであった(「新居郡誌」)。温泉郡石井村の岡田温は、明治三四年に同郡農会技師となったが、同三八年五月、県農会技師となり煙害被害の調査にも当たった。後に帝国農会の幹事となるなど、その生涯を農政に尽くしている。
 伊予郡北伊予村農会は、会員六二八名で大字ごとの区農会もあった。会長・副会長・幹事二名・評議員七名・審査員九名の役員をおき、村から毎年三二〇円の補助を受けている(「松前町誌」)。また作毛品評会開催時には、明治三三年一月二四日の「町村農会補助規程」(資近代3 二四〇)により、五~一〇円の補助を受けた。日露開戦中の明治三七年五月一四日、県は戦役の長期化の予想から「戦時農業督励規程」により、村ごとに農業督励部を置いて増産を指示し、同三九年二月の「愛媛県農業督励規程」と共に、農会と合わせて農業政策の一層の徹底を図った(資社経上 二七・三一)。
 農民や農村のための金融・経済面の組織は、明治三〇年ごろ各所で作られ、八幡浜の神山菓徳会、松前の筒井有功社貯金組合などがあった。同三三年三月、信用・販売・購買諸事業を兼営する「産業組合法」が成立、大正初年は全町村に揃って農会と並ぶ大農業団体となった。県下産業組合の第一号は、菓徳会を明治三三年一一月に改組した「神山信用購買組合」で、事務所を矢野町におき、八幡浜や双岩(ふたいわ)など六か町村を区域とした。同三四年六月の組合員は四五四名、出資金は一口二〇円、払い込み済出資金合計二、九七三円であった(「八幡浜市誌」)。
 先の種芸試験場に代わり、県農会の運動もあって明治三三年四月、余土村に愛媛県農事試験場、北宇和郡八幡(やわた)村(現宇和島市内)に同南予分場、周桑郡小松町に東予分場が開場し(資近代3 二四〇)、同時に県立農業学校も開校した。初期の業務は病害虫の調査と駆除法の研究であった。ついで実業学校令や時代の要請から明治三四年に宇摩・新居郡、同三六年周桑郡を手始めに次々と郡立の農業や農蚕学校が設立され、数多くの技術者を育成した。同三四年には各小学校に農業補習学校が附設され、同三六年ごろから郡役所や郡農会にも専門技術員を置くなど、明治後期には科学的農法への布石が次々と打たれた。

 果樹農業の成立

 温暖で、排水良好の土壌や丘陵地に恵まれた本県は、早くから果樹栽培が盛んであった。しかし明治初年までは自家用の域を出ず、屋敷や畑の隅に自生に近い形で植えられていた。愛媛県の統計書類に果樹が登場するのは明治三〇年代であるが、初期には樹木数で把握している。果樹は本来商品的な作物であり、明治二一年の産額では、全農産物の八・八%にも達している。明治中期から各地の先覚者により特産地が形成されはじめるが、大正ごろまでは技術・市場面での失敗も多く、産地や品目の交替・盛衰が激しい。全県的にみれば明治四〇年代から櫨・綿に代わって梨と温州(うんしゅう)みかんが確実に伸びてくる。生産の増大と市場の開拓は不可分の関係にあり、明治三九年三津果物市㈱、同四〇年には商人の出荷組合「吉田立喜組」が設立され、大正初年には、郡単位の同業組合が結成された。
 柑橘の産地形成は、北宇和郡立間(たちま)村(現吉田町)が早く、加賀山平次郎らの努力によって明治一〇年代には全村に普及した。明治一六年には宇都宮誠集が三崎村に夏柑を導入し、そのころ中予では温泉郡余土村の三好保徳が夏柑を、同三二年ごろには伊予柑を導入している。東予では越智郡関前(せきぜん)村が早く、広島県大長(おおちょう)村の進出に刺激されて明治二一年三反、四四年一一町三反、大正四年三八町八反と栽培面積が伸びている(関前村郷土誌)。その他明治後期の特産地としては、温泉郡浅海(あさなみ)(現北条市内)・湯山・桑原各村と久米郡小野村(いずれも現松山市内)の梨、温泉郡興居島(ごごしま)村(現松山市内)のりんごと桃、伊予郡南山崎村唐川(からかわ)(現伊予市内)の枇杷(びわ)などがあった。

 畜産業の展開

 明治期の牛馬の飼育は農耕・採肥・荷役を主目的としたが、肉用・乳用・乗馬用への改良も続けられ、やがては農家の副業から産業へと成長した。県下の牛馬頭数は、明治三三年で牛三万九、九二六頭(全国一二位)、馬は一万四、三二六頭(二九位)で、牛中心の西日本型である(「帝国統計年鑑」)。県内では牛は東予の平坦地に多く漸増傾向、馬は中南予の山間に多いが、牛耕と交通機関の発達により急減している。県は牛馬の改良のため、明治一〇年から種牛を買い入れて貸し付けを開始した。明治一四年三月一二日「牛乳搾取並販売取締規則」(近代2 二二五~二二七)を布告し、同一九年一月二九日の「種用牡牛馬取締規則」により、種用は合格証書所有に限るとした(資社経上 二六八)。馬の改良は、日清日露両戦役後に急速に進んだ。
 明治期には六~七年・九年・二一年・二五年・二八年など牛馬の疫病の大流行があって、飼育農家の意欲を減退させた。防疫や改良には、優秀な獣医が必要であったが、従来の伯楽(ばくろう)・馬医は知識技術に欠け、不適格者もいたので明治一八年、県はこれを免許制とした。しかし牛馬数に比して獣医の不足は著しく、翌年獣医学講習所によりとりあえず二一人を養成した。同二〇年一二月には県立獣医学校を設立し、翌年五月に四一名を入学させた(近代2 四六二~四六七)。同校は獣医養成機関としては、東京駒場学校の外、地方唯一であった。この年、喜多秀穂が松山に開いた講習所を卒業した越智郡桜井村の飯尾(いいお)平太は、その生涯を牛馬の診療や飼育普及に努めた一人である。
 明治三七年一二月、牛馬の増殖や改良・牛馬市場の公営などの目的で、南宇和郡牛馬組合が設立された。続いて温泉・東宇和と各郡もこれにならい、大正二年四月の伊予郡を最後に全郡が揃い、同年六月に県の連合会が結成された。

 家畜市場

 地租改正により、秣(まぐさ)場であった入会山の多くが官有となり、農家の牛馬飼育熱は一時減退した。しかし牧畜の将来に賭ける南宇和郡東外海村(現城辺町内)の小幡(おばた)進一は、明治一一年一月に牧場開業の許可を得て、農家に預託の方法で頭数を増やした。明治二二年一二〇頭、同三〇年は三〇〇頭にもなり、小幡の努力によって同郡の飼育熱は高まり、御荘(みしょう)牛の声価を回復した(「南宇和郡郷土誌雑稿」)。
 牛馬飼育は農家の副業としても重要な現金収入源であったが、取り引きは庭先が多く、牛馬市に出荷しても仲介の家畜商があって、農家には不利益となった。県は取り引きの公正と農家の保護のため明治五年一一月四日の「牛馬売買に関する取締規則」(資社経上 二六七)、同四二年四月二八日の「家畜市場取締規則」などにより規制した。大正初年の定期家畜市場は新居・上浮穴各郡二、周桑三、越智・温泉・伊予各郡四、喜多九、西宇和七、東宇和・北宇和各郡六の計四七か所で南予が多い。久万野尻(のじり)市・八幡浜矢野町などは長い歴史を持ち、近県にも知られた市でもある。
 食肉とともに、牛乳飲用の習慣も明治初年からはじまるが、初期には旧士族も乳牛を飼育した。頭数が増加すると県は明治一四年三月「牛乳営業取締規則」を布告した。多産地は温泉郡中島で、明治二三年に牛馬商の中野藤松が導入し、肥育牛としてではあったが明治末期には六~七〇〇頭に達した。乳用としては同三七年二月、松山市域の需要を期待した伊予郡岡田村の三好牧場が二〇頭を飼育した(「松前町誌」)。

 林野制度

 林野行政は、山林局の設置によって次第に全国画一的となり管理・指導が強化される方向に進んだ。県下の国有林を管轄する愛媛大林区署は、明治二六年一〇月に高知大林区署に合併し、同三〇年六月に分離、同三六年一二月再び合併した。その度に下部の小林区署や派出所も、所管・名称などが変更された。
 明治二一年からの市町村制の公布・施行に当たっては、旧村有の林野の帰属が大問題となった。個人や共有名義に変更したり、部落有のままで共同使用権を設定したり、部落の財産区として専有されるなど種々の形となったが、いずれにしても小面積の森林区の存在は、新市町村の基本財産作りや円滑な森林行政を妨げるもので、県は整理の方針を進めた。明治三八年三月の「公有林野整理規則」、同四四年三月の同施業規則(資社経上 四一七)がそれで、同四三年一一月末の町村有林九、八〇〇町歩、部落有林四万六、二〇〇町歩が、同四五年五月には町村有二万八、四〇〇町歩、部落有二万七、六〇〇町歩と減少している(「愛媛県誌稿」)。
 明治三〇年四月、国土保全と林産物の増産を目的とした「森林法」が公布された(資社経上 三九九)。本法及び改正森林法・同施行細則は、森林の区分、営林の監督、保安林の設定、森林組合や森林警察などを規定した森林の基本法で、荒廃しがちの私有林の利用と保護も、大きく前進した。種苗の研究は、明治一二、三年ごろは下浮穴郡上林(かんばやし)村(現重信町内)・温泉郡畑寺村(現松山市内)などにある県勧業課管轄の試験場で行われていた。同三一年には地方課に山林係を設け、技師・県属各一名をおいて調査と指導を進めている。明治期の林産物は、用材に比して薪炭や下草(したくさ)など副産物の利用度が高い。製炭業は別子銅山を含む東予や、大阪市場と結びついた南北宇和郡が早くから発展したが、次第に全県で盛んとなった。また明治末期には三一年一〇月に宇和島材木会社、明治三三年三月は長浜に肱川材木㈱、同四〇年五月に内子の肱川製材場など製材工場も創立された。

 植林と林業地域

 初期の植林は、森林の荒廃を憂い、将来に備える先覚者の卓見と努力によるところが大きい。別子銅山付近の山林も維新後は官有化されたが、明治八年以降に植林の名目で借地を願い、約二万町歩が許可された。植林は明治九年からはじめられ、同一一年に宮崎県、同二七年に奈良県吉野から植林技師を招いている。同一五年に苗木栽培所を設け、同二二年八月の大災害を機に本格的植林を行い、明治三七、八年ごろは年間五五〇町歩を植えている。
 大保木(おおふき)・加茂両村(現西条市内)を中心とする加茂川上流も、造林の先進地域で、大保木村長酒井蔵一郎らにより村有林や学校林に、植林が進められた。周桑郡中川村村長越智茂登太(もとた)は、明治三三年に払い下げを受けた九町歩の国有林への植林を第一歩とし、村民を説得して全村有林七六〇町歩に植林を行った。明治二三年一〇月、約二、五〇〇町歩の野山を所有した越智郡日高(ひだか)村外一三か町村組合は、初代組合長曽我部右吉の提唱で、明治三六年から造林に着手し、一〇年計画で二六九町歩を植林した。さらに植林の能率向上のため、同三七年八月から部分林制度をとり入れて、村や部落単位に山林を貸し付けて植林をさせた。また県の要請によって日露開戦記念学校林を設定し、管内一九小学校に約三町歩ずつを貸し付けた(「共有山組合八〇年史」)。
 久万林業の基礎は、明治六年三月に境内や自己所有地に杉の植林をした大宝寺(だいほうじ)の僧井部栄範(えいはん)にはじまる。明治一四年九月までに一五町歩に植林を行ったが、菅生(すごう)村戸長に就任した同一二年から、共有山へも全一五〇戸へ二〇〇本ずつの植林を決議し、同一五年までに一〇万本を植え付けた。先進地和歌山生まれの井部は、林業こそ山村振興の道と確信するものであった。井部は明治三一年に愛媛県地方山林会議員となり、大正三年に久万造林㈱を創立した。久万地方は無節材・磨丸太の集約的産地として著名である。
 柳谷(やなだに)地方では、予土(よど)横断道路の開通により林業が注目され、鶴井儀太郎らにより植林が進められた。喜多郡では明治三一年に五十崎(いかざき)村村長に就任した高野島太郎が、禿山であった神南(かんなん)山に造林を進めた。東宇和郡では明治二三年から横林(よこばやし)・俵津(たわらず)・野村各村村長を勤め植林に献身した″山林村長″大野三次がいる。
 県は明治三四年六月二六日の「山林植樹費補助規程」により、一町歩以上の植林には補助を行った。同三七年には日露戦役記念林の設置を訓令し、県下二八〇か所に二、〇〇〇町を植林した。明治四三年六月二五日「造林補助金下付規則」(資社経上 四〇四~四〇五、四一五~四一七)により町村林の植栽を勧め、同四五年一月「荒廃地復旧費補助規則」を公布、ついで第一期治水事業を計画した。明治三三年度から大正元年までの間、県の植林補助額は約七万円に達している。

表2-4 愛媛県の産業別生産額の推移

表2-4 愛媛県の産業別生産額の推移


表2-5 愛媛県耕地面積の推移

表2-5 愛媛県耕地面積の推移


表2-6 郡市別自小作別農家数

表2-6 郡市別自小作別農家数


表2-7 愛媛県主要作物の作付けと全国順位

表2-7 愛媛県主要作物の作付けと全国順位


表2-8 郡市別主要作物の作付け面積

表2-8 郡市別主要作物の作付け面積


表2-9 愛媛県主要作物の作付けと生産

表2-9 愛媛県主要作物の作付けと生産


表2-10 愛媛県主要農産物の移出入

表2-10 愛媛県主要農産物の移出入


表2-11 郡市別米麦作の生産

表2-11 郡市別米麦作の生産


表2-12 各地の作付け主要水稲品種

表2-12 各地の作付け主要水稲品種


表2-13 明治中期の反当り稲作労働

表2-13 明治中期の反当り稲作労働