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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

一 松山市の誕生

 市制・町村制

 大日本帝国憲法の発布を中にはさんだ、明治二一年「市制」「町村制」と同二三年の「府県制」「郡制」公布は、三新法の下での地方制度を大枠で継承しつつも、その実体を抜本的に変えようとするものであった。その大綱は、町村を最下級区画として、郡市・府県という包括的な区画を自治体とする「三階級ノ自治体」で構成し、それぞれに「自主ノ権」を付与し、分権の主義により行政の事務を分任する義務を負わせて、政府監督下の独立法人とすることであった。改革の要点の第一は、府県・郡市・町村それぞれの自治団体として法人権を認知したこと、第二は、それぞれの内部において不明確であった官治行政機構と自治的機能の分野と関係を一つの法体系の中に一本化するとともに、法人としての基本的・具体的機能を確立したこと、第三には、行政区画・機構と自治団体の区画を合致させたことであった。
 明治一六年一二月に内務卿となった山県有朋はドイツ人アルベルト=モッセを招いて市制・町村制の制定に当たらせた。同二〇年九月に法案の原案ができて閣議にかけられ、元老院に付議された。元老院では町村長を公選することについて強い反対があり、官選説まで出たが山県は真の自治の精神を養うためには公選でなくてはならぬと主張して原案を通した。こうして山県の努力で大体原案のままで町村制は二一年一月に、市制は同二月に通過し、明治二一年四月一七日に法律第一号で公布された。市制・町村制の内容を紹介すると次のようである。

 〈市町村会〉 市町村会の選挙権及び被選挙権があるのは住民の中の公民であった。公民とは、満二五歳以上の一戸を構える男子で二年以上市町村の住民となり地租・直接国税二円以上を納める者をいう。選挙は等級制が採用され、市では三級制、町村では二級制で行われる。すなわち選挙人全部の納める直接市税の総額を三等分して、最多額納税者の属する群を一級選挙人とし、その下位に属する者をそれぞれ二級選挙人・三級選挙人とする。選挙人は各級ごとに議員定員の三分の一を選挙する。議員は名誉職で、任期は六年、三年ごとに半数を改選することになっていた。
 市町村会で議決すべき事件の概目は、市町村条例及び規則の設定改正、市町村費で支弁すべき事業、歳入出予算の審議、決算報告の認定、基本財産の処分、市町村有財産及び営造物の管理方法の決定など一一件であった。市会は議長を互選したが、町村会は町村長が議長を務めた。

 〈市町村行政〉 市の執行機関は市参事会員、町村の執行機関は町村長である。市参事会は市長・助役及び六名の名誉職参事会員をもって組織し、市長がこれを招集し議長となる。市長は有給で、任期は六年、内務大臣が市会の推薦した三名の候補者の内から天皇に上奏、その裁可を請うて選任する。市助役・名誉職参事会員は市会が選挙するが、助役については府県知事の認可を受けなければならない。
 町村長及び助役は、町村会がその町村公民の中から選挙する。任期は四年で、名誉職を原則とするが、町村の情況により条例を定めて有給とすることができる。その外、市町村にそれぞれ収入役が置かれるが、市の収入役は市参事会の推薦により市会が選任し、町村の収入役は町村長の推薦により町村会が選任した。

 〈市町村の財務〉 市町村の収入とされたものは、財産収入、使用料・手数料、市町村税及び夫役現品が主要なものである。市町村税には国税・府県税の附加税と特別税の二種があり、特別税は税目を起こして課税する必要のある時のみ徴収するとされた。また公債発行の権限も認められていたが、天災地変などやむを得ない支出か市町村の永久の利益となるべき支出を要する際の住民負担に耐えない場合に限られた。しかし市町村は、市制・町村制によって委任事務を数多く背負わされて予算規模が膨張し、税収入は制限率が定められていたため財政は急速に悪化したので、いきおい公債に頼らざるを得なかった。

 〈監督〉 市の場合は第一次に府県知事、第二次に内務大臣が監督する。これに対して町村の場合は第一次に郡長が監督するものとされた。監督官庁は市町村行政が法律命令に反しないか、事務が正常に運営されているかどうかを監視すべきものとされた。監視は、行政事務に関して報告させ、予算・決算などの書類帳簿を徴し、また実地に執務状況を視察し出納を検閲する方法がとられた。

 市制の施行

 市制では人口二万五、〇〇〇以上の市街地であることが標準で、それ以下でも商業繁盛で将来発展の予想されるものは市とする方針で、明治二二年二月二日内務省告示第一号を以て指定されたものは三六であったが当該府県の事情によって必ずしも発令が予定通りにはいかなかった。香川県が高松に市制を、県下各町村に町村制を施行したのは、共に翌二三年二月一五日というような特例もあった。
 明治二二年中に施行されたのは三九市で、まず四月一日に、京都、大阪、堺、横浜、神戸、姫路、長崎、新潟、水戸、津、静岡、仙台、盛岡、弘前、山形、米沢、秋田、福井、金沢、富山、高岡、松江、広島、赤間関(同三五年下関と改称)、和歌山、高知、福岡、久留米、佐賀、熊本、鹿児島の三一市が施行された。ついで、五月一日東京、六月一日岡山、七月一日甲府、岐阜、一〇月一日名古屋、鳥取、徳島、一二月一五日松山にそれぞれ市制が施行された。
 明治二二年中に市制執行された三九市の中でも松山市は、その年も押し迫った一二月一五日に施行する旨の予告が一二月三日付の官報に掲載されている。

 松山市の発足

 明治二二年一二月一五日に松山市が本県最初の市として誕生した。全国で三九番目に名乗りをあげたことになる。これは温泉郡の旧市街地一〇〇町に隣接の中村・味酒村・立花村・持田村の各一部を加えたもので、戸数七、五一九戸、人口三万二、九一六人であった(資近代2 四一六)。
 当時の市は人口二万五、〇〇〇以上の市街地で、郡と対等の資力を持つものであったから松山の場合、十分な実力を持つとされた。
 市は法律上は一個人と同じ権利義務を持ち、官の監督下で公共の事務を処理するものであり、吏員としては市長一名の外は、松山市の場合助役一名、収入役一名、その他の吏員若干名、参事会員六名、市会議員三〇名を擁することになり、ここに温泉郡の管轄を離れて独立の自治体となったのである。

 市会議員と市長選挙

 市制実施に伴い翌二三年一月四、五日に第一回の市会議員選挙が実施された。選挙の結果は一級選出が山本盛信・仲田傳之□(長に公)ら一〇名、二級選出が堀内胖治郎・栗田卯三郎ら一〇名、三級選出が藤野政高・小林信近ら一〇名の計三〇名が当選し、その後互選して議長は小林信近、議長代理は藤野政高と決まった。
 ついで市長候補者の選挙を行った。松山市会では小林信近・土屋正蒙・木村利武の順位で三人の候補者を選んだが、開設当初の伊予鉄道の経営に当たる小林と、温泉風早和気久米郡長の職にあった土屋が固辞したため木村を最適任者との意見書を添えて山県内務大臣に申請し、二月六日付で天皇の裁可が下りた。松山藩士族の木村は市会議員を辞任して初代松山市長に就任し、湊町四丁目の円光寺に仮庁舎を設け、四月一日から開庁した。
 庁舎は明治二四年一二月に出淵町二丁目に新築落成した。初代木村市長は二九年二月に満期退職し、二代白川福儀、三代浅野長道、四代長井政光といずれも旧松山藩士族の市長がつづき、共に県会や市会の議員、郡長を勤めた知識人で任期満了まで在任、ことに四代長井市長は明治四一年二月から三期市長を務めている。その後も五代加藤恒忠、六代岩崎一高、七代御手洗忠孝と士族出身の著名人が引き続いて市政を担当している。
 その後の市会議員選挙は、三年ごとに半数改選と任期中の議員辞職に伴う補欠選挙が行われた。選挙に当たって、町民有志が古町・外側ごとに予選会を開いてあらかじめ定員数の候補者を内定して新聞に広告、有権者の同意を求めた。こうした地区割による古町・外側の争いがしばらく続いた後、明治四〇年代に至り党派の予選会・選挙戦が展開されるようになった。
 有権者は明治二九年一月の選挙で一、一二一人(市人口の三・七%)、同四一年の選挙で一、七〇九人(一級六九人・二級三四八人・三級一、二九二人、市人口の四・五%)であり、市民中四%前後の公民が多額納税者に重く少額納税者に軽い価値格差をもって投票していたのである。

 松山市政と財政

 明治時代の松山市政は教育の振興、環境衛生の整備を主要施策とした。
 市制施行当時の松山には外側(二番町)と古町(木屋町)の二尋常小学校と郡立松山高等小学校とがあったが、高等小学校は明治二六年から市立に移った。松山高等小学校の校地は外側尋常小学校の位置に設定され、外側尋常小学校は新校地を選定する必要に迫られた。この際同校の二分割が提出され、市参事会を経て明治二六年一一月市会を通過した。新設校は第三尋常小学校(南八坂町)と称し、外側・古町は松山第一・第二と改称した。この結果、松山第一尋常小学校の移転は見送られ、明治三二年に校舎が新築された。その後の学齢児童の増加と小学校校舎の老朽化で、市当局は明治三五年に教育施設整備計画を立て、同三五年九月の市会に上程したが、財源捻出方法に問題があったのでこれを手直しして同三六年一二月の市会に再提出、可決された。
 同計画案は、三か年計画で第一尋常小学校の移転新築と第四尋常小学校の新設、第二尋常小学校校舎の増築を計るもので、県教育資金からの借用起債三万二〇〇円を財源としていた(松山市史料集第一一巻一〇二七~一〇三二)。しかしこの整備計画の実施は日露戦争勃発に伴う政府の厳しい地方費抑制策によって延期され、戦後の明治三九年度から計画を変更、第一尋常小学校の移転を中止し第五尋常小学校新設と高等小学校改築を加えて、大正初年度まで数年間の継続事業として実施された。この計画により、明治四一年第四尋常小学校(喜与町)、同四三年第五尋常小学校(藤原町)がそれぞれ新設開校した。また明治四二年には工業徒弟学校を設立した。
 市制発足で事務多忙の際、明治二三年八月一九日から一〇月二五日にかけてコレラが流行、患者三八人中二八人の死者を出すという猛威を振るった。市では村松助役を予防委員長とし、衛生関係職員の外に八人を予防消毒に従事せしめ市内各地において清潔法を実施した。また、弥八馬場避病院の借り入れ、消毒所の建設なども併行して行われた。
 市制施行当初におけるコレラの流行は環境整備の必要を痛感させた。翌二四年一月市は「松山市衛生組合規則」を制定布告し、市内大字単位に衛生組合の結成を促し、各戸共同して日常清潔法の励行と伝染病流行の際の予防に当たることを求め、その具体的内容を指示した(松山市史料集第一二巻 三五七)。塵芥処理についても棄却所を立花町・木屋口など一〇か所に設け、車三両で収集に当たった。また同二五年一月の市会は大街道川筋を清掃するため三八〇円の支出を可決した。
 明治二六年には天然痘が流行、強制種痘を古町・外側の臨時種痘所で実施した結果、発病を二人で食い止めた。ところが、同年七月より赤痢が大流行、患者一、〇二九人を出し、二七五人が死亡した(松山市史料集第一二巻 三五八~三六〇)。市当局は村松助役を予防委員長とする防疫態勢をとり松山警察署からも多数の応援があり、最盛期には検疫所を市役所から妙清寺に移してこれに対応した。この赤痢大流行を機に市内の衛生設備について根本的な検討が加えられ、市会に諮って弁天町外四一か町の下水改善工事の促進、公衆便所六六か所の改修と一二か所の新設などを決した。また明治二七年四月県有避病院の払い下げを受け、同二八年六月の「松山市避病院仮規則」でその運営を示した。避病院は明治三六年土居田に移転新築され松山市伝染病院と称した。明治三〇年には「伝染病ニ係ル救助並ニ救療規程」が定められて救助米や貧民患者・死者の救療制度が整い、同三二年には市医や衛生委員が任命された(松山市史料集第一二巻 三六一~三六四)。同年、「汚物掃除法」が発布され、県令の規定により監督長一名・監督二名・巡視六名を任用して市中の清掃に努めた。同三三年には市内を三区に分け、塵芥を採集するとともに中ノ川・大法寺川外小溝一七か所の浚渫を月四、五回実施した。市制発足以来の懸案であった下水道の施設は明治四四年から調査測量を開始、大正五年に着工した。
 市役所が開庁され本格的な市財政が発足した明治二三年度一般会計は一万二、七六九円であった。それが明治四五年には一二万九、五二六円とほぼ一〇倍に膨張した。歳入は市税が明治二三年時で全体の六四%、同四五年時で七一%を占め、市の財源は市民の税負担に依存していた。市税は国税・地方税の付加税(地価割所得税割・戸別割営業割)の形で徴収された。歳出経常費は役所費・教育費・土木費・勧業費・衛生費・救育費などで構成されている。このうち教育費は明治二三年時で全体の四二%、同四五年時で五四・六%を占め、小学校経営のための教育費が市財政の大きい重荷になっていたことがうかがえる。教育費に次ぐのが役所費であり、土木費は明治二七年まで、勧業費は明治三二年まで予算を計上していない。明治四五年に至っても土木費はわずか二%、勧業費は一%にも達していない(松山市史料集第一一巻 一五三一~一五三四)。